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29)アルゴ <薬屋>
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その医師が住む街は、敵の魔法使いやアルゴが暮らしている街から馬車で一日の距離にあり、隣国との貿易の中継として、それなりに栄えている大きな街だった。
アルゴは馬で駆けて、夜明け過ぎにはその街に到着した。ちょうど街の門が開き始める時刻で、彼は他の旅人たちと共に、その壁の向こうに足を踏み入れる。
その医師の名前はマリオンという。アルゴはダンテスクの指示を受けながら、マリオンの家を目指す。
人通りの多い通りには、同じような高さのアパルトマンが軒を接して立ち並んでいる。その中でも最も古ぼけている汚いアパルトマン。そこの三階の一室を間借りして、仕事をしているらしい。
住民から尊敬と信頼を受けている医師が営んでいるという感じではない。何か後ろ暗い事情を持った患者がやってくる医院という趣である。
例えば父のいない子の出産、あるいは堕胎、喧嘩で負った傷、禁止される薬物を手に入れるためなど。
このような小さな医院に前途有望な若い助手がいるのは、どう考えても似つかわしくないように思えた。彼の存在は敵の魔法使いに怪しまれることは間違いない。
怪しまれること、それは即、自分の死を意味する。アルゴはそれに関して、神経質にならざるを得ない。
この建物の暗くて黴臭い階段は、アルゴの心情を更に憂鬱にした。窓がないので風が吹かない。太陽の光も差し込まない。あらゆる陰湿なものが、その建物に巣食っているかのようだ。
もしかしたらここで自分は死ぬかもしれない。彼は階段を上がりながら、そんなことを思ってしまう。
「部屋に辿り着いたら、まずどうすればいい?」
アルゴは暗い気持ちを感じたまま、ダンテスクに問い掛けた。
――彼の助手になりたいことを告げて欲しい。マリオンは当然断るだろう。しかし諦めることなく何度も同じ要求をするのだ。そしてマリオンから、出来るだけ同じセリフを引き出してくれ。そうすることで彼のゲシュタルトは鮮明さを増し、こっちは彼の心を操りやすくなる。
「ダンテスク、あんたの魔法があれば、その医師の心を操るのは簡単なのだろう。しかしその医師に助手になったからといって、敵の魔法使いを騙し切ることは不可能だと思う。彼のような医師に若い助手は似つかわしくないはずだ。敵の魔法使いはきっと、そこを怪しむ」
――ああ、何か説得力のある嘘が、そこには必要だろう。
「そうだよな」
アルゴはそう言って、ダンテスクからの言葉を待つ。しかし向こうも黙ったまま、何も言ってこなかった。
(何てことだ! ダンテスクは何も考えてはいないということか・・・)
「どうすればいいだろうか?」
――そうだな。それは追々、
考えることにしよう。ダンテスクはそう続けるつもりだったのだろう。アルゴは最後までその言葉を言わさず、割り込むように言った。
「な、ならば俺は、マリオン医師の甥ということにしてはどうだろうか? いずれ、この医院を引き継ぐために故郷から出てきた、そのような設定だ」
アルゴは咄嗟にそのようなことを捻り出した。
――甥だって? まあ、いいだろう。それでいこう。
ダンテスクの返事が返ってくる。
(ダンテスクのこの口ぶりから判断するに、俺が何も言わなければ、助手の設定でいくつもりだったのだろう。それ以外の細かいバックボーンなど考えていなかったようだ)
自分の身は自分で守らなければいけないということか。ダンテスクにだけ頼っていられない。
アルゴは当てになりそうにないダンテスクを恨みながらも、戦場ではそれが当然だとも考え直す。他の人間を頼っていてばかりでは自分の成長はない。
(あるいは、ただ便利に利用されるだけで終わってしまう、そのようなことになりかねない)
――君の提案通り、自分の甥だという偽の記憶を、マリオンに刷り込もう。プログラムを書き直す。マリオンの部屋の扉を叩くのは少し待って欲しい。窓から外でも眺めて、時間を潰してくれ。
「わかった」
窓などなかったが、アルゴは返事をそう返す。
アルゴは薄汚れた漆喰の壁を見ながら、敵の魔法使いに怪しまれないため、他にやっておくべきことはないか考える。
とにかく薬草の知識は身につけておいたほうがいい。そしてマリオンの身内のことや、彼のこれまでの半生についても知っておく必要があるだろう。マリオンを質問攻めにして、あらゆることを頭に入れておくのだ。
――プログラムは終わった。
アルゴはマリオンの部屋の扉を殴りつけるように叩く。「なんだ、うるさい、まだ眠っているぞ! 仕事は午後からだ」しばらくして、年老いた男の声が返ってくる。
アルゴはそれを無視して、更に扉を叩き続ける。マリオンの部屋よりも先に、向かいの部屋の扉が少し開いた。扉を乱暴に叩き続ける者は何者か、様子を見ているようだ。
それを無視して、同じ強さで叩き続ける。ようやく扉を開いた。
「俺が仕事を始めるのは昼からだ、馬鹿野郎!」
禿げた頭が扉の隙間に現れた。禿げているが大きな頭だ。その中に、医療に関する知識が存分に詰まっているのだろう。
このようなみすぼらしいところに居を構えているようであるが、この老人が知的な仕事に従事しているのが一目で判る。
「やあ、叔父さん。僕だよ」
アルゴは少し大きめの声でそう言いながら、年老いたマリオンの身体を押して、部屋の中に強引に分け入る。「久しぶりだね」
「はあ、叔父さんだって?」
マリオンは奇怪な表情になるが、アルゴは気にしない。聞き耳を立てている隣人たちは、アルゴがマリオンのことを叔父さんと呼んだことを忘れはしないだろう。すぐに扉を閉めて、これ以上二人の会話は聞かせないようにする。
「誰だよ、お前。人違いじゃないか。俺にお前のような甥はいないぞ」
「俺はあんたの助手になりたいんだ」
「そんな上等な者、募集していない。一人で充分にやっているからな」
「俺はあんたの助手になりたいんだよ」
「だから助手なんて必要ないと言ってるだろ」
「俺はあんたの助手になりたいんだ」
「おい、お前、耳でも悪いのか。助手なんて必要ないって言ってるだろ!」
「これくらいでいいかな、ダンテスク。同じ言葉を三回言わせたぞ」
アルゴはダンテスクに言った。
――あと、二回は言わせて欲しい。もう少し彼のゲシュタルトを鮮明にしたい。
「俺はあんたの助手になりたいんだ」
「出て行け。助手は必要ない。耳が悪いなら見てやる。何か詰まってるはずだ。クソか何かだろ。しかしその仕事も午後からだ、改めて来い!」
「耳は悪くないよ。俺はあんたの助手になりたいんだ」
「俺を馬鹿にしてるのか? さっきから同じことばかり言いやがって。いいな、助手は採らない。だぜなら、そんなもの必要ないからだ。そして仕事は午後から。だからお前は今すぐに部屋から出て行け」
「俺はあんたの助手になりたいんだ」
「わかった、いずれ、甥のお前にこの仕事を継がせたい。元気だったか? えーと」
ダンテスクの魔法が効果を出し始めたようだ。マリオンの表情が明らかに変わった。さっきまで睨みつけるように見ていた視線が柔らかくなり、身内に対するような親密なものになっていく。
「アルゴだよ、叔父さん」
ダンテスクの魔法の恐ろしさを改めてわかった気がした。こんなふうに人の考えが激変するなんて!
しかし今のところ、その恐ろしい魔法はアルゴの命も助けるはずだ。
「ああ、アルゴ、よく来たな」
「頭痛に効く薬について教えて欲しい。それと、この薬を取りに来る魔法使いについても」
「何だって?」
「頭痛の薬を取りに来る魔法使いについてだよ」
「ああ、あの若い魔法使いか。彼のお陰で上等な酒が飲めているんだ。飛びっきりの上客だよ」
「それはよく知ってるよ、どんな人なんだい?」
「月に一度はここに取りに来る。満月が三つ昇る日だ」
満月が三つ昇ったのは先週だ。ということは、あと二十日余りで、奴はやって来るということか。
――その日に会うことにしよう。
ダンテスクの言葉が聞こえる。
(拙速過ぎはしないか)
そう思うが、あまり先に延ばすのも耐えられない。その間、ずっと緊張感を維持し続けなければいけないからだ。
仕方ない。その日に標準を絞ろう。
「おじさん、一晩中、馬で駆けてきたから酷く疲れた。どこか休める部屋はないかな? しばらくここで厄介になるつもりだ」
「用意しよう。狭い部屋だが我慢してくれ」
――第一段階は上手くいったな。この調子で頑張ってくれ。
(ああ、ここから無事生還するため、精一杯頑張るさ。そしてこの仕事を成功させて、あんたを見返すよ)
アルゴは馬で駆けて、夜明け過ぎにはその街に到着した。ちょうど街の門が開き始める時刻で、彼は他の旅人たちと共に、その壁の向こうに足を踏み入れる。
その医師の名前はマリオンという。アルゴはダンテスクの指示を受けながら、マリオンの家を目指す。
人通りの多い通りには、同じような高さのアパルトマンが軒を接して立ち並んでいる。その中でも最も古ぼけている汚いアパルトマン。そこの三階の一室を間借りして、仕事をしているらしい。
住民から尊敬と信頼を受けている医師が営んでいるという感じではない。何か後ろ暗い事情を持った患者がやってくる医院という趣である。
例えば父のいない子の出産、あるいは堕胎、喧嘩で負った傷、禁止される薬物を手に入れるためなど。
このような小さな医院に前途有望な若い助手がいるのは、どう考えても似つかわしくないように思えた。彼の存在は敵の魔法使いに怪しまれることは間違いない。
怪しまれること、それは即、自分の死を意味する。アルゴはそれに関して、神経質にならざるを得ない。
この建物の暗くて黴臭い階段は、アルゴの心情を更に憂鬱にした。窓がないので風が吹かない。太陽の光も差し込まない。あらゆる陰湿なものが、その建物に巣食っているかのようだ。
もしかしたらここで自分は死ぬかもしれない。彼は階段を上がりながら、そんなことを思ってしまう。
「部屋に辿り着いたら、まずどうすればいい?」
アルゴは暗い気持ちを感じたまま、ダンテスクに問い掛けた。
――彼の助手になりたいことを告げて欲しい。マリオンは当然断るだろう。しかし諦めることなく何度も同じ要求をするのだ。そしてマリオンから、出来るだけ同じセリフを引き出してくれ。そうすることで彼のゲシュタルトは鮮明さを増し、こっちは彼の心を操りやすくなる。
「ダンテスク、あんたの魔法があれば、その医師の心を操るのは簡単なのだろう。しかしその医師に助手になったからといって、敵の魔法使いを騙し切ることは不可能だと思う。彼のような医師に若い助手は似つかわしくないはずだ。敵の魔法使いはきっと、そこを怪しむ」
――ああ、何か説得力のある嘘が、そこには必要だろう。
「そうだよな」
アルゴはそう言って、ダンテスクからの言葉を待つ。しかし向こうも黙ったまま、何も言ってこなかった。
(何てことだ! ダンテスクは何も考えてはいないということか・・・)
「どうすればいいだろうか?」
――そうだな。それは追々、
考えることにしよう。ダンテスクはそう続けるつもりだったのだろう。アルゴは最後までその言葉を言わさず、割り込むように言った。
「な、ならば俺は、マリオン医師の甥ということにしてはどうだろうか? いずれ、この医院を引き継ぐために故郷から出てきた、そのような設定だ」
アルゴは咄嗟にそのようなことを捻り出した。
――甥だって? まあ、いいだろう。それでいこう。
ダンテスクの返事が返ってくる。
(ダンテスクのこの口ぶりから判断するに、俺が何も言わなければ、助手の設定でいくつもりだったのだろう。それ以外の細かいバックボーンなど考えていなかったようだ)
自分の身は自分で守らなければいけないということか。ダンテスクにだけ頼っていられない。
アルゴは当てになりそうにないダンテスクを恨みながらも、戦場ではそれが当然だとも考え直す。他の人間を頼っていてばかりでは自分の成長はない。
(あるいは、ただ便利に利用されるだけで終わってしまう、そのようなことになりかねない)
――君の提案通り、自分の甥だという偽の記憶を、マリオンに刷り込もう。プログラムを書き直す。マリオンの部屋の扉を叩くのは少し待って欲しい。窓から外でも眺めて、時間を潰してくれ。
「わかった」
窓などなかったが、アルゴは返事をそう返す。
アルゴは薄汚れた漆喰の壁を見ながら、敵の魔法使いに怪しまれないため、他にやっておくべきことはないか考える。
とにかく薬草の知識は身につけておいたほうがいい。そしてマリオンの身内のことや、彼のこれまでの半生についても知っておく必要があるだろう。マリオンを質問攻めにして、あらゆることを頭に入れておくのだ。
――プログラムは終わった。
アルゴはマリオンの部屋の扉を殴りつけるように叩く。「なんだ、うるさい、まだ眠っているぞ! 仕事は午後からだ」しばらくして、年老いた男の声が返ってくる。
アルゴはそれを無視して、更に扉を叩き続ける。マリオンの部屋よりも先に、向かいの部屋の扉が少し開いた。扉を乱暴に叩き続ける者は何者か、様子を見ているようだ。
それを無視して、同じ強さで叩き続ける。ようやく扉を開いた。
「俺が仕事を始めるのは昼からだ、馬鹿野郎!」
禿げた頭が扉の隙間に現れた。禿げているが大きな頭だ。その中に、医療に関する知識が存分に詰まっているのだろう。
このようなみすぼらしいところに居を構えているようであるが、この老人が知的な仕事に従事しているのが一目で判る。
「やあ、叔父さん。僕だよ」
アルゴは少し大きめの声でそう言いながら、年老いたマリオンの身体を押して、部屋の中に強引に分け入る。「久しぶりだね」
「はあ、叔父さんだって?」
マリオンは奇怪な表情になるが、アルゴは気にしない。聞き耳を立てている隣人たちは、アルゴがマリオンのことを叔父さんと呼んだことを忘れはしないだろう。すぐに扉を閉めて、これ以上二人の会話は聞かせないようにする。
「誰だよ、お前。人違いじゃないか。俺にお前のような甥はいないぞ」
「俺はあんたの助手になりたいんだ」
「そんな上等な者、募集していない。一人で充分にやっているからな」
「俺はあんたの助手になりたいんだよ」
「だから助手なんて必要ないと言ってるだろ」
「俺はあんたの助手になりたいんだ」
「おい、お前、耳でも悪いのか。助手なんて必要ないって言ってるだろ!」
「これくらいでいいかな、ダンテスク。同じ言葉を三回言わせたぞ」
アルゴはダンテスクに言った。
――あと、二回は言わせて欲しい。もう少し彼のゲシュタルトを鮮明にしたい。
「俺はあんたの助手になりたいんだ」
「出て行け。助手は必要ない。耳が悪いなら見てやる。何か詰まってるはずだ。クソか何かだろ。しかしその仕事も午後からだ、改めて来い!」
「耳は悪くないよ。俺はあんたの助手になりたいんだ」
「俺を馬鹿にしてるのか? さっきから同じことばかり言いやがって。いいな、助手は採らない。だぜなら、そんなもの必要ないからだ。そして仕事は午後から。だからお前は今すぐに部屋から出て行け」
「俺はあんたの助手になりたいんだ」
「わかった、いずれ、甥のお前にこの仕事を継がせたい。元気だったか? えーと」
ダンテスクの魔法が効果を出し始めたようだ。マリオンの表情が明らかに変わった。さっきまで睨みつけるように見ていた視線が柔らかくなり、身内に対するような親密なものになっていく。
「アルゴだよ、叔父さん」
ダンテスクの魔法の恐ろしさを改めてわかった気がした。こんなふうに人の考えが激変するなんて!
しかし今のところ、その恐ろしい魔法はアルゴの命も助けるはずだ。
「ああ、アルゴ、よく来たな」
「頭痛に効く薬について教えて欲しい。それと、この薬を取りに来る魔法使いについても」
「何だって?」
「頭痛の薬を取りに来る魔法使いについてだよ」
「ああ、あの若い魔法使いか。彼のお陰で上等な酒が飲めているんだ。飛びっきりの上客だよ」
「それはよく知ってるよ、どんな人なんだい?」
「月に一度はここに取りに来る。満月が三つ昇る日だ」
満月が三つ昇ったのは先週だ。ということは、あと二十日余りで、奴はやって来るということか。
――その日に会うことにしよう。
ダンテスクの言葉が聞こえる。
(拙速過ぎはしないか)
そう思うが、あまり先に延ばすのも耐えられない。その間、ずっと緊張感を維持し続けなければいけないからだ。
仕方ない。その日に標準を絞ろう。
「おじさん、一晩中、馬で駆けてきたから酷く疲れた。どこか休める部屋はないかな? しばらくここで厄介になるつもりだ」
「用意しよう。狭い部屋だが我慢してくれ」
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