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第四章 アリス――鏡の中の

アリス――鏡の中の(8)

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「だーれだ? 分かるかなー?」


 その声。その香り。
 たとえ一条の光すらない闇の中でも、あたしはその人の名を言い当てられたことでしょう。


「あ――安里寿ありすさん、ですか? どうしてここに!?」
「あらあら。分かっちゃったかー」


 あたしの両目を覆う手をきゅっと握り締めて――あれ? 煙草の匂いがしない?――大急ぎで後ろを振り向くと、そこには確かに『動かざる名探偵』安里寿さんの姿があったのです。

 袖口が広がり膨らんだ生成きなりのパフスリーブの襟は長めのスタンドカラーで、襟端はさりげなくフリル仕立てになっていてとってもフェミニンで可愛いらしい。下は膝上がゆったりとした濃紺のジョッパーズ。足元には女性物の丈の長いウェスタンブーツを履いていて、もう嬉野うれしの、安里寿さんが恰好良すぎてイケメンすぎて今にも鼻血が出そうです。



 というか。



「え? え? え? さっき、白兎はくとさん、仕事の打ち合わせって言ってましたよね? ね?」
「だ・か・ら・よ・?」


 あたしの台詞は目の前の人物に向けて言ったつもりでしたが――目の前で腕組みしながら片方の頬をぷくーと膨らませて安里寿さんは何度もうなずきあたしの言葉に同意します。


「まったく、白兎の奴ったら……。あいつ、こんな時に限ってこう言ったのよ? ――姉貴・・、悪いんだけど少しの間任せたい、ですって! 祥子ちゃんはモノじゃないのに失礼よねー?」
「は、はあ。ま、まあそうですね」


 何だか拍子抜けで、むしろあたしの方が聞き手に回ってうなずいてるだなんて変ですよね。でも、どうやら本気で怒っている安里寿さんに、これって変じゃないですか、とも聞けず。


「ねぇ、知ってる? 白兎があたしのことを『姉貴』だなんてえらくかしこまった呼び方するのは、困った時の尻ぬぐい役にノミネートされて見事受賞した時ばっかり。……あ、違うの違うの! それって別に祥子ちゃんが悪いって訳じゃなくって――」
「ふふ……ふふふ」
「ね? おかしいでしょ? いつもなら『安里寿』って呼び捨てにするくせにね」


 つい堪え切れずに笑い出してしまったあたしに安里寿さんはウインクします。


「……でも、おかげで良かったわ。こうして祥子ちゃんとデートできるんだもの。ね?」


 どきり――思いがけず脈打った胸の鼓動。それは目の前にいるのが安里寿さんだからなのでしょうか。それとも、『デート』というその単語ワードの生み出す魔法のせい?

どぎまぎして物も言えずに頬を赤らめるだけのあたしの手をさっと取り、安里寿さんは勢い良く引っ張り上げます。


「あたし、水族館って大好きなの。さあ、行きましょ?」
「あ……は、はい!」





 それからの数時間はまるで夢のようでした。


「はーい、祥子ちゃーん! ぶぅー!」
「やだー! 安里寿さん、変顔してる!」


 子供のようにはしゃぐ安里寿さん。それを追い駆け、一緒になって水槽の中を覗き込んでみたり、色とりどりの魚たちを挟んで水槽越しに見つめ合って笑い合ったりするあたしたち。


「ほーら。はい、ペンギンさんたち餌ですよー!」
「あははは。凄い凄い! みんな賢いですねー!」


 一番の目玉であるペンギンゾーンでは、運良く二人揃って餌やり係に選ばれて、きらきらと銀の鱗が光る小魚を手に、ペンギンさんたちをうまく誘導しながら均等に行き渡るように餌をあげます。途中、借りたゴム製のブーツをつままれて、あたしは危うく水槽の中に落ちそうになりました。そこに素早く助けの手を伸ばしたのは安里寿さん。細くて見た目より力強い手。


「ふー、ちょっと休憩ね。さすがにはしゃぎすぎちゃった」


 そうして一通り館内を見て回ったところで、あたしたちはパノラマのように広がる巨大水槽の前にあった木製のベンチに揃って腰掛けました。はい、と安里寿さんからさっき自動販売機で買ったばかりの缶ジュースが手渡されます。


「ですね。安里寿さんってこんなにアクティブだって思ってませんでした」
「もー。また、あれでしょ? 白兎に変なこと吹き込まれたんじゃない?」
「あははは。別にそういう訳じゃないですけど」



 ――ぷしゅ。

 良く冷えた透明なサイダーが小気味良い音を立てます。
 しゅわわ……と泡音が徐々に小さく消えていきます。



「夢……じゃないんですよね?」
「ん?」
「安里寿さんとこうしてデートできるだなんて、あたし、思ってもいませんでしたから」


 あたしのふと発した呟きに、安里寿さんはしばらく黙ったままでした。





 薄闇の中に青く輝く水槽の中を、巨大な一匹のマンタが悠々と舞うように泳いでいます。

 その姿はまるで、星の海を行く神話の生き物のように優雅で圧倒的で。
 あたしは声もなく、その姿に見とれていました。

 あたしたちの前を幾人かの人々が通り過ぎ、ゆっくりと、とろりと時間が過ぎていく。





 しばらくして、安里寿さんは囁くように答えます。


「……夢じゃないわよ?」
「良かった――」
「――でもね?」


 その言葉に、その先にきっとある運命に、あたしはあまり驚くことはありませんでした。





 そう――少し、そんな予感がしていたから。





「たぶん、これが最後になるかもしれないわ。あたしがあたしでいられるのは」






 水槽の中を見つめる安里寿さんの瞳はブルー。
 それが細波のように揺れて、今にも泣き出しそうに顔を歪めたあたしが映ります。


「でも、嬉しかったな。最期・・に祥子ちゃんに会えたんだもの」
「……そんな言い方、嫌いです」
「ん。でもこんなこと、いつまでも続く筈はないって思ってたわ。いつか終わりは来る」


 安里寿さんはそう独り言のように呟くと、再び水槽を見つめて言います。


「あたし、この前約束したじゃない? 『必ず全てを話してあげるから』って。祥子ちゃんには知る権利がある――いいえ、祥子ちゃんだからこそ、全てを――真実を知って欲しいのよ」



 あたしは――あたしは必死に安里寿さんを引き留める言葉を探して。

 でも、見つからなくって。
 何も――何も思いつかなくって。



 安里寿さんは絶望に顔を歪め涙を堪えるばかりのあたしの頬に口づけして立ち上がります。


「じゃあね、大好きな祥子ちゃん。そして、さようなら。あたし……白兎と交代してくるわ」


 そしてまたあたしはひとりぼっちになって、大水槽の前にぽつんと取り残されたのです。










 それからしばらくの間、あたしはただひたすらに涙を流していました。
 どれほど時間が経ったのかなんて興味もないくらいに。

 そして約束どおり、あの人は戻ってきたのでした。


「……待たせたな、祥子ちゃん。最後にもう一箇所だけ、付き合って欲しい」
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