神雧 - KAMIATSUME -

神代 一文

文字サイズ
小 中 大 特大
400 / 500
第13章 南の方位

第400話 静かな川

水の音がしない。

 それが最初の違和感だった。階段の底を抜けると、足元に幅の広い川が横たわっていた。対岸まで十五歩ほど。確かに流れている。だが水が石を叩く音も、淵ふちで渦を巻く音もない。完全な無音だった。

 こよいは岸辺に膝をついた。石の冷たさが布越しに膝を刺し、その感覚だけが確かだった。川の色は薄い藍あい色で、底が見えない。水面みなもには地下の根から漏れる金光を受けた、絹糸のような艶つやがある。流れは緩やかだ。だが水の匂いがしない。湿気もない。川のすぐ傍そばにいるのに、空気が乾いている。

 「水じゃない」

 久遠くおんが岸辺に片膝をつき、義眼ぎがんの蒼光そうこうを川面かわもに向けた。光が水面みなもを貫き、藍色の流れの中に無数の粒が浮かんでいるのが見えた。砂粒よりも小さい。光に照らされると、一つ一つが微かに文字の形を帯びている。

 「名前だ。溶けた名前が流れている。声を失い、文字としての輪郭も崩れ、液状になって流れ続けている」

 こよいは川を見つめた。名前が溶けて川になっている。何百、何千という名前が原形を失い、もう誰のものでもなくなって、行き場を失ったまま流れている。だから音がないのだ。名前から声が消えているから、この川には音がない。

 指先を水面みなもに近づけた。触れる直前に、巾着きんちゃくの中の神々が震えた。

 触れた。

 冷たくなかった。温かくもなかった。指先に伝わるのは微かな振動だけだ。無数の名前の残骸ざんがいが、指の腹を撫でるように通り過ぎていく。一つ一つは小さすぎて読めない。だが確かに、かつて誰かの名前だったものが指に触れている。

 「……悲しい」

 声が漏れた。指先から伝わる振動が、胸の奥の柔らかい場所を揺さぶったのだ。

 久遠くおんが川岸にしゃがみ込み、義眼ぎがんの出力を上げた。蒼光そうこうが川底を照らす。

 「流れの中に、まだ原形を留めている名前がある。完全には溶けきっていない。核だけが残っているものがいくつかある」

 「拾えるの」

 「写本しゃほんを使え。川に浸ひたせば、溶けかけた名前の核が文字として定着する可能性がある」

 こよいは写本しゃほんを取り出した。名前を巾着きんちゃくへ移したあとの頁ページは白く漂白されかけ、墨を受けられる白紙は、あと数頁すうページしかない。

 写本の端を川に浸ひたした。

 紙が藍色に染まる。名前の流れが紙の繊維に吸い込まれていく。白い頁ページの上に、滲にじむようにして文字が浮かび始めた。

 は、な。ふ、た、ば。

 二つの名前が、震える筆跡で写本に定着した。文字は薄い。消えかけの墨で書いたように頼りない。だが読める。

 「はな。ふたば」

 こよいが声に出した瞬間、川面かわもがわずかに揺れた。名前を呼ばれたことに、流れの中の何かが反応している。

 もう一度浸ひたす。今度は紙がなかなか染まらない。流れが速くなっている。名前の溶液が写本を避けるように、紙の周囲だけ流路が変わる。

 「……逃げてる?」

 「川そのものが写本を異物として排除し始めた。名前を取り戻されることを、この流れは拒んでいる」

 久遠くおんが目録もくろくを川面かわもにかざした。蒼光そうこうが水面みなもを走り、流れの速度が一瞬だけ緩む。

 こよいはその隙に写本を深く沈めた。腕が肘まで浸つかる。温度はない。だが圧力がある。溶けた名前の流れが、腕を押し返そうとしている。

 巾着きんちゃくを川に近づけた。月の神が布越しに光を放つ。

 川が静まった。流れが止まったわけではない。月の神の光に照らされた範囲だけ、名前たちの動きが穏やかになっている。怯おびえた獣が、差し出された掌てのひらの前で足を止めるように。

 写本に、もう一つ名前が浮かんだ。み、や、こ。

 三つの名前。川から引き揚げた写本は藍色に濡れて重くなっていた。こよいは丁寧に水気を払い、頁ページを確認した。はな。ふたば。みやこ。三つの名前が、薄いながらも確かに紙の上に残っている。

 おたまが岸辺から前脚を伸ばした。水面には猫の姿も影も映らず、小鈴だけが金色の輪になって揺れる。流れの中の名がその輪へ集まりかけ、核を失ったまま再びほどけた。名のない器でも、溶けきったものを無理に一つへ戻すことはできない。

 こよいは救えなかった光の数を見た。三つを拾えた喜びの横に、拾えない無数がある。写本の白紙は残り少ない。次に何を受け取るか選ばなければならないことが、濡れた紙の重さになって腕へ残った。

 あさひが川の上流を見た。闇の奥まで、藍色の流れは続いている。

 「この川にはまだ何百、何千の名前が溶けている。全部は拾えない」

 こよいは写本を閉じ、衣の内側に戻した。藍色に染まった指先がまだ震えている。爪の隙間に入り込んだ名前の粒が、微かに光を帯びていた。

 「全部は無理でも、拾えた名前は確かにここにある。はなも、ふたばも、みやこも」

 写本を胸に押し当てた。三つの名前の重みが、紙越しに伝わる。

 久遠くおんが立ち上がり、川の下流に目を向けた。

 「この川は南へ流れている。流れの速さは一定だ。名前が溶けて流れ着く先がある。川の終端を辿たどれば、名前が最終的に行き着く場所に出る」

 三人は川沿いに歩き始めた。藍色の流れは音もなく傍かたわらを過ぎていく。川岸の石は乾いているのに、表面に薄い藍色の膜まくがこびりついていた。名前の飛沫しぶきが長い時間をかけて石を染めたのだ。足元の砂利じゃりにも名前の粉が混じっているのか、踏むたびに微かな光が散った。

 川の中から、呼び声のようなものが聞こえる気がした。だが耳を澄ませると消える。声ではない。声を失った名前たちの、声になれなかった震え。

 流れは南へ続いている。声なき声が、藍色の中を漂ただよい続けている。
 静かな川は、急がなかった。名前を運ぶのに急ぐ必要はないのだと、その藍色あいいろの流れは、はじめから知っていた。
 こよいは川面かわもに指先を浸ひたした。冷たくはない。名前の体温に近い、静かな温もりだった。声にならない声が、その温もりを通じて、指先に伝わってくる。まだ、いる。まだ、消えていない。
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~ 表紙

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。
恋愛 完結 ショートショート
文字数 9,943
現代冒険者のすゝめ ~高校受験に落ちた僕、冒険者になってみた!~ 表紙

現代冒険者のすゝめ ~高校受験に落ちた僕、冒険者になってみた!~

何処にでもいるような少年、田中アルト、16歳。中卒。趣味なし、特技なし、彼女なし。 特別なことと言えば、8年前に起こったD災害《ダンジョン災害》で両親を亡くしたことだ。 ただし、その記憶はないけどね…。 心優しい叔父夫婦に拾ってもらうが、感謝はしていてもどこか他人に感じてしまうアルト。 高校受験に失敗したアルトは、自暴自棄になり動画でみた冒険者になってみることを決意。 ……冒険者としての初めてのダンジョンアタック、3階層まで行くとそこには、ダンジョン配信者の少女が。 アルトが「あ、あぶない!」と言いながら放った一撃が、世界を変えた。 これは、すべてを失った少年が、その運命に翻弄されながらも少女と出会い自分の人生を諦めない物語。 カクヨムからの移植作品になります。 それなりに視聴数があったので自信作です! 誤字脱字にチャッピー使用。 絵にジェミニ使用。 それ以外はAIは使用していません。 話が追い付くまでハイペース投稿します。 追い付いたら1日1話投稿になります。
ファンタジー 連載中 長編
文字数 526,983
VRMMO転移したら小間使いでした 表紙

VRMMO転移したら小間使いでした

現実ではいじめられ、家にも居場所がない高校生・井上真。 唯一の逃げ場は、VRMMO《Sanctuary Life》で自分が作った“理想の自分”── 長身イケメンで世界一の商会長《カルロ》として生きる時間だった。 しかし、現実で追い詰められた末に命を絶った真が目を覚ますと、 そこはまさかの《Sanctuary Life》の世界。 しかも転生したのはカルロではなく── カルロ商会の小間使い《マルコ》だった。 自作アバターにこき使われる毎日。 理想の自分の足元で荷物を運び、怒られ、褒められ、振り回される。 屈辱と戸惑いの中で始まった異世界生活は、 なぜか“商人としての才能”を少しずつ開花させていく。 帳簿の異常、横領の兆候、輸送ルートの欠陥── 誰も気づかない問題を次々と見抜くマルコは、 やがてカルロから「右腕」に指名され、 商会争奪戦の鍵を握る存在へと成長していく。 理想の自分の下っ端から始まる、 商会×成長×VRMMO転移のライトファンタジー。 自信ゼロの少年が、異世界で“自分の価値”を見つけていく物語。
ファンタジー 完結 長編
文字数 126,733
限界突破の無双サバイバル〜鑑定スキルと無限レベルアップで未開の島を制覇し、助けた美女たちと最高の村を作ります〜 表紙

限界突破の無双サバイバル〜鑑定スキルと無限レベルアップで未開の島を制覇し、助けた美女たちと最高の村を作ります〜

異世界の島に転移した駆(かける)は、与えられた『鑑定』スキルと、上限なく上昇し続けるステータスを手に入れた。 魔獣がうごめく島で、俺は圧倒的な物理攻撃と鑑定スキルを活用して安全な水や食料を確保し、サバイバルを始める。 探索を続ける中で、魔獣に襲われる人間の少女リアナ、主人の毒に怯えるメイドのサリア、強敵に追い詰められたエルフの戦士リーファ、素材不足で困窮するエルフの治癒士フィリアを発見する。俺は限界を突破したステータスと的確な指示で、彼女たちの脅威や問題を次々と物理的に排除していく。 命や生活の基盤を確実に救済された美女たちは、俺の実力に圧倒され、激しく溺愛してくるようになる。 やがて集落の村長を引き受けた俺は、鑑定スキルで見つけた豊富な資源を使い、村を快適に作り変えていく。
ファンタジー 完結 長編 R15
文字数 45,688
転生特典〈無限スキルポイント〉で無制限にスキルを取得して異世界無双!? 表紙

転生特典〈無限スキルポイント〉で無制限にスキルを取得して異世界無双!?

目が覚めたら天界にいた主人公・凸守優斗。 女神様に死後の案内をしてもらえるということで思春期男子高生夢のチートを貰って異世界転生!と思ったものの強すぎるチートはもらえない!? ならば程々のチートをうまく使って夢にまで見た異世界ライフを楽しもうではないか! これは、只人の少年が繰り広げる異世界物語である。
ファンタジー 連載中 長編 R15
文字数 107,205
初級技能者の執行者~クラスメイトの皆はチート職業だが、俺は初期スキルのみで世界を救う!~ 表紙

初級技能者の執行者~クラスメイトの皆はチート職業だが、俺は初期スキルのみで世界を救う!~

高校生・黒杉楊一は、ある日突然クラスメイト達と共に異世界へ召喚されてしまう。 異世界へ召喚された者は“勇者”として特別な力を授かる――はずだった。 勇者、剣士、魔導士、天空騎士。 クラスメイト達が次々と強力な職業を授かっていく中、楊一に与えられたのは最弱職業《村人》。 ステータスは最低クラス。 覚えられるのは初期スキルのみ。 しかも唯一のスキルは《石投げ》!? 周囲から落ちこぼれ扱いされながらも、楊一は異世界で生き抜くため奮闘していく。 しかし、魔獣討伐の最中、クラスメイトの裏切りによって谷底へ落とされてしまう。 絶体絶命の中、楊一が出会ったのは銀髪の美少女――。 その出会いをきっかけに、楊一の運命は大きく動き始める。 最弱職業《村人》の少年が、仲間達と共に成長しながら世界を旅する異世界ファンタジー、開幕!
ファンタジー 連載中 長編 R15
文字数 612,200
異世界転移したオッサンの農園のんびりハーレム生活~女神様にもらった「浄化スキル」で清めた水を撒いてたら幼女が生えてきた~ 表紙

異世界転移したオッサンの農園のんびりハーレム生活~女神様にもらった「浄化スキル」で清めた水を撒いてたら幼女が生えてきた~

初恋の人と祖父の農地を兄に取られてしまった、今川清志は工場派遣で昼夜二交代で三十路を超えるまで生活をしていた。 疲労困憊で歩いていた時、電車にひかれたと思ったら異世界の女神に救われて〈浄水〉スキルと共に異世界へと連れ出される。 瘴気というものが広がって草木が枯れ、動物が狂暴化する世界の村に降り立ったキヨシが教会の庭に〈浄水〉で水をまくと、ドリアードの幼女が生えて来た!? 「パパ―!」 「ああ、貴方様は聖者様なのですね!」  幼女ドリアードと巨乳シスターに慕われたことから、家族の様な生活がはじまる。  そうしていたら、瘴気にとらわれて怪物化していたディーナ・シー(幼女)を助け、パン職人の未亡人とも仲良くなり  気づけばハーレム状態に!    これは家族に憧れた非モテのおっさんが異世界でビックダディになっていく物語である。
ファンタジー 完結 長編
文字数 130,521
神の手を持つ3歳児?! 表紙

神の手を持つ3歳児?!

現代日本で「神の手」と呼ばれた天才外科医、天城蓮司。数え切れない命を救ってきた彼は、ある日、手術中に倒れ、その生涯を終えた。 しかし、次に目を覚ましたとき、彼は剣と魔法が存在する異世界の王国に生まれ変わっていた。 しかも、その姿は、まだ三歳の王子様。 三つの大国が互いに牽制し、国境では戦争が絶えない世界。王族の命さえ安全ではない宮廷で、彼は前世の医学知識を武器に、誰にも知られず父王の命を救う。 だが、それは大きな陰謀の始まりにすぎなかった。 幼い王子が持つのは、剣でも魔法でもない。 人の命を救う、神の手だった。
ファンタジー 完結 短編
文字数 25,312