52 / 58
6 私と彼女と石のつゆざむ
#1(β版)
しおりを挟む
T市、K市、H市にまたがる標高約1800メートルの中低山、O岳。その麓に佇む研究施設、黒煙を上げる灰色の棟から異形の鳥が飛び立った。
あーーーッ!、脳が…!脳が揺さぶられるッ!
ワカはひんやりした和室に敷かれた布団の中でモゾモゾと身を捩る。
この部屋は家の北側にあるせいで、障子窓から差し込む朝日は穏やか。
だが、襖の向こうからは激しい三味線の音色が漏れ聞こえてくる。曲調は出鱈目で、時折、調子外れに飛ぶ。
まだ眠たい。起きたくない。でも、この音に耐えられない。
ワカは痺れを切らした。
寝ていた身体を起こすと、意識して大きな音を立てて襖を開ける。
「おや?おはようさん。大分顔色はようなってんみたいな」
襦袢姿の銀髪の中年増が演奏を止め、くるりと振り向いた。
「すみません、ズルズルと3日間もお世話になって…」
ワカは軽く頭を下げた。
「ええんやで、こないなボロ屋におなごん子泊める機会なんざ滅多にへんんやから。芸妓冥利につきるってもんや
「ありがとうございます」
「さいぜんは、うなされとったみたいせやかて、ようどもないかい?」
「ええ、(騒音がピタリと止んだので)すっかり元気です」
ワカは軽く微笑んで見せる。
そりゃや良かった。もうすぐ朝飯やから布団を上げて、着替えておぅでぇ。
中年増は、三味線を静かに台に置くと、さっと割烹着を羽織った。そして、早朝に溺愛する子供の為に弁当を拵える母親のように、いそいそと台所へ向かう。
ワカは言われた通り、押し入れに布団を仕舞い、小袖に着替えると銀髪の中年増の後を追い台所へ向かった。
知り合って日も浅い謎のおばさんの家で寝泊まりして、それはきっと危険なことなんだろう……。ワカは振り返る。
なぜ、こんなことになってしまったのか…。話は5日前にさかのぼる───。
「こほ曜日はゼミが休みなので、こほっこほ……」
湿った咳がワカの白い喉から零れる。梅雨風邪だろうか?
ワカは数日前から続く軽い頭痛と咳に嫌気が差していた。
「延期だな延期」
盆に乗せて市販の風邪薬と水の入ったグラスを運んできたクロエがソファーで背中を丸めるワカの隣に腰掛け、グラスと薬を手渡す。
「戸籍をゲットして、直後にT大へ特別編入、編入先は731研究室。生物学だっけ?しかも助手になって毎月お給金も入る。鯛のお頭つきも食べられて…へへッ!とか言って最近アンタ調子に乗ってたからバチが当たったんだよ。アタシ、神様は信じてないけど天罰とかの類いは信じてるから」
「こほん、こほん…………確かに毎月お給金は貰ってますけど、ちっとも鯛のお頭つきなんて食べたいと思ってませんし、調子にも乗っていません、それに半分はこの家に入れてますよね?」
ワカはクロエから受け取った風邪薬を一息に流し込み、水を煽った。そして顔をしかめる。薬の包装には猛鳥を象どった印が印刷されている。
「そんな状態じゃあ週末のお出かけはムリだね。あの水族館、連休以外はガラガラだから結構狙い目だったんだけどねー」
軽い調子で言いながらクロエはワカの額に掌を当て、自分の体温と比べ「うん、熱はないな、熱は」とぶつぶつ言った。
クロエの冷たい掌が気持ち良い。ワカはうっとりと目を瞑り、されるがままになる。
「……行きます」
あ?、クロエが何事かと聞き返す。
「行くと言ったんです」
「なに?行くってどこへ?」
「……水族館です」
「どうもならないと思うけど、どうなっても知らねえぞ」
ワカの額に当てられた手はそのまま眉間に移動し、軽く揉んでいく。彼女のマッサージが始まった。
「……うう、行きましょう、行きた、い行きたい、行きたい」
「駄々っ子かよ」
「……こほっ、行きたい!」
「…わかった、わかりました……行くからな、行きますからね!週末!!」
クロエが折れた。
しかし、この選択こそがワカに厄災をもたらす事になるとは……この時点で彼女達には、知る由もなかった。
六月下旬の週末、クロエとワカは市内にある水族館へ出かける予定を立てた。それにはいきさつがあった。
「先日のぉ奉仕活動の謝礼ですぅ、だとさ」
二週間ほど前、例の教会に出かけたクロエが、例のシスターに貰ったブツらしい。
実はクロエと例のシスターは定期的に会している。ワカはその理由を知らない。
あつらえたようなペアチケット。
シスターは金持ちの男にモテる。議員、造船所のオーナー、ヤクザ者。そういったお大尽からのお誘いを例のシスターはのらりくらりと躱して貢ぎ物だけを頂戴しているようだ。
それにしても水族館のプラチナチケットってなんだよ、イルカの刺身でも食わしてもらえんの?
クロエは凝ったデザインの透かしが入ったチケットを、天井の照明に透かしながら冗談めかして言った。
「彼女たち」の関係は謎めいている。謎めいているからこそ強いのだ。寝床に入ったワカは、そんな事をぼんやりと考えながら眠りについた。
あーーーッ!、脳が…!脳が揺さぶられるッ!
ワカはひんやりした和室に敷かれた布団の中でモゾモゾと身を捩る。
この部屋は家の北側にあるせいで、障子窓から差し込む朝日は穏やか。
だが、襖の向こうからは激しい三味線の音色が漏れ聞こえてくる。曲調は出鱈目で、時折、調子外れに飛ぶ。
まだ眠たい。起きたくない。でも、この音に耐えられない。
ワカは痺れを切らした。
寝ていた身体を起こすと、意識して大きな音を立てて襖を開ける。
「おや?おはようさん。大分顔色はようなってんみたいな」
襦袢姿の銀髪の中年増が演奏を止め、くるりと振り向いた。
「すみません、ズルズルと3日間もお世話になって…」
ワカは軽く頭を下げた。
「ええんやで、こないなボロ屋におなごん子泊める機会なんざ滅多にへんんやから。芸妓冥利につきるってもんや
「ありがとうございます」
「さいぜんは、うなされとったみたいせやかて、ようどもないかい?」
「ええ、(騒音がピタリと止んだので)すっかり元気です」
ワカは軽く微笑んで見せる。
そりゃや良かった。もうすぐ朝飯やから布団を上げて、着替えておぅでぇ。
中年増は、三味線を静かに台に置くと、さっと割烹着を羽織った。そして、早朝に溺愛する子供の為に弁当を拵える母親のように、いそいそと台所へ向かう。
ワカは言われた通り、押し入れに布団を仕舞い、小袖に着替えると銀髪の中年増の後を追い台所へ向かった。
知り合って日も浅い謎のおばさんの家で寝泊まりして、それはきっと危険なことなんだろう……。ワカは振り返る。
なぜ、こんなことになってしまったのか…。話は5日前にさかのぼる───。
「こほ曜日はゼミが休みなので、こほっこほ……」
湿った咳がワカの白い喉から零れる。梅雨風邪だろうか?
ワカは数日前から続く軽い頭痛と咳に嫌気が差していた。
「延期だな延期」
盆に乗せて市販の風邪薬と水の入ったグラスを運んできたクロエがソファーで背中を丸めるワカの隣に腰掛け、グラスと薬を手渡す。
「戸籍をゲットして、直後にT大へ特別編入、編入先は731研究室。生物学だっけ?しかも助手になって毎月お給金も入る。鯛のお頭つきも食べられて…へへッ!とか言って最近アンタ調子に乗ってたからバチが当たったんだよ。アタシ、神様は信じてないけど天罰とかの類いは信じてるから」
「こほん、こほん…………確かに毎月お給金は貰ってますけど、ちっとも鯛のお頭つきなんて食べたいと思ってませんし、調子にも乗っていません、それに半分はこの家に入れてますよね?」
ワカはクロエから受け取った風邪薬を一息に流し込み、水を煽った。そして顔をしかめる。薬の包装には猛鳥を象どった印が印刷されている。
「そんな状態じゃあ週末のお出かけはムリだね。あの水族館、連休以外はガラガラだから結構狙い目だったんだけどねー」
軽い調子で言いながらクロエはワカの額に掌を当て、自分の体温と比べ「うん、熱はないな、熱は」とぶつぶつ言った。
クロエの冷たい掌が気持ち良い。ワカはうっとりと目を瞑り、されるがままになる。
「……行きます」
あ?、クロエが何事かと聞き返す。
「行くと言ったんです」
「なに?行くってどこへ?」
「……水族館です」
「どうもならないと思うけど、どうなっても知らねえぞ」
ワカの額に当てられた手はそのまま眉間に移動し、軽く揉んでいく。彼女のマッサージが始まった。
「……うう、行きましょう、行きた、い行きたい、行きたい」
「駄々っ子かよ」
「……こほっ、行きたい!」
「…わかった、わかりました……行くからな、行きますからね!週末!!」
クロエが折れた。
しかし、この選択こそがワカに厄災をもたらす事になるとは……この時点で彼女達には、知る由もなかった。
六月下旬の週末、クロエとワカは市内にある水族館へ出かける予定を立てた。それにはいきさつがあった。
「先日のぉ奉仕活動の謝礼ですぅ、だとさ」
二週間ほど前、例の教会に出かけたクロエが、例のシスターに貰ったブツらしい。
実はクロエと例のシスターは定期的に会している。ワカはその理由を知らない。
あつらえたようなペアチケット。
シスターは金持ちの男にモテる。議員、造船所のオーナー、ヤクザ者。そういったお大尽からのお誘いを例のシスターはのらりくらりと躱して貢ぎ物だけを頂戴しているようだ。
それにしても水族館のプラチナチケットってなんだよ、イルカの刺身でも食わしてもらえんの?
クロエは凝ったデザインの透かしが入ったチケットを、天井の照明に透かしながら冗談めかして言った。
「彼女たち」の関係は謎めいている。謎めいているからこそ強いのだ。寝床に入ったワカは、そんな事をぼんやりと考えながら眠りについた。
0
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
義姉妹百合恋愛
沢谷 暖日
青春
姫川瑞樹はある日、母親を交通事故でなくした。
「再婚するから」
そう言った父親が1ヶ月後連れてきたのは、新しい母親と、美人で可愛らしい義理の妹、楓だった。
次の日から、唐突に楓が急に積極的になる。
それもそのはず、楓にとっての瑞樹は幼稚園の頃の初恋相手だったのだ。
※他サイトにも掲載しております
せんせいとおばさん
悠生ゆう
恋愛
創作百合
樹梨は小学校の教師をしている。今年になりはじめてクラス担任を持つことになった。毎日張り詰めている中、クラスの児童の流里が怪我をした。母親に連絡をしたところ、引き取りに現れたのは流里の叔母のすみ枝だった。樹梨は、飄々としたすみ枝に惹かれていく。
※学校の先生のお仕事の実情は知りませんので、間違っている部分がっあたらすみません。
〈社会人百合〉アキとハル
みなはらつかさ
恋愛
女の子拾いました――。
ある朝起きたら、隣にネイキッドな女の子が寝ていた!?
主人公・紅(くれない)アキは、どういったことかと問いただすと、酔っ払った勢いで、彼女・葵(あおい)ハルと一夜をともにしたらしい。
しかも、ハルは失踪中の大企業令嬢で……?
絵:Novel AI
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
春に狂(くる)う
転生新語
恋愛
先輩と後輩、というだけの関係。後輩の少女の体を、私はホテルで時間を掛けて味わう。
小説家になろう、カクヨムに投稿しています。
小説家になろう→https://ncode.syosetu.com/n5251id/
カクヨム→https://kakuyomu.jp/works/16817330654752443761
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
