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第三十四話 堅物であるほど効果は絶大

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「ね、ねえ……? えい……? こっち……向きなさいよ……?」
「おいおいおい! やめろやめろ、エリナ! お前、サクッと《催淫》されてんじゃ――!」

 俺はソファーの上を四つんいになって近寄ってくるエリナを片手で押し退けつつ、必死に説得する。だが俺の方も、もう間もなく抵抗ができなくなりそうで。



 ほんの少し前――。



 このうす暗じめじめした洋館の女主人、地味重サキュバスのイシェナさんが、すっかりその表情を隠してしまっている前髪を掛けている大きめの丸眼鏡ごと上げた瞬間にそれは起こった。

 ――うっ!

 なんだよやっぱりかなりの美人さんなんじゃないかよ、とか思える余裕なんてわずかコンマ数秒のうちに消し飛んだ。イシェナさんのそばかすの上でとろりと垂れ下がっている大きな瞳に見つめられた途端、俺の心の奥底からむくむくと湧き出る感情にたちまち身体が熱を帯びる。

(うお……! こ、これがサキュバスの持つ《催淫》スキルの力か……! なんていうか……)


 えっちい。
 とてつもなくえっちい気分なのである。


 だが、不思議なことに、その突如湧き出た情欲の矛先は、当のイシェナさんではなかった。

(今まで気づかなかったけど……エリナのくせに……やっぱかわいいっつーか……くうう……)


 ――目の前のイシェナさんや、《正義の天秤》魔法律事務所の自称《悪いJS邪神》のマユマユさん、サキュロスのカネラさんに比べたら明らかに見劣りする控えめな胸。それに、俺の尻を何度も何度も蹴りつけたほっそりとすべすべした憎たらしい足。ぴこぴこと今も浮足立ったように動いている耳元から生え出た羽根飾りのような小さな翼に、そしてなにより、そのいつもとはまるで違う、赤らんで上気したような興奮を隠しきれないだらしなくはしたない顔。



 ……ん?
 よくよく考えたら、どれもこれもチャーミングっていうより、ダメな点じゃね?



「えっと……イシェナ……さん?」

 なんだか急に俺は賢者モードになっている自分に気づいてしまった。

「俺にもその……《催淫》スキル、使ったんですよね? ちょっと効果が微妙な気が……」
「ええとえとえと……。あたし、ですねぇ……男の人、恐怖症気味っていうかぁ……そのぅ」

 そうもごもごと言い訳を並べながらも、イシェナさんはやはりまともに俺の顔を見ようとしなかった。もしかすると、そのせいで《催淫》の効果が中途半端なのかもしれない。

「はぁ……ふう……んっ!」

 しかし、エリナに関しては違ったらしい。

「ね、ねえ……? 瑛……? こっち……向きなさいよ……。それとも……蹴られたいの?」
「おいおいおい! やめろやめろ、エリナ! それ以上近づくなってぇえええええ!」

 俺はソファーの上を四つん這いになって近寄ってくるエリナの瞳の奥に宿った妖しい光を見て、とんでもない事態になってしまっていることを悟った。エリナの顔を容赦なく片手で押し退けつつ、必死に説得を試みる。しかし、これっぽっちも止まってくれそうな気配はない。

「お前、サクッと《催淫》されてんじゃねえっつーの! おい、こら! 目を覚ませって!」

 だが俺の方も、遅ればせながらじわじわと《催淫》スキルの効果が出てきたらしく、もう間もなく抵抗ができなくなりそうだ。エリナの顔に触れている手から徐々に彼女の熱が伝わってきて、その異常な感覚が伝染したかのように身体中に広がっていくのを感じる。

「そ、そうなのね? やっぱり蹴られたいのね? ふふん、瑛ったら素直じゃないんだから♡」
「その歪んだ愛情表現やめろぉおおお!」
「……蹴るとね? 蹴ると、相手の痛みが足の裏からじわじわ登ってきてぇ……うふふふふふ」
「お前、とんだド変態だな!?」

 次の瞬間、逮捕術のような搦め手で俺の右腕を嫌というほど捩じり上げたエリナは、いともたやすく俺の身体を組み伏せて大股開きのマウントポジションの体勢になると、うりうり、と靴のかかとを頬にめり込ませてくる。あっ――これはなかなか――うん――痛い、痛たたたたたた!

「ちょ――っ!」

 さすがの俺も耐え切れずに、ソファーの反対側から身を乗り出して、ふひふひ言いながらことの成り行きを見守っている(?)イシェナさんに助けを求めた。

「も、もう十分分かりました! だから《催淫》スキル解除PLZプリーズ! というか主にこいつの!」
「こ、これからがぁ……いいところなのにぃ……」
「ちっともよくねえ!?」

 日頃から厳しく自制していたエリナにとっては、またとない自己欲求の解放の場なのだろうが、こと俺に至ってはラッキースケベどころか何の恩恵も感じられないのだ。まったくの《催淫》損である。これが逆だったなら、俺は止めなかっただろう。堪能していたはずだ(最低)。

「おい、こら! 早くしてくれ!」
「ふ、ふわぁい……」

 いささか俺が語気強めに命ずると、男性恐怖症のイシェナさんはびくりと肩を震わせて、右手の指を軽快に、ぱちん! と鳴らした。すると、その瞬間、エリナの表情に変化が生じた。

「あ……///」

 見る間に頬の赤みが消え失せ、青白くなると、今度は髪の生え際まで真っ赤になる。

「ご、ごほん……こ、これで、イシェナさんがサキュバスだってことは分かったな、うんうん」
「……っ。……ううう」
「あー、エリナさん? そろそろ俺の上から降りて――そうそう、ゆっくりとね――ごぶっ!」


 蹴るなぁあああああ!


「痛えっつーの!」

 予測していても避けられないものは避けられないのだ。大体、マウントポジションからのエスケープなんて高等技術、俺は習得してない。してたら総合格闘家として活躍してるっつーの。

「い、今のは全部《催淫》スキルのせい! お前の中に潜んでいるよこしまでどろどろと鬱屈うっくつした欲望じゃないんだから気にするな! 忘れろ! 夢だと思え! 俺も忘れる! すべて、だ!」
「も、もう喋るな、《咎人とがびと》っ!」


 ――どすっ!
 ――どすっ!!
 ――どすっ!!!


 ロー・ミドル・ハイの流れるようなコンビネーションをまともに喰らった俺はそのまま吹っ飛び、あろうことかイシェナさんの胸の谷間に世紀の大泥棒よろしくダイブしてしまう。

「ひっ――!」


 ほよん。


 あーこれぇ。
 すっげえふかふかでぇ。
 いい匂いもす――。


 と、ようやく訪れたラッキースケベを堪能していると、俺を見下ろしているイシェナさんと目が合う。その顔は慈愛に満ちており――なんということはなく、純粋に恐怖が浮かんでいて。

「ほ、ほぎゃあぁあああああ!」
「げぶっ!?」

 後頭部あたりに振り下ろされたイシェナさんの両手と、なぜか鋭く背骨の中心めがけて蹴り込まれたエリナの踵の相乗効果で俺は、受け身をとることすら許されずに石床に顔から落ちる。

(一時の快楽に対して支払う代償と対価が、闇金並みにひでぇんですけど……)


 そう、そして。


 おそらくおおかたの予想どおり、俺は異世界に来てからもう何度目か分からない気絶をしてしまったのだった。


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