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最終章 世界を動かすものは、ほかならぬ百合である。

第二話 嬉野祥子は回想する。

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 さて、少し時間を戻しましょう。





「さて……綺麗な白百合の園を掻き分けて進んだ先に、祥子しょうこちゃんは誰の罪を見たんだい?」


 あの日、あの夜、あたしにそう尋ねた白兎はくとさんの表情は漂う紫煙でよく見えませんでした。

 それでも、あたしの答えは同じだったのです。
 どちらでも良かったのです。


「そこには何もなかった――そういう物語があっても良いと思うんです、あたし」
「?」


 言葉はありませんでしたが、白兎さんの驚きと戸惑いがこちらにも伝わってきます。
 あたしは一つ頷いて見せると、再び口を開きました。


「誰のせいでもなく、悪い人なんて何処にもいなかった、そういうお話です。嫌いですか?」
「……俺は呪いをかけたんだぞ、安里寿ありすに。この世から消えちまえ、って」


 そう言って白兎さんはそれぞれの中指を人差し指に巻きつけると、両手の人差し指と親指で三角形を作ってみせます。白兎さんの記憶にある、決して忘れられないあの日と同じように。


「安里寿は俺のせいで死んだ。お袋も似たようなモンだ。俺は……許されざる罪を犯した」
「誰も悪くなかった――あたしはそう思うんですけど。駄目、でしょうか?」
「――っ!」


 刹那、安里寿さんに良く似た白兎さんの顔に激情が浮かび上がり、両手で形づくった三角形ごしにあたしへ鋭い視線が注がれました。その口からは歯ぎしりと悲痛な叫びが漏れ出ます。


「お前には何も分かっちゃいないだろ!? 祥子ちゃんには何も分かってないんだよ!!」
「――――――ですよ?」
「………………何?」
「かけてもいいですよ、って言ったんです、あたし」


 だって、あたし。
 まだ、あなたにここにいて欲しい、から。

 いぶかし気に目をすぼめ、けんのある表情であたしを睨み付ける白兎さんにこう告げたのです。


「その呪い、あたしにかけてもいいですよ、白兎さん。でもあたし、絶対に死にませんから」
「お前、自分が何言ってるのか分かって――っ!!」
「分かってます。だから言ってます。本気なんです」
「お前! 死ぬかもしれないんだぞ!?」
「死なないかもしれないじゃないですか」


 白兎さんはあたしの顔に噛みつきそうな勢いで間近まで詰め寄りましたが、あたしは一歩も退くことなく唇を真一文字に引き結んで答えます。



 ここで退いたら駄目なんです。絶対に。
 この人を、この人の心を縛り付けている『呪い』から解き放つためには。



 だってこの人は――。

 そうやって自分自身を責めることで、哀しみや怒りという負の感情を内側に閉じ込めようとしてきたのです。そして、人生の残り半分を捧げるという行為で贖罪しようとしたのです。



 いいえ、そうではない――あたしは思うのです。

 自ら封じ込んでしまったことで行き場を失くしてしまった白兎さんの深い哀しみ、それこそが亡き姉・安里寿さんを求めたのではないでしょうか。彼女の現世への顕現が可能であったなら、自分の人生の半分を分け与えることくらい惜しくはなかったのではないでしょうか。


「覚悟なら、できています。いつでもいいですよ」
「……どうなっても知らねぇからな、祥子ちゃん」
「その代わり、たった一つだけ……約束して欲しいんです」
「約束……? 何をだ?」


 意表を突かれた白兎さんは一瞬呆けたような顔をします。
 そしてあたしは――どんな顔をしていたのでしょう――こう告げます。


「もしも呪いが何の効果も持たなかったら、あたしに約束してくれますか。もう自分を責めるのはやめると。誰かの代わりに生きるのはやめると。過去に捕らわれて生きるのはやめると」



 次の瞬間――。



 白兎さんは今まで見たことがないくらい深い悲しみに満ちた泣き出しそうな表情を浮かべ。
 拳で目元を乱暴に、ぐじ、とこすり上げてから笑ってみせたのでした。


「ははは……。何が、一つだけ約束して、だ。三つもあるじゃねえか、祥子ちゃん……糞っ」


 最後に悪態を吐き、まばらにおぼろげに光る夜空を見上げた白兎さんは大きな声で笑います。
 溢れる涙を拭うこともなく、しばらくの間、白兎さんは笑いながら泣いていました。





 やがて。





「……何だか悪かったな、祥子ちゃん。おかげで少し、ほんの少しだけだが目が覚めたよ」
「良いんです」


 少し照れ臭くなって俯き加減に答えるあたしが視線を上げると、そこに白兎さんがいて。


「なあ……? やっぱり呪い、かけてみてもいいか?」
「な……っ!?」


 さすがに嬉野うれしの、まさか、って思いましたよね。


「べ、別にいいです……けど?」
「じゃあ、やるぞ。目を閉じろ」


 こうなったら嬉野も意地です。
 呪いでも何でも、やれるもんならやってみて――!



 ――すぅ。



「……これからも、俺のそばにいてくれないか、祥子ちゃん? これが俺のかける呪いだ」










 ………………はい?

 今なんて言いました?










「お、おい。聴こえたろ? 答えを……聞きたい」


 ふてくされたようなねた声であの人は、あんぐり口を開けたあたしを見て言うのです。










 あたしは――あたしの答えは――。










「えと……あの………………。ス、スミマセン、丁重にお断りしますです、はい」


 さすがにあたり一面の空気が一瞬で凍りついたのが、この唐変木の嬉野にも分かりました。


「はぁあああああ!? な、何でだよっ!?」
「だって、ですね。白兎さん、男の人じゃないですか……」
「そこからかよっ! この前、ちょっといい雰囲気だったじゃねえかよ!」
「いやいやいや! あたし、記憶にないですってば! 何かの勘違いですってば!」


 あたしと白兎さんは歯を剥き出しにして、唸るように睨み合います。
 やがて、何かアイディアが閃いた白兎さんはにやりと口元を吊り上げてこう尋ねました。


「よ、良し、分かった! 安里寿もセットでつけてやろう! これなら……どうだ?」
「ふ――――――不束者ふつつかものですが、どうぞよろしくお願いしまふっ!!」
「即答かよっ!?」
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