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CHAPTER1
Episode 2 / 傷跡と私
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低い轟音が耳の奥を震わせる。周囲の家々からは塵がパラパラと絶え間なく落ちている。奇妙な雨はまだ降っている。石に当たって、はじけて。水たまりからは集まって上へ。風は止まっている。
男の子は息を深く吸って、手を壁の方に向かって前に伸ばした。指を広げ、背中を不自然に伸ばしている。
彼を横目にじっと見ていると、決壊するように壁が弾き飛んで、衝撃波が全身に押し寄せた。立っていられずに腰を落とす。砂埃が鼻と目を襲う。口に入ってきて咳が出る。
顔の前を手で払いながら、爆発したところを目を細くして見る。煙の向こうで、建物に匹敵する大きな黒い影が動いているのが分かる。それが叫び声にも思える声をあげて、地面を踏みつけ、巨体ながらに隼のような速さで飛んできた。
「危ない!」
そう叫んだ彼の手に、光の粒が網状に模様を作りながら、一瞬で集まって剣が現れた。襲ってきた怪物に向かって、すぐさま大きく振り、風を切る音が聞こえたと思えば、火の玉が一斉に舞った。
全身真っ黒の、熊みたいな何か。火の玉が五つ、宙を蜂のように飛んでいく。男の子が左手で、右へ、上へ剣を振りながら怪物に近づき、斬りかかる。
燃え上がるのかと思いきや、少しひるんだくらいのようで、すぐに威嚇を始めた。身体中の至る所から蔦みたいなものが出ている。触手のようで、見るだけでも全身がすくみ上がるような気持ち悪さを醸し出している。
くり抜かれたような目は、どこを見ているのか分からない。この生き物は一体なんなのか。こんな生き物は果たして、存在しただろうか。口が震えて閉じなくなった。
「ねえ、これって……!?」
「コイツを追ってたんだ!とにかく……俺から離れんな!」
「う、うん……!」
彼は声を張り上げて、手から火の玉を放っている。刃に炎を纏わせたり、炎で円を描いたり。彼も彼で、分からない。ますます自分が何なのか、今すぐにでも思い出したい。
熱がここまで伝わってきて、冷えきっていた体が芯から温まるような感じがする。後ろから彼の姿を見ると不思議と、切り抜けようと勇気も湧いてきた。彼に対する信じようにも信じられない気持ちを振り払って、考えを凝らす。私も彼みたいになにか出来ればいいけれど――何も持っていない。
「クソ……。なんであっち行かねんだよ!」
疲れと苛立ちが見える。どうしよう、よく考えなくても分かる。あんなに大きくて凶暴なの、一人で何とかできっこない。私に撃ってきたあの武器も、怪物の暴れを避けながら音を鳴らしている。至る所の壁に穴が開いていった。
「どっか行けっつってんだろおら!」
剣を乱暴に振り回している。空気が震えて、辺りが暑くなってくるとともに、今の彼の様子に若干、理性を感じないような気もしてきた。火の玉を放つ度に、彼の手からは花びらのような光のかけらが舞っている。
「ダメだ。おい、ジェスターさん知ってるだろ?……クソ、呼んできてくれ、俺と一緒に、来てるんだ……!」
「ジェ?なに……?」
「えぇ?クソ――」
剣の動きも鈍くなっている気がする。綺麗な弧を描いていた残像も、ゆらゆらと木の枝みたいに不安定になっている。そのうち怪物の抵抗で弾き返されて、彼は足を踏み外してしまう。腰を抜かしていた私はそれを眺めるしかなかった。近づけない。ジェスターさん、と言っていたのに今、気がついた。頭の中がいっぱいで、彼に追いつけない。
彼の体が、怪物の大きな手に吹き飛ばされ、剣が私の足元まで飛んできた。ひびが入っていて、今にも折れそうだった。傷だらけの銀色の刃は霞んでいて欠けており、もはや役に立ちそうにない。
「ダメ……」
男の子は力を振り絞って立ち上がろうとしている。頭をゆっくり上げていた。だが怪物がゆっくりと近づいているのが見えていなかった。
怪物が全身を使って彼を押しつぶそうとしているのを見て、「あぶないっ!」と反射的に私の体が動いた。触手の向きがこちらへ向いた。胸を押し付けられるような強い音。刺すような臭いと視線。彼はこれを直に受けてたのか。ヘドロみたいなものがあちこちから垂れていて、とても見ていられない姿。
立ち上がれず、手の力だけで後ずさりする。それも束の間。何もできないまま、怪物は目前。彼みたいな――魔法が使えたらと思う。手を伸ばして指を広げる。しかし出てこない。怪物は涎を散らしながら飛び掛かってきた。
あの汚れた爪が私の顔を潰すと思われたが、それを青い光と鋭く重たい音が貫いた。死を覚悟して目を閉じた時、伸ばした手から放たれた。怪物の胴体に、氷でできた針のようなものが突き刺さっていた。轟音をあげて呻き続けている。氷からは徐々に冷気が広がっていくようだった。さっき見た雨と同じ現象に見えた。よろよろとありえない方向へ関節を曲げながらバタバタしている姿は、吐き気も誘う。
怪物が起き上がらないかを見ながら、男の子のもとへ駆け寄る。
「だ、大丈夫?ねえ」
汗を見せた彼の表情が、柔らかくなった。
「はぁ……すごいな、お前、うぅ……。もう少しでほんとに、やられるとこだった」
「さっきの――えっと、ジェスター?て?」
「ああ、遠くには、いないと思うんだけど……」
彼の体は想像していたより負傷していなかった。それよりも、うっすらと見える膜のようなものが彼を包んでいた。そのいたるところに傷や穴が見え、同じところに服の破れやケガが見られた。
「大丈夫?ジェスター探そう?」
男の子はポケットから何かを急いで探す。怪物に刺さった氷がどんどん溶けているのも分かる。動悸がしてくる。口を開けないと息ができない。カチャカチャ鳴っていた物音が止んだ。彼が手に持っているのは、小さな金属の球。すぐにそれを彼は地面に押し付けて潰してしまった。
「な、なにそれ……」
「呼んだんだ……」
「え?だいじょ――」
頭の中で何かが膨らんでいるような感覚。締め付けるようでもある。痛い。目にも流れ込んでいる。痛い。塗りつぶされた絵がうっすらと浮かんでくるように、見える。
置いていかれる。離れていく。待って、と叫んでいる。私の手じゃない。ああ、置いて行かないで……。これは誰――。
息が詰まる。でも息はできている。苦しい。どうしてこんなに、私の体がおかしい。浮遊感もあるし沈むような感覚もある。涙が止まらない。
「おい、お前……!どうしたんだよ!あいつ、まだ!」
分かっている。でも手も足も動かない。さっきから知らない人の声がたくさん聞こえてくる。それも全部、泣いているんだ。一体私は――。
「起き上がったぞ!おい!――クソッ……!」
大きく揺れた。ハッと気がつく。彼は怪物の体をずっと剣で受け止めている。カタカタと細かな音と、彼の食いしばる声だけがその場を占めていた。私はどこを見ていたのか、しばらくのことが曖昧になっている。一歩下がって、鼻をすすって立ち上がる。
「ごめん、私……」
涙が思っていた以上に溢れていた。急いで手で拭きのける。
「さっきの、もう一回やってみる……!待って、待ってね!」
「ダメだッ……、絶っ対……ダメだ!」
「え……?」
「危ない、から……!」
彼の体勢が崩れると、間もなく怪物は、体から生えたくねくねと蠢く蔦をムチのように打ち付けて、男の子を吹き飛ばした。私が危ないって――君も危ないのに。彼に頼ってばかりで申し訳ない気持ちでいっぱいになる。このまま怪物に私も襲われて――
「ジェスターさん!!!」
男の子が有り余る力を全部振り絞るような声で叫んだ。吹き飛ばされた彼は足を引きずりながら、私の元へ来ようとする。でも、山の上から麓を見た時のように遠く感じる。私を守ろうと頑張って戦ってくれたのに、何もできない。君のそんな姿は見ていられない。
さっきみたいに手を広げてみるが、出ない。何度も勢いをつけてみるけれど意味がない。彼もそばにいない。誰も防げない。怪物が口を大きく開いて降り掛かろうとしていた。乱雑に並んだ牙と、粘度の高い唾液がのびている。
牙が見える。音が遠のく。
夢なら、ここで覚める。きっと大丈夫――目を瞑って、何も考えない――
――突くようなあの音。男の子が持っていた武器の音と似ている音だ。
怪物が液体を吹き出しながら倒れた。常に響いていた轟音が、あまりにも突然消えてしまって、静けさが一層気味悪く感じる。雨の音を久々に聞いた気がする。
皮でできた靴だろうか、後ろから足音が聞こえる。男の子のじゃない。
「大丈夫か?」
首まで伸びた髪と無精髭。しっかりとした体つきで、茶色のコートを着た背の高い男の人が少々ダラダラとした身振りでやってきた。うっすらとタバコのにおいもする。太い眉毛と細長い目。コートにはたくさんのポケットがついている。この人が彼の言っていた、ジェスターという人だと思う。
「ベルジ、お前まさか女の子に守ってもらったのか?」
「やっと……遅くないすか?クソ、いってぇ……」
「かなり弱ってはいたな。一発で死んじまった」
「ごめんな、まだ俺、力不足で」
ベルジ……。そう呼ばれた男の子が、ふらふらしながらも歩み寄ってくる。名前をようやく知れてはじめて、彼という人がそこにいるんだと思えた。私のことも何か知ってほしい。
「嬢ちゃんも頑張ったな。名前は?ずいぶん……よく何もつけずに来たな?」
自分のかどうか正直自信はないけれど、リストレットにあったあの名前を思い出す。
「アヴァ。私の名前。アヴァ・クラ……クラ……?」
「ちょっとは思い出してきた?」
ベルジは砂埃を払いながら言った。あれだけ目で読んだのにも関わらず覚えられていなかった。背中から蹴られるようなことが立て続けに起きたせいかもしれない。
「い、いや……」
まだ心臓が速く動いている。胸元を手で押さえる。よく覚えていないだなんて信じてもらえるとも思えず、ただ俯いて時間が経つのを待った。
「俺、なんもお前のこと知らずに、めちゃくちゃしたな……」
「大丈夫、全然、気にしてないから」
本当は怪物のことくらい、あの乱暴な出会いは気にしているが、私を助けてくれたから、今はそういうことにしておく。
忘れているというよりは知らないというほうが感覚として合っている。何を忘れているのかも分からないし、ここまでいろいろあったけど、ちょっとしたことも思い出せていない。アヴァという言葉を見ても。
夢でないのなら、私は何かの罰でも受けているのか。だとしたら何をしてしまったのか。何をして償えばいいのか。自分の中身が抜け落ちているという感覚ははっきりとあるのだけれど、失くしたパズルのピースを探せるほどに、頭の中にヒントが残っていない。
「ん?はじめましてか。てっきり知り合いなんじゃねーかと」ジェスターが口を開いた。
「さっき会ったばっかりです。ここらで寝てたみたいで」
「寝てたぁ?あーっと、どういうこったそりゃ」
膝を叩いて笑っている。変な人だと思われているようでモヤモヤする笑い方。言葉を急いで選んで答える。
「め、目が覚めたらここにいて。その、目が覚める前のこと、思い出せなくって。だから、歩き回ってて、ベルジくん?に会って……ベルジくんに追いかけられて」
「そりゃ笑えないな。こいつと追いかけっこなんてな?」
「ち、ちょっと!だから、あれは違うんだアヴァ、なあ……」
ベルジは目を背けて、倒れそうな支柱を心配するように言った。
「ハハ、冗談だ。もう大丈夫だ。落ち着いたら、また話を聞こう」
私の肩を叩きながら柔らかい口調で言った。もっと自分の気持ちを聞いて欲しくなる。こうして、誰かに思いを打ち明けることが、どんなに塞ぎ込んだものを解き放ってくれるかを、たったいま知ったから。一言喋るとどんどん溢れてきそうだ。
「ずっと何なのか分からなくて、私なんなんだろうって」
「うんうん、話は聞いてあげたいが、とりあえずここにいちゃまずい、まずは出るぞ。ほらベルジ立て立て」
ジェスターは少し乱暴にベルジの足をコンコンと蹴った。
「あの死体どうします?」
ベルジがゆっくりと立ち上がりながら言う。手首を締めて、服の破れたところを気にしていた。
「大丈夫?」と声をかけずにはいられなかった。
「……あ、ああ。それよりも自分の心配、したほうがいいぞ」
死体は、まだうねうねと動く蔦を見せ、傷口からは黒い液体が漏れ出ている。目を合わすと急に動きだしそうで諦める。飛び散ったいろんなものは、ずっと見ていると胃の奥が震え出す。それでも何故か見てしまう。これが一体なんなのかというよりも、硬直した顔からこの生き物の過去を想うのだった。折れ曲がった歯に、分裂した手。熊に見えて他の生き物も合わさったような姿形が、最も鮮明な記憶のひとつになる。
得体の知れない、自分の手から放たれた氷の粒が、ひとりでに震えて囁いている。格子状の模様を作りながら内側から飛び出している氷は、蒸発するように薄くなっていった。
「別の奴らに任せよう」
ジェスターのその一声を聞いて後にする。死体を背にしても、しばらくはまるでまだ目の前にあるかのような、気味の悪い感覚が続いた。膝の痛みと、壊れていたはずの家が元に戻るようにして建ったことを、今ようやく自分の中で言葉にして、連想をひたすら続けた。
男の子は息を深く吸って、手を壁の方に向かって前に伸ばした。指を広げ、背中を不自然に伸ばしている。
彼を横目にじっと見ていると、決壊するように壁が弾き飛んで、衝撃波が全身に押し寄せた。立っていられずに腰を落とす。砂埃が鼻と目を襲う。口に入ってきて咳が出る。
顔の前を手で払いながら、爆発したところを目を細くして見る。煙の向こうで、建物に匹敵する大きな黒い影が動いているのが分かる。それが叫び声にも思える声をあげて、地面を踏みつけ、巨体ながらに隼のような速さで飛んできた。
「危ない!」
そう叫んだ彼の手に、光の粒が網状に模様を作りながら、一瞬で集まって剣が現れた。襲ってきた怪物に向かって、すぐさま大きく振り、風を切る音が聞こえたと思えば、火の玉が一斉に舞った。
全身真っ黒の、熊みたいな何か。火の玉が五つ、宙を蜂のように飛んでいく。男の子が左手で、右へ、上へ剣を振りながら怪物に近づき、斬りかかる。
燃え上がるのかと思いきや、少しひるんだくらいのようで、すぐに威嚇を始めた。身体中の至る所から蔦みたいなものが出ている。触手のようで、見るだけでも全身がすくみ上がるような気持ち悪さを醸し出している。
くり抜かれたような目は、どこを見ているのか分からない。この生き物は一体なんなのか。こんな生き物は果たして、存在しただろうか。口が震えて閉じなくなった。
「ねえ、これって……!?」
「コイツを追ってたんだ!とにかく……俺から離れんな!」
「う、うん……!」
彼は声を張り上げて、手から火の玉を放っている。刃に炎を纏わせたり、炎で円を描いたり。彼も彼で、分からない。ますます自分が何なのか、今すぐにでも思い出したい。
熱がここまで伝わってきて、冷えきっていた体が芯から温まるような感じがする。後ろから彼の姿を見ると不思議と、切り抜けようと勇気も湧いてきた。彼に対する信じようにも信じられない気持ちを振り払って、考えを凝らす。私も彼みたいになにか出来ればいいけれど――何も持っていない。
「クソ……。なんであっち行かねんだよ!」
疲れと苛立ちが見える。どうしよう、よく考えなくても分かる。あんなに大きくて凶暴なの、一人で何とかできっこない。私に撃ってきたあの武器も、怪物の暴れを避けながら音を鳴らしている。至る所の壁に穴が開いていった。
「どっか行けっつってんだろおら!」
剣を乱暴に振り回している。空気が震えて、辺りが暑くなってくるとともに、今の彼の様子に若干、理性を感じないような気もしてきた。火の玉を放つ度に、彼の手からは花びらのような光のかけらが舞っている。
「ダメだ。おい、ジェスターさん知ってるだろ?……クソ、呼んできてくれ、俺と一緒に、来てるんだ……!」
「ジェ?なに……?」
「えぇ?クソ――」
剣の動きも鈍くなっている気がする。綺麗な弧を描いていた残像も、ゆらゆらと木の枝みたいに不安定になっている。そのうち怪物の抵抗で弾き返されて、彼は足を踏み外してしまう。腰を抜かしていた私はそれを眺めるしかなかった。近づけない。ジェスターさん、と言っていたのに今、気がついた。頭の中がいっぱいで、彼に追いつけない。
彼の体が、怪物の大きな手に吹き飛ばされ、剣が私の足元まで飛んできた。ひびが入っていて、今にも折れそうだった。傷だらけの銀色の刃は霞んでいて欠けており、もはや役に立ちそうにない。
「ダメ……」
男の子は力を振り絞って立ち上がろうとしている。頭をゆっくり上げていた。だが怪物がゆっくりと近づいているのが見えていなかった。
怪物が全身を使って彼を押しつぶそうとしているのを見て、「あぶないっ!」と反射的に私の体が動いた。触手の向きがこちらへ向いた。胸を押し付けられるような強い音。刺すような臭いと視線。彼はこれを直に受けてたのか。ヘドロみたいなものがあちこちから垂れていて、とても見ていられない姿。
立ち上がれず、手の力だけで後ずさりする。それも束の間。何もできないまま、怪物は目前。彼みたいな――魔法が使えたらと思う。手を伸ばして指を広げる。しかし出てこない。怪物は涎を散らしながら飛び掛かってきた。
あの汚れた爪が私の顔を潰すと思われたが、それを青い光と鋭く重たい音が貫いた。死を覚悟して目を閉じた時、伸ばした手から放たれた。怪物の胴体に、氷でできた針のようなものが突き刺さっていた。轟音をあげて呻き続けている。氷からは徐々に冷気が広がっていくようだった。さっき見た雨と同じ現象に見えた。よろよろとありえない方向へ関節を曲げながらバタバタしている姿は、吐き気も誘う。
怪物が起き上がらないかを見ながら、男の子のもとへ駆け寄る。
「だ、大丈夫?ねえ」
汗を見せた彼の表情が、柔らかくなった。
「はぁ……すごいな、お前、うぅ……。もう少しでほんとに、やられるとこだった」
「さっきの――えっと、ジェスター?て?」
「ああ、遠くには、いないと思うんだけど……」
彼の体は想像していたより負傷していなかった。それよりも、うっすらと見える膜のようなものが彼を包んでいた。そのいたるところに傷や穴が見え、同じところに服の破れやケガが見られた。
「大丈夫?ジェスター探そう?」
男の子はポケットから何かを急いで探す。怪物に刺さった氷がどんどん溶けているのも分かる。動悸がしてくる。口を開けないと息ができない。カチャカチャ鳴っていた物音が止んだ。彼が手に持っているのは、小さな金属の球。すぐにそれを彼は地面に押し付けて潰してしまった。
「な、なにそれ……」
「呼んだんだ……」
「え?だいじょ――」
頭の中で何かが膨らんでいるような感覚。締め付けるようでもある。痛い。目にも流れ込んでいる。痛い。塗りつぶされた絵がうっすらと浮かんでくるように、見える。
置いていかれる。離れていく。待って、と叫んでいる。私の手じゃない。ああ、置いて行かないで……。これは誰――。
息が詰まる。でも息はできている。苦しい。どうしてこんなに、私の体がおかしい。浮遊感もあるし沈むような感覚もある。涙が止まらない。
「おい、お前……!どうしたんだよ!あいつ、まだ!」
分かっている。でも手も足も動かない。さっきから知らない人の声がたくさん聞こえてくる。それも全部、泣いているんだ。一体私は――。
「起き上がったぞ!おい!――クソッ……!」
大きく揺れた。ハッと気がつく。彼は怪物の体をずっと剣で受け止めている。カタカタと細かな音と、彼の食いしばる声だけがその場を占めていた。私はどこを見ていたのか、しばらくのことが曖昧になっている。一歩下がって、鼻をすすって立ち上がる。
「ごめん、私……」
涙が思っていた以上に溢れていた。急いで手で拭きのける。
「さっきの、もう一回やってみる……!待って、待ってね!」
「ダメだッ……、絶っ対……ダメだ!」
「え……?」
「危ない、から……!」
彼の体勢が崩れると、間もなく怪物は、体から生えたくねくねと蠢く蔦をムチのように打ち付けて、男の子を吹き飛ばした。私が危ないって――君も危ないのに。彼に頼ってばかりで申し訳ない気持ちでいっぱいになる。このまま怪物に私も襲われて――
「ジェスターさん!!!」
男の子が有り余る力を全部振り絞るような声で叫んだ。吹き飛ばされた彼は足を引きずりながら、私の元へ来ようとする。でも、山の上から麓を見た時のように遠く感じる。私を守ろうと頑張って戦ってくれたのに、何もできない。君のそんな姿は見ていられない。
さっきみたいに手を広げてみるが、出ない。何度も勢いをつけてみるけれど意味がない。彼もそばにいない。誰も防げない。怪物が口を大きく開いて降り掛かろうとしていた。乱雑に並んだ牙と、粘度の高い唾液がのびている。
牙が見える。音が遠のく。
夢なら、ここで覚める。きっと大丈夫――目を瞑って、何も考えない――
――突くようなあの音。男の子が持っていた武器の音と似ている音だ。
怪物が液体を吹き出しながら倒れた。常に響いていた轟音が、あまりにも突然消えてしまって、静けさが一層気味悪く感じる。雨の音を久々に聞いた気がする。
皮でできた靴だろうか、後ろから足音が聞こえる。男の子のじゃない。
「大丈夫か?」
首まで伸びた髪と無精髭。しっかりとした体つきで、茶色のコートを着た背の高い男の人が少々ダラダラとした身振りでやってきた。うっすらとタバコのにおいもする。太い眉毛と細長い目。コートにはたくさんのポケットがついている。この人が彼の言っていた、ジェスターという人だと思う。
「ベルジ、お前まさか女の子に守ってもらったのか?」
「やっと……遅くないすか?クソ、いってぇ……」
「かなり弱ってはいたな。一発で死んじまった」
「ごめんな、まだ俺、力不足で」
ベルジ……。そう呼ばれた男の子が、ふらふらしながらも歩み寄ってくる。名前をようやく知れてはじめて、彼という人がそこにいるんだと思えた。私のことも何か知ってほしい。
「嬢ちゃんも頑張ったな。名前は?ずいぶん……よく何もつけずに来たな?」
自分のかどうか正直自信はないけれど、リストレットにあったあの名前を思い出す。
「アヴァ。私の名前。アヴァ・クラ……クラ……?」
「ちょっとは思い出してきた?」
ベルジは砂埃を払いながら言った。あれだけ目で読んだのにも関わらず覚えられていなかった。背中から蹴られるようなことが立て続けに起きたせいかもしれない。
「い、いや……」
まだ心臓が速く動いている。胸元を手で押さえる。よく覚えていないだなんて信じてもらえるとも思えず、ただ俯いて時間が経つのを待った。
「俺、なんもお前のこと知らずに、めちゃくちゃしたな……」
「大丈夫、全然、気にしてないから」
本当は怪物のことくらい、あの乱暴な出会いは気にしているが、私を助けてくれたから、今はそういうことにしておく。
忘れているというよりは知らないというほうが感覚として合っている。何を忘れているのかも分からないし、ここまでいろいろあったけど、ちょっとしたことも思い出せていない。アヴァという言葉を見ても。
夢でないのなら、私は何かの罰でも受けているのか。だとしたら何をしてしまったのか。何をして償えばいいのか。自分の中身が抜け落ちているという感覚ははっきりとあるのだけれど、失くしたパズルのピースを探せるほどに、頭の中にヒントが残っていない。
「ん?はじめましてか。てっきり知り合いなんじゃねーかと」ジェスターが口を開いた。
「さっき会ったばっかりです。ここらで寝てたみたいで」
「寝てたぁ?あーっと、どういうこったそりゃ」
膝を叩いて笑っている。変な人だと思われているようでモヤモヤする笑い方。言葉を急いで選んで答える。
「め、目が覚めたらここにいて。その、目が覚める前のこと、思い出せなくって。だから、歩き回ってて、ベルジくん?に会って……ベルジくんに追いかけられて」
「そりゃ笑えないな。こいつと追いかけっこなんてな?」
「ち、ちょっと!だから、あれは違うんだアヴァ、なあ……」
ベルジは目を背けて、倒れそうな支柱を心配するように言った。
「ハハ、冗談だ。もう大丈夫だ。落ち着いたら、また話を聞こう」
私の肩を叩きながら柔らかい口調で言った。もっと自分の気持ちを聞いて欲しくなる。こうして、誰かに思いを打ち明けることが、どんなに塞ぎ込んだものを解き放ってくれるかを、たったいま知ったから。一言喋るとどんどん溢れてきそうだ。
「ずっと何なのか分からなくて、私なんなんだろうって」
「うんうん、話は聞いてあげたいが、とりあえずここにいちゃまずい、まずは出るぞ。ほらベルジ立て立て」
ジェスターは少し乱暴にベルジの足をコンコンと蹴った。
「あの死体どうします?」
ベルジがゆっくりと立ち上がりながら言う。手首を締めて、服の破れたところを気にしていた。
「大丈夫?」と声をかけずにはいられなかった。
「……あ、ああ。それよりも自分の心配、したほうがいいぞ」
死体は、まだうねうねと動く蔦を見せ、傷口からは黒い液体が漏れ出ている。目を合わすと急に動きだしそうで諦める。飛び散ったいろんなものは、ずっと見ていると胃の奥が震え出す。それでも何故か見てしまう。これが一体なんなのかというよりも、硬直した顔からこの生き物の過去を想うのだった。折れ曲がった歯に、分裂した手。熊に見えて他の生き物も合わさったような姿形が、最も鮮明な記憶のひとつになる。
得体の知れない、自分の手から放たれた氷の粒が、ひとりでに震えて囁いている。格子状の模様を作りながら内側から飛び出している氷は、蒸発するように薄くなっていった。
「別の奴らに任せよう」
ジェスターのその一声を聞いて後にする。死体を背にしても、しばらくはまるでまだ目の前にあるかのような、気味の悪い感覚が続いた。膝の痛みと、壊れていたはずの家が元に戻るようにして建ったことを、今ようやく自分の中で言葉にして、連想をひたすら続けた。
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