紫苑の誓約ー甘美な愛とすれ違いの愛の果てに、記憶を失くした皇太女を変わらず溺愛するー

苺迷音

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48 離宮の日々 2

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 午後、ジュノは離宮の図書室を訪れた。壁一面に本棚が並び、革装丁の本がぎっしりと詰まっている。木製の机と椅子。窓からは、庭園が見える。西日が差し込み、部屋全体が温かな光に包まれていた。

 静かで、落ち着いた空間。

「ここは……」

 ジュノは、図書室を見渡した。

「図書室でございます」

 エレナが、答えた。

「姫様は、読書がお好きでした」

「そうだったのですね」

 ジュノは、本棚に近づいた。並べられている背表紙を見ていく。だが、どれも見覚えはもちろん、読んだ記憶も無い。

「何か、お読みになられたいご本などございますか?」

 エレナが、尋ねた。

「ごめんなさい。何を読めばいいのか……それもわからないです」

 そう言ったジュノは、書架の中の一冊に手を伸ばし、手元に取った。そして表紙の装丁を撫でる。そこには、鮮やかな花の柄が描かれていた。

「でも……この本、綺麗」

「それは、植物図鑑でございます」

「植物図鑑……」

 ジュノは、本を開いた。

 ページをめくると、色とりどりの花の絵が描かれている。簡単な説明文もあった。

「綺麗……。それに私、文字は読めるみたい。書かれてあることが理解できます」

「まぁ! それはよかったです。どうぞ、ごゆっくりお読みくださいませ」

 エレナは、ジュノを図書館の中央に置かれてある長机と椅子に案内すると、そこへ座るようにと椅子を引きジュノを促した。ジュノは礼を一つ言うと、椅子に座って本を読み始める。

 その時――

「失礼します」

 静寂を破る様に扉が開き、リュシアンが入ってきた。

「リュシアン様」

 ジュノは、顔を上げた。

「こんにちは」

「こんにちは、ジュノ様」

 リュシアンは、優雅に微笑んだ。

「読書ですか」

「はい」

 ジュノは本を持ち上げ、表紙をリュシアンに見せる。

「植物図鑑です。どうやら私、文字は覚えているみたいで。嬉しくて、今読んでいたところです」

「なるほど」

 リュシアンは、ゆっくりとジュノの隣に座った。

「私も、読書は好きなのですよ」

「そうなのですか?」

 ジュノは、興味深そうにリュシアンを真っ直ぐ見て微笑む。

「では今度、お勧めの本を教えて貰ってもいいですか?」

「もちろん、喜んで」

 リュシアンは、頷いた。



 二人は、しばらく黙って本を読んだ。

 静寂が、心地よく二人を包む。窓の外からは、鳥のさえずりが聞こえる。

 ジュノは、ページをめくりながら、時折リュシアンに尋ねた。

「この花、何という名前ですか? この花の名前が書かれてなくて……」

「シオンです」

「シオン……」

 ジュノは、絵を見つめた。

「可愛いですね。それになんだか……」

「この花の色は、ジュノ様の瞳の色と同じですね」

 リュシアンは、ジュノの横顔をそっと見つめる。

「小さくて、可憐な花です」

「はい。とっても。ありがとうございます。勉強になりました」

 ジュノは、シオンの花の絵を見ながらも、その響きになんだか覚えのない気持ちになった。だがそれが何なのか、その正体がわからない。もしかしたら、知っている花だったのかも。そう思い、そのまま次のページを開いた。

 リュシアンは、ジュノの横顔を見つめ続けていた。西に傾きかけた窓の外の陽が、ジュノの顔を照らし、紫水晶の瞳が、本を見つめている。

 その姿は、少女のように無垢だった。リュシアンが今まで見た事のない、ジュノの素顔とも言えた。

 リュシアンの胸が、わずかに温かくなる。

(ジュノ様……)

 記憶を失ったジュノは、かつてのジュノとは違う。だが、美しい。いや以前よりもっと――

 今のジュノには、かつてなかった「無垢な可憐さ」があった。それが、危険なほどに魅力的だ。危うく、理性を揺るがすほどに。

 リュシアンは、視線を本に戻すが、意識はジュノに向き、決して離れることはなかった。



 夕方、ジュノはエレナと共に礼拝堂を訪れた。離宮の一角にある小さな礼拝堂。ステンドグラスから差し込む夕日が、床に赤や青の色彩を落としている。

 中央には、祭壇がある。静かで、神聖な空間。

「ここは……」

 ジュノは、礼拝堂を見渡した。

「礼拝堂でございます」

 エレナが、答えた。

「姫様は時々、こちらで祈りを捧げておられました」

「祈りを……」

 ジュノは、祭壇に近づいたと同時に

「姫様」

 静かに傍に歩み寄る、ゼノアの姿があった。夕日を受けた彼の姿は、輝く長い銀髪を揺らしながら、どこか神々しさが漂わせていた。

「ゼノア様、こんにちは」

「こんにちは、姫様」

 ゼノアは、静かに微笑んだ。

「祈りを捧げに?」

「はい」

 ジュノは、頷いた。

「でも……どうやって祈ればいいのか、わからなくて」

「では、ご一緒しましょう」

 ゼノアは、ジュノの手をそっと取り、隣に立った。

「私に、ついてきてください」

 ゼノアは、祭壇の前に跪いた。ジュノも、それに倣い隣に跪く。

 手を胸の前で組み、ゼノアは静かに祈りを始めた。ジュノも見様見真似で同じ様に手を組む。

「聖なる光よ……」

 ゼノアの声は、低く荘厳だった。その言葉を心の中で反復するジュノ。

「我らを、お導きください」

 ジュノは、ゼノアの声を聞きながら、目を閉じた。

 静寂。

 ステンドグラスから差し込む光が、二人を包む。

 ジュノは、不思議な安らぎを感じた。心が、穏やかになり、表現できない心地よさに身体が包まれた。

 祈りが終わり、二人は立ち上がった。

「ありがとうございます。なんだか心が、落ち着きました」

「それは、良かったです」

 ゼノアは、静かに微笑んだ。そして、ジュノの手を再びそっと握り

「姫様。焦らずに、ゆっくりと。記憶は、必ず戻ります」

 ゼノアの柔らかい声に、ジュノは小さく頷いた。

「……はい」

 ゼノアは、ジュノの顔を見つめる。

 夕日が、ジュノの横顔を照らしている。いつも纏っていた気高さは、陰を顰めた穏やかな表情。

 その姿は、天使のように美しかった。ゼノアの胸が、わずかに温かくなる。ジュノと初めて会ったあの日。その時の姿を彷彿とさせる。まだ皇太女になる前の――

 だが、同時に警戒心も芽生えた。

(この無垢さは――危険だ)

 ゼノアは、心の中で呟いた。

(姫様ご自身は気づかれてないが、この純粋さは男たちを……狂わせる)
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