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第四章 アリス――鏡の中の

アリス――鏡の中の(7)

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「もう! なんであんなきつけるようなこと言ったんです!?」
「はぁ? 何の――ああ、最後のアレのことか」


 二人に別れを告げ、再びタクシーに乗り込むや否やあたしは白兎はくとさんに喰ってかかりました。
 けれど、白兎さんはにやにや笑うだけで、ちっとも反省の色なんて見えなくって。


「そりゃあ簡単なことさ。だって、相思相愛の仲じゃないか。俺はまどろっこしい連中の背中をぽんと押してやっただけで、感謝こそされても非難を受けるようなことはしてないだろ?」
「相思相愛って……。も、もしかして、杏子きょうこも、ってことです? あはは、ま、まさか――」
「その、まさか、だよ」


 白兎さんは器用に片目を閉じてみせます。そしてまだ合点のいかないあたしに告げました。


向日葵ひまわりについて尋ねたら、彼女は真っ赤になって慌てていたじゃないか。覚えてるだろ?」
「そうでしたけど……それが?」
「それが、って……。分かってないで言ってたのか?」


 白兎さんはますます面白そうに肩を震わせて笑ったのでした。


「花言葉は『憧れ』『あなただけを見つめてる』だ。つまりそういうこと」
「ぐ、偶然……では?」
「おいおい。二人の最後のやりとりはどう解釈するんだ?」
「そ、そうですそうですよ! あ、あのですね、『吊り橋効果』っていうのご存知ですか?」
「知ってるに決まってるだろ。いい加減、認めて諦めろよ」



 そ、そんな……!

 つい先日、愛の告白をしたばかりだというのに(即うやむやにされましたが)、あたしのかけがえのないお友達、大事な人である円城寺杏子さんが誰かの物になってしまうなんて……!



 でも。
 あの蛭谷さんだったら、仕方ないかもしれませんね。

 それに、そうだと決まったからといって、学校で仲良く――必要以上に仲良くしちゃいけないって訳でもないんですから。場合によってはそのままNTRネトリという手もなくはないかも!



 ……はい、ないですよね。知ってました。



「っていうか、またタクシーって……。次は何処に行くんです? 大体、白兎さんっていつもタクシー使いますよね? 移動が多いんだったら自分で運転すれば良いんじゃないですか?」
「俺は――」


 狭い車内で隣同士に座っているのに、急に会話が引っかかって不自然な距離が生まれます。


「俺、運転、できないんだ」
「へ? ……ああ。免許を持ってない、ってことです? それなら教習所か合宿でぱぱっと」
「いや。今まで運転したことはないし、この先ずっと運転することはないな」
「そ、そうなんですね。そっか」



 あはは、とわざと陽気に応えてはみたものの。



 どうしよう……。

 今の話題で妙な空気になってしまいました。それにしても、一生運転しない、っていう裏側には何があるのでしょう。運転技術・センスに乏しい? 極度の乗り物酔い? それとも、車は運転手を雇って後部座席に乗るもの、なんていう富裕層めいた主義・主張でもお持ちだとか? いえいえ、まさか。あのオンボロ事務所の探偵さんですよ?



 ――おっとと。

 しばしぼーっと物思いにふけっていたらタクシーが左折した勢いでよろけてしまい、隣りの白兎さんに、なよっ、としなだれかかるような体勢に。慌てて身を引き剥がそうとしたのですけれど、優しく肩を抱くように受け止めた白兎さんの動きの方が素早くってあまりに自然で。



「大丈夫か、祥子しょうこちゃん?」
「は――はい……。だ、大丈夫……です……」
「何だよ、妙にしおらしいな。調子狂うぞ?」


 ううう、また馬鹿にして……。
 でも、結果的に笑ってくれたのでよしとします。

 白兎さんは肩をくっつけたままあたしのぱっつん前髪の奥を覗き込むようにして尋ねました。


「それよりもだ、祥子ちゃんは、水族館、好きか?」
「す――好きです。あ、す、水族館のことですけど」
「良かった」


 やがてタクシーの車窓から見える景色の中央に、アシンメトリーな外観の天を突く巨大な螺旋模様の電波塔が見えてきます。あれって確か――。


「あそこの下にある水族館、行ったことあるかい? 実はまだでさ」
「あたしもないです」
「じゃあ良かった。軽くランチでもしてから行こう。ただ、ちょっと悪いんだが――」
「?」





 ◆ ◆ ◆





 悪いんだが――その意味はすぐにも判明し、あたしは薄暗い照明の下、一人掛けのプラスチック椅子にぺたんと座ってむすりとむくれていました。


「何が『埋め合わせ』ですか、こんな場所に一人残して仕事の打ち合わせだ、なんて……」


 目の前にはぷかぷか浮かぶ大量の海月くらげ。淡いブルーでライトアップされた月のように丸い水槽内から漏れる光が、あたしの今の表情をぼんやりと浮かび上がらせています。



 はぁ、確かに一人きりの時間潰しにはもってこいです。

 周りは男女の二人連ればかり。
 ひとりぼっちなのはあたしくらいなんでしょうね。



 この水族館、他にも見どころはいっぱいあるようです。水深六メートルの巨大水槽に、江戸時代から庶民に愛される金魚だけを集めたゾーン、見た目の奇抜さと動きの愛らしさからブームになったチンアナゴや、生態系を再現したペンギンゾーンでは一日のうちに数回イベントを実施しているんだそうです。



 でも、今のあたしの気分はここ。

 ゆらゆら。
 ぷかぷか。

 水槽の中の水の流れに身を任せて、ゆらり、ぷかり、と漂うだけの海月。



 特に芸をする訳でもないし、ちょっとグロテスクな見た目のものもいるけれど、フロアに流れるゆったりとしたテンポの音楽と心地良いアロマの香りが、ちょっといつもと違っていたあたしの気持ちと心を優しくなだめ、包んでくれるかのようです。



 あたし、何を期待していたのでしょう。

 そもそもあたしは、男の人なんて興味がないのに――なかったのに。
 柔らかくて可愛らしくて、良い匂いがする女の子の方が好きなのに。





 はぁ、馬鹿みたい。





 あの時たまたま出会った人が、四十九院つるしいん白兎と名乗るとびきりの変わり者で、男性恐怖症のあたしでも気軽に喋ることができて、触れたりすることだってできちゃって、謎めいた事件でもあっさり解決できる頭脳を持っていて。

 そんな白兎さんが、埋め合わせをしたいから土曜日一日付き合ってくれ、なんて言い出したから、今までしたこともなかったメイクやお洒落を有海あみに教わりながら精一杯頑張って。





 はぁ、あたしは――馬鹿だ。





 もう何度目か分からない溜息をつき、いっそのこともう一人で帰ってしまおうか、と思っていた矢先のことでした。突如視界が塞がれて、耳元に囁きが流し込まれたのです。


「……ふふ。だーれだ?」
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