紫苑の誓約ー甘美な愛とすれ違いの愛の果てに、記憶を失くした皇太女を変わらず溺愛するー

苺迷音

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95 図書室の推理

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 その日は、朝から雨だった。

 窓を叩く雨粒の音が、絶え間なく聞こえている。その音で目を覚ましたジュノは、ベッドから起き上がるとカーテンの隙間から外を眺めた。灰色に濁った空。庭の木々も、枝を垂れて雨に打たれている。

 庭の手入れを庭師と共にしていたジュノは、少し残念な気持ちになった。今日は庭へ出ることは出来ないと考えながら、朧げに庭師の言葉を思い出していた。

『今は季節の変わり目ですから。一雨ごとに季節も進んでいきます。その時の雨は植物にとっては恵みの雨となって、強く成長させてくれるんです』

 そう言いながら、丁寧に花壇の手入れをしていた老練な庭師の顔が、ジュノの脳裏に浮かぶ。窓の下に見える花壇を見ると、雨に打たれながらも、その花々は確かに存在している。

「そうね。今日は庭のお手入れは出来ないけれど、植物たちは喜んでいるのかも」

 そう呟いたジュノは、花々が美しく成長します様にと、心の中でそっと願いを込めた。

 暫くそうやって窓の外の景色を眺めていると、扉が静かに叩かれ、ゆっくりと開く。朝の支度を告げに、エレナが入ってきた。

「お目覚めでございましたか、姫様」

 いつもと変わらない穏やかな表情で、エレナが挨拶をする。

「おはようございます。エレナ」

「朝のご準備をお手伝いさせていただきますね」

 エレナは手早く身支度の品を整えると、ジュノの着替えを手伝い、続けて背後に回って髪を梳き始めた。ブラシの動きは丁寧で、結い上げていく指先も、迷いなく滑らかに動いていた。

 髪を整えている間、エレナが静かに声を掛ける。

「今日は、どのようにお過ごしになられますか?」

 ジュノは、鏡に映る自分の髪が結い上げられている様子を眺めていた。

「今日は雨だものね」

「そうですね。庭へもお出になれないでしょう」

 エレナが髪を整え終わり、ブラシを鏡台に置くと一歩後ろへ下がる。仕上がったという合図だ。

「では、図書室でお過ごしになられてみてはどうでしょうか?」

 ジュノはエレナの提案を聞いて、短い間を置いてから微かに口元を緩めた。

「ええそうね。そうしようかしら。朝食の後、図書室へ行ってみましょう」

「はい。畏まりました」

 返事の後エレナは、部屋の隅に置いてある取っ手の付いた籠を取る。その中に、ジュノのための膝掛けや、刺繍道具などを丁寧に詰めていった。



 朝食を終えたライネルは、リュシアンが持ち帰った書類の束を手に、図書室へ向かっていた。別荘の廊下を、音も立てずに静かに歩を進める。

 手に持つ書類から、何かヒントが得られないか。南方・北方・東方、それぞれの地域に赴いたことのあるライネルは、自らの知識を照らし合わせ、さらに深く調べるつもりだった。

 図書室の前に着いたライネルが扉を開くと、静けさが流れ込んでくる。
 
 アンドレウス家の別荘の中にある図書室は、邸の中でも特に広い空間だった。壁には床から天井まで、無数の本が並んでいる。窓には雨粒が、上から下へと幾本もの透明な線を描いていた。

 図書室の奥に、二つの人影がリュシアンの目に留まった。既に先客がいる。ジュノだ。彼女は本を手に、ページをめくっている。曇天から零れ落ちる雨の中、僅かな光が図書室にも差し込む。その中で、何かの本に夢中になっているジュノの髪は、仄かな光の中でも輝いて見えた。ジュノから距離を置いた後方には、エレナが簡易椅子に腰かけて刺繍をしている。足元には、キャウが丸くなっていた。

 ライネルが一歩、図書室に足を踏み入れたと同時に、キャウの耳がぴくりと動いた。キャウの鼻が、ライネルの匂いを感じ取る。くんくんと鼻を鳴らし、扉の方へ視線を向ける。そして小刻みに尻尾を左右に振り出した。

 キャウのその反応にエレナは気づき、刺繍の手を止め扉の方に視線を向けると、ライネルと目が合った。エレナは音を殺しながらも、少し慌てた様子で椅子から立ち上がり、丁寧に頭を垂れる。

 ライネルは、小さく頷いた。口に人差し指を立てて「静かに」と無言で合図する。エレナは微笑みながら頷き返し、再び座ると刺繍針を動かすことに戻った。

 ライネルは静かにジュノの前に座ると、口元に微笑みを浮かべる。暫くジュノを見つめた後、楽しそうに声を掛けた。

「やぁジュノ。やけに熱心だね?」

 その声にジュノは、漸く本の世界から引き戻された。目を見開き、慌てて椅子から立ち上がって頭を垂れようとする。それをライネルが手で制した。

「いいからそのままで。君がそこまで集中してるんだ。邪魔するのは可哀想だからね」

 そう言われ、ジュノはそのまま座り直す。

「すみません。気づかず、無作法な振舞いを……」

「全然。そんなこと、気にしなくていいよ。それで? 可愛いジュノは何を読んでいるの?」

 ライネルに問われたジュノが「これです」と本を持ち上げて、ライネルに表紙を見せた。そこには『対人観察と偽装識別・諜報実務における基礎理論』とあった。

「へぇ?  難しい本を読んでるんだね。興味があるの?」

「はい。たまたま手に取った本でしたが、読み進めてみると面白くて」

「なるほど。ここはアンドレウス家の別荘だしね。軍事卿らしいと言えばらしい本だ」

 そう答えたライネルは、僅かに思案するような顔をし、手に持っていた書類の束に視線を落とす。

「そうだ。ねぇ? ジュノ。それなら勉強がてらこれを見て?」

 ライネルは、書類の束から毒に関するものは除き、銀行取引、金銭の流れ、人物の特徴が細かく記されたものを取り出して、机の上に並べた。ジュノは、それを覗き込む。そこに書かれてある全てが、複雑に絡み合っている。ジュノの目が、その中から何かを探すように動く。

「これはね。とある裏取引に関連する書類なんだ。これを見て何か気づいたことはあるかな?」

 ライネルの問いに少しの間の後、ジュノが口を開いた。

「それぞれの口調の特徴が、どれも似たような印象を受けます。組織に属する人だという推測が出来るかも知れません」

 ライネルの目が、ジュノの顔をじっと見つめた。

「ほう! そこに気づけたんだね。凄いよジュノ。他には?」

「はい。あの……」

 ジュノは、少し自信なさげに、しかし丁寧に続けた。

「この本に書いてあったんですが、人は姿や口調は似せられても、生活習慣や環境は、そうそう似せられない・変えられないって。香りもその一つじゃないかと思うんです」

「香り?」

「はい。自分の香りは、本人ではわからないし、ましてや普段どんな香りをしているのかなどは、他者に伝えにくくて。香水もそうです。つける人によって、その匂い方は変わると聞きました。なので、香りがこの記載にある人物たちに関して、何かのヒント? になるかもと思って」

 ジュノの言葉を受けたライネルは、一瞬沈黙した。その目には、新たな可能性の手掛かりを得た喜びが、かすかに映り込んでいた。

「なるほど! 我々は文面にあることばかりに囚われていたってわけだね。ジュノ、お手柄かもしれないよ」

 ライネルは、書類を集め始めた。その動きは、明らかに急いでいる。 彼の脳裏には、すぐに報告すべき顔ぶれが浮かんでいた。レオ、リュシアン、そしてアレン。ジュノの指摘した「香り」という要素は、これまでの分析にはなかった視点だ。それを共有し、協議する必要がある。そう判断したライネルは、手元の資料を整えながら静かに微笑んだ。

「さすが僕の可愛い姪っ子だよ」

 ジュノは、ライネルの動きを見つめていた。自分の推理が、何かの役に立つかもしれない。その可能性が、彼女の心に灯りをもたらしていた。

 ライネルが扉を閉めて出ていくと、再び図書室に静寂が戻った。エレナはそっと刺繍の手を止め、ジュノを見つめる。

「姫様の洞察力は、素晴らしいです」

 ジュノは、手元に残された『対人観察と偽装識別・諜報実務における基礎理論』の表紙を撫でた。

「偶然です。たまたま読んでいた本に、ヒントがあっただけ」

「いえ。それを必要な時に結びつけるのが、姫様のお力です」

 エレナは静かにそう言って微笑んだ。足元で丸くなっていたキャウが、のびをして「キャウ」と小さなため息のような息を吐き出す。再びキャウは丸くなり、エレナの足元で眠りについた。

 図書室には雨音と、エレナが動かす刺繍針のわずかな音だけが響いている。ジュノは、雨に濡れる窓の向こうの庭をもう一度見つめた。外は相変わらず、雨が降り続いており止む気配は無い。

 そんな景色を眺めながらジュノは、ライネルに告げた『香り』という着想が、シトラスの香りから導かれたものだとは、気恥ずかしくて言えなかったことを思う。あの爽やかな香りを思い出すだけで、不思議と安心感に包まれる。そう考えた瞬間、部屋の空気の中に、シトラスの香りがほんのりと漂っているような気がした。
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