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晩餐会の幽霊
晩餐会の幽霊 2 噂
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皇都の朝は、静けさと共に目を覚ます。
空は、紺から紫へ、そして赤く、やがて白く、ゆるやかなグラデーションが天を染めていく。
ほんの少し冬の名残を感じさせる冷たい空気が、肺の奥にすうっと入り込んでくる。東の門が開く音が、遠くでわずかに響き、職人や商売人たちが店を開ける支度にとりかかる。
石畳の小路に、軽やかな靴音が弾む。
風にふわりと揺れるスカートが、通りを彩る。花や小鳥、幾何模様。鮮やかな色柄を纏った婦人たちは市場の入口で顔を合わせ、微笑みながらそっと頭を下げ合った。
一画の露店では、朝摘みの果物が所狭しと並び、その前を蜂のように人々が行き交う。柑橘の甘い香りが春風に乗り、遠い記憶のような懐かしさを呼び起こす。
「ねえ、聞いた?」と、囁くような声が果物の山の向こうから聞こえてくる。
「どこかの屋敷の話でしょう? 鍵をかけて寝たはずなのに、朝になると扉が開いてるってやつ」
「そうそう。私の知り合いの、その従妹のお姉さんが……言ってたらしいの」
籠を腕にかけた婦人たちは、果物を選ぶ手を止め、顔を寄せ合う。声は囁きに近く、けれどそれがかえって耳を引く。話の内容よりも『どこで聞いたか分からない話』であることが、不思議な信憑性を帯びていた。
「鍵がちゃんと掛かってたって、本当なのかしら?」
「だって、番の者も見張ってたって言うのよ。にもかかわらず……扉は、開いていたって」
婦人たちは顔を見合わせ、ふっと息を呑む。その表情に浮かぶのは恐怖と言うより、どこか甘い緊張。まるで、恋の始まりを噂しているかの様な熱のこもったまなざしだった。噂はそのまま、果物屋の喧騒に溶けていく。伝言ゲームの様に、誰の言葉とも知れない話は、ゆるやかに街を巡って行き、さらに話を編んでいく。
陽が昇りきる頃、市場はさらに賑わいを見せる。春の市と呼ばれるこの催しでは、色とりどりの染物や手作りのアクセサリー、陶器や香草茶など、見たことのない品々が通りに溢れる。子どもたちは飴細工を片手に駆け回り、大人たちは日差しに目を細めながら、店先を物色していた。
中でも、串焼き屋の前はひときわ人だかりができていた。香ばしく焼けた肉の匂いが、風に乗って通りを包みこむ。煙の向こうでは、男たちが酒を片手に談笑していた。
「なあ、あの屋敷の話、また聞いたぞ。今度は夜中に誰かの話し声がするんだってさ」
「いやいや、そりゃただの酔っ払いの空耳だろ。幽霊なんているわけがねえ」
「でもさ、その声が部屋の中から聞こえてくるんだとよ。しかも誰もいないはずの部屋から……」
「誰かがこっそり忍び込んで、美人さんと逢瀬でもしてんじゃないのか?」
「そりゃまた、羨ましいこって」
「お前そんな事言ってたら、またカミさんにどやされんぞ?」
「ただの感想だろ? 感想! お前も羨ましいって思ったろー!」
笑い声が串焼きの焼ける音と交じり合い、空気の中に紛れていく。男たちは冗談半分、でも完全には否定しきれないという顔をしていた。噂には、根拠のない『真実の匂い』が漂い、気づけば誰もがそれを信じかけていた。
「俺ぁ信じねえよ。信じたら負けってやつだ」
そう言いつつ、誰もがその屋敷の前を通るときには、無意識に足を速めてしまうのだった。
夜の帳が降りると、皇都はまた別の顔を見せる。灯火に照らされた石畳はやや湿り気を帯びて輝き、風は昼間よりもずっと冷たい。人々は自然と足を早め、灯のある場所へと集まっていく。
その中でも、街のはずれの小さな酒場はひときわ賑やかだった。木の扉を開けると、暖かな空気と共に、混じり合った笑い声と楽器の音が迎えてくれる。蝋燭の炎がゆらゆらと揺れ、酒の入ったグラスに反射して、まるで夢の中のようだ。
「なあ、聞いたか? あの屋敷の絵が、夜になると勝手に動くって話」
「またそれかよ。でもよ、俺の知り合いの妹が働いてんだけどな、マジで誰もいないはずの部屋で、肖像画の位置がずれてたって言ってたぞ」
「それ、風とかじゃねぇの?」
「だって窓も締まってたんだって。しかも鍵も内側から。誰も出入りできないはずの状況でさ」
「そういや……誰だったかな。姉貴の勤め先の坊っちゃんが……いや、友達の書生がだったか」
「誰でもいいよ、もう。で?」
「目が、見てる位置が違うんだとさ。昨日は右。今日は、左」
どっと笑いが起きるが、その奥で誰かがそっと黙る。信じているわけでもなく、疑い切るわけでもない。酒精の中で噂はほどよく柔らかくなり、口々に流れていく。
「おい、その絵のモデル、殺されたって話は?」
「えっ。俺は、心中したって聞いたぞ?」
「どれが本当なんだか」
「どちらにしろ、この世を恨んでるって事か?」
「……さぁな。儚んでるのかもしれねぇな」
沈黙が落ちる。だが長くは続かない。次の盃とともに、面白おかしく話がまた広がる。
語られる声は低く、ゆっくりと。まるで、その話が夜を傷つけない様に。闇を乱さない様に。酒に酔い、目を細めた者たちの間に、確かに『不気味さ』が忍び込んでいた。それでもなお、彼らは笑う。信じないために笑うのか、それとも、信じたいからこそ笑うのか。いずれにせよ、その話は『ただの噂』として、心地よい怖さをもって飲み干されていく。
そしてその翌朝にはまた、街のうねりと共に誰かが語り、誰かが否定し、また誰かが面白がる。
誰も自分の話として語らない。だが、話したい。話せば、それはどこか宙に浮かぶものとなり、責任の所在を失って、軽くなる。
だからこそ、誰もが笑いながら言うのだ。誰から聞いたかも覚えていないが、ちょっと面白い話を、と。
その無名の話が人の記憶をすり抜け、まるで皇都に根ざした『古くからある事実』のように染み込み、編まれてゆく。
噂とは、そうして街の空気になってゆく。
真実かどうかは関係ない。
誰のものかも関係ない。
ただ、誰もが一度は耳にして、そして誰もが語ったことがある。そんな風にして。
風のない日にふと揺れる扉を見て、人々はまた囁く。
「ねぇ、知り合いの友達の兄弟の友達が言ってたらしいんだけど……」
空は、紺から紫へ、そして赤く、やがて白く、ゆるやかなグラデーションが天を染めていく。
ほんの少し冬の名残を感じさせる冷たい空気が、肺の奥にすうっと入り込んでくる。東の門が開く音が、遠くでわずかに響き、職人や商売人たちが店を開ける支度にとりかかる。
石畳の小路に、軽やかな靴音が弾む。
風にふわりと揺れるスカートが、通りを彩る。花や小鳥、幾何模様。鮮やかな色柄を纏った婦人たちは市場の入口で顔を合わせ、微笑みながらそっと頭を下げ合った。
一画の露店では、朝摘みの果物が所狭しと並び、その前を蜂のように人々が行き交う。柑橘の甘い香りが春風に乗り、遠い記憶のような懐かしさを呼び起こす。
「ねえ、聞いた?」と、囁くような声が果物の山の向こうから聞こえてくる。
「どこかの屋敷の話でしょう? 鍵をかけて寝たはずなのに、朝になると扉が開いてるってやつ」
「そうそう。私の知り合いの、その従妹のお姉さんが……言ってたらしいの」
籠を腕にかけた婦人たちは、果物を選ぶ手を止め、顔を寄せ合う。声は囁きに近く、けれどそれがかえって耳を引く。話の内容よりも『どこで聞いたか分からない話』であることが、不思議な信憑性を帯びていた。
「鍵がちゃんと掛かってたって、本当なのかしら?」
「だって、番の者も見張ってたって言うのよ。にもかかわらず……扉は、開いていたって」
婦人たちは顔を見合わせ、ふっと息を呑む。その表情に浮かぶのは恐怖と言うより、どこか甘い緊張。まるで、恋の始まりを噂しているかの様な熱のこもったまなざしだった。噂はそのまま、果物屋の喧騒に溶けていく。伝言ゲームの様に、誰の言葉とも知れない話は、ゆるやかに街を巡って行き、さらに話を編んでいく。
陽が昇りきる頃、市場はさらに賑わいを見せる。春の市と呼ばれるこの催しでは、色とりどりの染物や手作りのアクセサリー、陶器や香草茶など、見たことのない品々が通りに溢れる。子どもたちは飴細工を片手に駆け回り、大人たちは日差しに目を細めながら、店先を物色していた。
中でも、串焼き屋の前はひときわ人だかりができていた。香ばしく焼けた肉の匂いが、風に乗って通りを包みこむ。煙の向こうでは、男たちが酒を片手に談笑していた。
「なあ、あの屋敷の話、また聞いたぞ。今度は夜中に誰かの話し声がするんだってさ」
「いやいや、そりゃただの酔っ払いの空耳だろ。幽霊なんているわけがねえ」
「でもさ、その声が部屋の中から聞こえてくるんだとよ。しかも誰もいないはずの部屋から……」
「誰かがこっそり忍び込んで、美人さんと逢瀬でもしてんじゃないのか?」
「そりゃまた、羨ましいこって」
「お前そんな事言ってたら、またカミさんにどやされんぞ?」
「ただの感想だろ? 感想! お前も羨ましいって思ったろー!」
笑い声が串焼きの焼ける音と交じり合い、空気の中に紛れていく。男たちは冗談半分、でも完全には否定しきれないという顔をしていた。噂には、根拠のない『真実の匂い』が漂い、気づけば誰もがそれを信じかけていた。
「俺ぁ信じねえよ。信じたら負けってやつだ」
そう言いつつ、誰もがその屋敷の前を通るときには、無意識に足を速めてしまうのだった。
夜の帳が降りると、皇都はまた別の顔を見せる。灯火に照らされた石畳はやや湿り気を帯びて輝き、風は昼間よりもずっと冷たい。人々は自然と足を早め、灯のある場所へと集まっていく。
その中でも、街のはずれの小さな酒場はひときわ賑やかだった。木の扉を開けると、暖かな空気と共に、混じり合った笑い声と楽器の音が迎えてくれる。蝋燭の炎がゆらゆらと揺れ、酒の入ったグラスに反射して、まるで夢の中のようだ。
「なあ、聞いたか? あの屋敷の絵が、夜になると勝手に動くって話」
「またそれかよ。でもよ、俺の知り合いの妹が働いてんだけどな、マジで誰もいないはずの部屋で、肖像画の位置がずれてたって言ってたぞ」
「それ、風とかじゃねぇの?」
「だって窓も締まってたんだって。しかも鍵も内側から。誰も出入りできないはずの状況でさ」
「そういや……誰だったかな。姉貴の勤め先の坊っちゃんが……いや、友達の書生がだったか」
「誰でもいいよ、もう。で?」
「目が、見てる位置が違うんだとさ。昨日は右。今日は、左」
どっと笑いが起きるが、その奥で誰かがそっと黙る。信じているわけでもなく、疑い切るわけでもない。酒精の中で噂はほどよく柔らかくなり、口々に流れていく。
「おい、その絵のモデル、殺されたって話は?」
「えっ。俺は、心中したって聞いたぞ?」
「どれが本当なんだか」
「どちらにしろ、この世を恨んでるって事か?」
「……さぁな。儚んでるのかもしれねぇな」
沈黙が落ちる。だが長くは続かない。次の盃とともに、面白おかしく話がまた広がる。
語られる声は低く、ゆっくりと。まるで、その話が夜を傷つけない様に。闇を乱さない様に。酒に酔い、目を細めた者たちの間に、確かに『不気味さ』が忍び込んでいた。それでもなお、彼らは笑う。信じないために笑うのか、それとも、信じたいからこそ笑うのか。いずれにせよ、その話は『ただの噂』として、心地よい怖さをもって飲み干されていく。
そしてその翌朝にはまた、街のうねりと共に誰かが語り、誰かが否定し、また誰かが面白がる。
誰も自分の話として語らない。だが、話したい。話せば、それはどこか宙に浮かぶものとなり、責任の所在を失って、軽くなる。
だからこそ、誰もが笑いながら言うのだ。誰から聞いたかも覚えていないが、ちょっと面白い話を、と。
その無名の話が人の記憶をすり抜け、まるで皇都に根ざした『古くからある事実』のように染み込み、編まれてゆく。
噂とは、そうして街の空気になってゆく。
真実かどうかは関係ない。
誰のものかも関係ない。
ただ、誰もが一度は耳にして、そして誰もが語ったことがある。そんな風にして。
風のない日にふと揺れる扉を見て、人々はまた囁く。
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