神雧 - KAMIATSUME -

神代 一文

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第13章 南の方位

第399話 砂の噂

理ことわりの階段を降り始めたとき、砂が囁ささやいた。

 最初は風の音だと思った。階段の壁面を伝う隙間風が、石の凹凸おうとつに当たって鳴っているのだと。だが風は止んでいた。空気は動いていない。天井の低い階段の内部に、淀んだ空気が澱おりのように溜まっている。呼吸をするたびに、埃ほこりとも砂ともつかない微粒子びりゅうしが鼻腔びこうの奥を掠かすめた。

 囁ささやいているのは、砂そのものだった。

 階段の隅に溜まった細かい砂粒が、互いに擦れ合うたびに音を立てている。足を踏み出すと振動が伝わり、砂が微かに動く。その摩擦まさつが、音になる。

 しゅ、しゅ、と。まるで誰かが唇の端で何かを呟つぶやいているような音。

 壁面の石は冷たく、触れると指先に湿り気が移った。地下に降りるにつれて温度が下がり、こよいの吐く息が白くはならないまでも、喉のどの奥に冷気が溜まるのを感じた。階段の段差は一つずつ微妙に高さが違い、足を置くたびに身体が小さく揺れる。その揺れが壁に伝わり、壁が砂に伝え、砂がまた鳴る。

 「聞こえるか」

 あさひが足を止めた。壁際の砂を見ている。布包みの大剣が階段の壁に当たりそうになるのを、身体を斜めにして避けていた。狭い階段の中で、あさひの体躯たいくはなおさら大きく見える。

 久遠くおんが膝をつき、砂に義眼ぎがんを近づけた。蒼光そうこうが砂粒の一つ一つを照らす。光が当たった砂粒は、一瞬だけ金色に煌きらめいてから元の灰色に戻った。

 「砂粒の表面に文字が刻まれている。一粒に一画。擦れ合うことで画が組み合わさり、音声として再生されている」

 こよいは息を止めて耳を傾けた。巾着きんちゃくを胸の前で押さえ、身を屈かがめて砂に顔を近づける。砂粒の間に、自分の影かげが落ちた。

 しゅ、し、しゅ。か、き、く。

 音節だった。砂が音素おんそを発している。一粒では聞き取れないほどの微かな振動が、何百、何千と重なることで、人の耳に届く音の形を成していた。

 「名前の破片だ」

 久遠くおんが立ち上がった。膝ひざに付いた砂を払わずに、義眼ぎがんの蒼光そうこうを階段の奥へ向けた。光が闇を裂き、はるか下まで砂が積もっているのが見えた。

 「漂白ひょうはくされた名前が、完全には消えずに砂粒に分解されて残っている。記録きろくからは抹消まっしょうされたが、物質としての痕跡こんせきが砂の形で堆積たいせきした」

 こよいは砂の前にしゃがみ込んだ。掌てのひらを近づけると、囁ささやきが変わった。巾着きんちゃくの中の神々が脈打ち始め、その振動が砂に伝わる。砂粒の動きが活発になった。布越しに伝わる温もりが指先を通り抜け、砂に染みていくのが分かる。

 こ。よ。

 自分の名前の一部が聞こえた気がして、こよいは身を引いた。心臓が跳ねた。自分の名前が砂の中に散らばっているような感覚が、背筋を駆け上がった。

 「驚くことはない。お前が近づけば、お前の名前に近い音素おんそを持つ砂粒が反応する。磁石と砂鉄のようなものだ」

 久遠くおんの声は平坦だったが、義眼ぎがんの蒼光そうこうがいつもより長くこよいの手元を照らしていた。観察している。名前と砂の反応を、記録している。

 こよいは再び掌てのひらを砂に向けた。今度は巾着きんちゃくも一緒に。布の中で神々が温かく脈打ち、その波動が砂の上に広がっていく。

 砂の囁ささやきが変わった。断片的な音節が、少しずつ繋がり始める。ばらばらだった粒が寄り合うように動き、摩擦まさつの音が途切れずに連なっていく。

 し、ろ、た、え。

 「……名前だ」

 こよいが呟つぶやいた。四つの音節が繋がり、一つの名前になった。しろたえ。砂が記憶していた名前。記録きろくからは消されたが、砂粒の一つ一つに刻まれた画が、偶然の摩擦まさつによって何百年もの間、その名前を囁ささやき続けていたのだ。

 こよいの目の奥が熱くなった。消されても、ここで声を出し続けていた名前。誰にも聞かれなくても、囁ささやき続けていた砂粒たち。

 巾着きんちゃくが鳴った。中の神々が、聞き覚えのある名前に応えている。布が内側から押し広げられるように膨らみ、温もりが一段と増した。

 「しろたえ。知ってるの?」

 神々がもう一度脈打った。知っている。覚えている。脈動の間隔が短くなり、懐かしい者に再会したときのような、せわしない温かさが巾着きんちゃくの布を通して掌てのひらに伝わってきた。

 久遠くおんが目録もくろくを開いた。白い頁ページに「しろたえ」と書き込む。書いた瞬間、文字が蒼く光り、頁ページに定着した。紙の繊維せんいに染み込むように文字が沈み、もう消えない色になった。

 「砂が覚えていて、記録きろくが忘れていた名前だ。目録もくろくに写せば、再び記録きろくとして存在できる」

 こよいは砂に向かって小さく頭を下げた。額ひたいが砂の近くまで寄り、囁ささやきが耳元で直接響いた。

 「ありがとう。覚えていてくれて」

 砂の囁ささやきが、少しだけ穏やかになった。擦れ合う音の鋭さが消え、柔らかい波のような音に変わっている。砂粒が落ち着いたように静まり、こよいの膝ひざの周りにだけ、温かい空気の層ができた。

 おたまが砂へ前脚を置くと、小鈴の振動で別の一画が鳴った。名には届かない一音だったが、しろたえの最後の音と重なって余韻を作る。猫は砂を掻かず、足を上げて次の段へ移った。欠片を散らさないためだった。

 あさひが階段の先を見た。闇が深くなっている。壁面の石が湿り気を帯び、黒く光っていた。

 「まだ下がある。砂も増えてる」

 「深く降りるほど、古い名前が堆積たいせきしているはずだ」

 こよいは立ち上がり、裾すそについた砂を払わなかった。この砂粒の一つ一つが、誰かの名前の欠片かけらなのだ。払い落とすことは、できなかった。

 階段はまだ続いている。砂の囁ささやきを足元に聞きながら、三人は次の段を踏んだ。こよいの足裏から伝わる振動が、砂を揺らし、新しい音節を生む。闇の奥から、まだ誰にも聞かれていない名前の断片だんぺんが、微かに聞こえてくる。

 砂は、まだ語り終えていなかった。
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