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第一章 溜息は少女を殺す

溜息は少女を殺す(9)

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「さあ、あの丘の上が目的地だぞ」
「ふすー……ホントに来ちゃいましたね」
「? 当たり前だろ? っていうか、せめて膝まくらを切り上げてから言ってくれ……」



 あたしは仕方なく、ぶつぶつ、と口ごもりながら美弥みやさんの太腿の上から身を起こして窓の外に見える大病院、華佳和会富士見ヶ丘病院の外観に目を向けます。街を一望できる丘の上に建っているということもあって、高級ホテルだと言われても信じてしまいそうな造りです。



「入院費、高そうですね?」
「まあな。だが、恐らくは学院持ちだろう。ここなら警備も口も堅いともっぱらの評判だから、妙な噂が広まることもないだろうしな。金で片付くなら、学院のお偉方も安心って訳さ」

 そうこうするうちにするすると丘を登ったタクシーは、病院のロータリーで停車しました。

「で? どうする気なんです? 警備も堅いって自分で言ってましたよね、白兎はくとさん」
「ああ、そうだな」

 そこで白兎さんは、あたしではなく美弥さんを見つめて言います。

「ここはみゃあに一芝居打ってもらうしかないか」
「……面倒。自分でやれば。いいのに」
「おいおい。仕方ねえだろ。ここじゃあ用意も準備もできないんだから。な? 頼むよ。ペットとして大事に飼ってやってるんだから、こういう時くらい御主人様のお役に立てって」
「……むー」



 はい、また出ました、ペット・・・
 しかも『御主人様』って……。

 でも、その言葉を聞くと従わずにはいられないらしくって、美弥さんは頬っぺたを膨らませながらもそれ以上の文句は口にしません。もうこれって、アレ、決定なんでしょうか……?



 悶々とした気持ちを抱えたあたしを狭い車内で器用に追い越しながら――ふぉおおお! お尻っ、柔らかいっ!――代金を黒いホログラム入りのカードで払い終えた白兎さんに続くように美弥さんが歩き出します。運転手さんに何度もお辞儀をしてから慌てて後を追うあたし。

 音もなく開かれた自動ドアの中は少しひんやりと涼し気でした。そのさらに進む先にあるのは病院の総合受付のようです。ロビーを見回しても、思ったより人気はありません。

「いらっしゃいませ。御用件をお伺いしてもよろしいでしょうか?」

 まるで高級ホテル――そう思った印象はあながち間違いじゃなかったみたいです。出迎えてくれた受付の女性が身を包む制服は、病院の無機質で素っ気ない消毒液の匂いがしそうなそれとは違っていて、華やかで洗練されたデザイン。

「あの……失礼ですが、当院は紹介制ですので外来の方は受け付けておりません。どなたかのお見舞いにいらっしゃったのでしょうか? 面会時間まではまだ少しありますが――?」

 その一部の隙も無い美人メイクを際立たせる極上の微笑みを少しも崩さぬように、受付の女性はあくまで冷静に、平坦な感情で言い放ったのですが。



「あ……」
「――?」
「あの……実は……う……ううううううっ!」

 本当に突然でした。



 よろよろと受付の女性の前まで近づいた美弥さんが一言二言言葉を発したかと思うと、何の前触れもなく声を詰まらせ、ぽろぽろと涙を落として号泣し始めたのです。

「あたしの……せい……! あたしのせいなんです! かなめが……かなめが自殺未遂だなんて……! ああ……! どうしよう……どうしたらいいの! う……ううううううっ!!」
「――! だ、大丈夫ですか!? な、泣かないでください!」

 それまでポーカーフェースを貫いていた受付嬢の表情は一瞬で狼狽の色で塗り潰されてしまいました。カウンターの奥から飛び出してきたかと思うと、その場に泣き崩れた美弥さんの震える肩に恐る恐る触れ、やがて、しっかりと抱き締めてこう言います。

「ね? 落ち着いて? お姉さんに話してくれる? 大丈夫、大丈夫だから――」
「はい……ありがとうございます」

 そこで美弥さんははじめて顔を上げ、心配げに覗き込む受付嬢の目を涙で潤んだ瞳で見つめました。途端、受付嬢の表情に別の色が流れ込んできたのが分かります。そこに、追い打ちのように美弥さんの細い指が受付嬢が肩に添えている手に触れ、妖しく絡み、濡れた唇が甘い息を吐きました。

「私……もうどうしたらいいのか……」
「だ――大丈夫よって言ってるでしょう。お、お姉さんが、ち、力になってあげるから」
「だって……かなめの病室は分からないし、面会時間もまだ……なんですよね……?」
「――! それは……」



 その受付嬢が迷ったのはほんの一瞬でした。
 いえ、迷いを振り払ったのは、というべきかもしれません。



「……ね? 内緒にできる? お姉さんとの、ヒ・ミ・ツ、守れる?」
「……は……い。何でも……何でも……しますからぁ……」



 ぞくぞくぞくぞくっ!



 傍から見ているだけのあたしですら、その言葉には一切抗えなかったでしょう。痺れるような甘美な震えが全身を駆け抜ける中、その受付嬢は弱々しく内股気味にヒールの爪先を踏ん張りながらもよろめきつつ何とか立ち上がりました。

「そ、そこで待っていて。ね?」

 すると、受付嬢はふらつきながらもカウンターの中へと戻り、他の受付嬢がいないことを確認してから情報端末を操作すると、目的の物を見つけ、ごくり、と唾を飲み下して再び立ち上がります。そして、落ち着き払った態度を装いながら、美弥さんの下へと戻って来ました。

「あなたが探しているのは、五十嵐要さん、そうなのよね? 五一一号室の個室にいるわ。大丈夫よ、さっき意識を取り戻したようだから。無事なの。だから安心して? いい?」
「良かった……お姉さん……優しい……」

 美弥さんはようやく泣くのを止め、頼りなげな笑顔を浮かべてみせました。その手が受付嬢の差し出した手に触れ、その顔がすっかり上気してピンク色に染まった受付嬢の仮初めの仮面が剥がれてしまった顔に近づいて行きます。





 そして、全てを受け入れるように――。



 いや。全てを捨てて、自ら溺れるかのように――。





「おほん……。あの、失礼ですが?」

 しかし、すんでのところで白兎さんが軽く咳払いをし、あわやというところで禁断の行為は打ち砕かれ、周囲に漂っていた薄桃色の空気がすっと霧散してしまいました。

「あ………………あ! は、はひっ! んんっ! ……し、失礼しました」
「いえいえ。こちらこそ」

 今しがたまで目の前で繰り広げられていた光景が全て夢幻であったかのように、白兎さんは極めて冷静に、にこやかに相好を崩して話しかけます。

「そのう。五十嵐さんへの面会は可能なのでしょうか。あれ以来、妹は情緒が不安定で……」
「いえ。そ、それは……」



 きゅっ。



 我に返った受付嬢の手に縋るようにして美弥さんがゆっくりと立ち上がると、その仮面は再び剥がれてしまっていました。受付嬢は語りかけた白兎さんには目もくれず、美弥さんの瞳の奥をとろんとした目つきで見つめ、スカートのポケットから三枚のIDカードを取り出してそっと握らせます。

「まだ早いけれど、通してあげる。特別よ? そのカードを胸元に付けておいてね。それで病院の中は何処にでもいけるから。あ、あと……あとね? これ、持っていて。約束よ?」
「ありがとう……ございます。お姉さん……大好き」
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