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第一章
episode_9 軽蔑
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ヘルマンとの関係が壊れてしまったあの日のことを、ロザリンデははっきりと覚えている。
それは今から半年前の、激しい雨が降る夜更けのことだった。
その夜、ロザリンデはいつものようにテオドールにさんざんいたぶられて息も絶え絶えになってから、ようやく解放された。だが書斎から出ようとした時、ドアが細く開いていることに気づいて、ロザリンデは文字通り真っ青になった。きちんと閉めたと思っていたのに、どうやらノブがどこかに引っかかっていたらしい。誰かに見られていたら……これ以上ないほど狼狽してあたりを見回したロザリンデの眼に、信じられないものが飛び込んできた。廊下の角のところに立っていたのは……ヘルマンだった。ロザリンデは思わず、踵を返してその場から去って行こうとするヘルマンに縋りついて必死に弁明した。
「ち……っ、違うのヘルマン、待って、違うのよ。そうじゃないの。お願い、話を、わたくしの話を聞いて、ねえヘルマ……」
だがヘルマンはロザリンデの腕を邪険に振り払うと、汚物を見るような視線を投げて、冷たい声で言った。その様子から、ロザリンデは先ほどまで書斎で繰り広げられていた自分の痴態の一部始終をヘルマンに見られていたことをはっきりと悟った。
「……君がそういう女だったとはね」
「!!」
ロザリンデは、ヘルマンの目線が自分の乱れたドレスの胸元に向けられているのを感じて、下を向いた。そこに下がっていたのは、細いリボンを通した小さなカメオだった。ヘルマンがロチルド伯爵家にやってきた年の夏の休暇に、弁護士事務所でアルバイトをして稼いだ金で、ロザリンデに贈ってくれたものだ。今はまだこんなものしか贈れないけれど……と照れ臭そうに笑ったヘルマンの姿が、ロザリンデの瞼に鮮明に焼き付いている。そして、その胸元に下がるカメオのすぐ横には、テオドールに乱暴に吸われてついたいくつもの赤い痣が、くっきりと残っていた。
「ヘ……ル……」
なおも引き留めようとするロザリンデから半歩離れて、ヘルマンは一層冷たい目をロザリンデに向け、半ば嘲笑ともとれるもったいぶったわざとらしい口調で続けた。
「ロザリンデ・ムーア子爵令嬢。まさか君が姉の夫を寝取って喜ぶような、薄汚くて淫乱な女だとは思わなかったよ。あやうく騙されるところだった。……何、心配しなくていい、このことは誰にも言わないから。恩義あるマティルダ様を悲しませることは僕だってしたくないからね。だけど、金輪際、僕には近づかないでくれ。いいね」
そして俯いて黙ったまま震えているロザリンデを置き去りにして、足早にその場を去っていったのだった。
ロザリンデの青い瞳から大粒の涙がこぼれ落ちて、床にいくつもの染みを作った。
(誰にも、誰にも知られたくなかったのに……よりにもよってヘルマンに見られてしまったなんて……。誤解よ、ヘルマン、わたくしはそんな女じゃない。……いいえ違う、ヘルマンの言う通りだわ。ロザリンデ、お前は穢れた罪深い女よ。もう二度と、あなたがわたくしに微笑みかけてくれることはない。これが、お姉様を、あなたを裏切った、わたくしへの罰……!)
それから半年、ヘルマンは何事もなかったかのように黙々と書生の仕事をこなしながら法科大学に通っていたが、前にも増していっそう無口になり、他人を寄せ付けなくなった。時折、屋敷でロザリンデと出くわすこともあったが、当然のことながら一言も言葉を交わすことはなく、すれ違いざまに投げられる視線には侮蔑と憎しみがこもっていて、そのたびにロザリンデは胸元のカメオを握りしめて、その場に立ち尽くした。
それは今から半年前の、激しい雨が降る夜更けのことだった。
その夜、ロザリンデはいつものようにテオドールにさんざんいたぶられて息も絶え絶えになってから、ようやく解放された。だが書斎から出ようとした時、ドアが細く開いていることに気づいて、ロザリンデは文字通り真っ青になった。きちんと閉めたと思っていたのに、どうやらノブがどこかに引っかかっていたらしい。誰かに見られていたら……これ以上ないほど狼狽してあたりを見回したロザリンデの眼に、信じられないものが飛び込んできた。廊下の角のところに立っていたのは……ヘルマンだった。ロザリンデは思わず、踵を返してその場から去って行こうとするヘルマンに縋りついて必死に弁明した。
「ち……っ、違うのヘルマン、待って、違うのよ。そうじゃないの。お願い、話を、わたくしの話を聞いて、ねえヘルマ……」
だがヘルマンはロザリンデの腕を邪険に振り払うと、汚物を見るような視線を投げて、冷たい声で言った。その様子から、ロザリンデは先ほどまで書斎で繰り広げられていた自分の痴態の一部始終をヘルマンに見られていたことをはっきりと悟った。
「……君がそういう女だったとはね」
「!!」
ロザリンデは、ヘルマンの目線が自分の乱れたドレスの胸元に向けられているのを感じて、下を向いた。そこに下がっていたのは、細いリボンを通した小さなカメオだった。ヘルマンがロチルド伯爵家にやってきた年の夏の休暇に、弁護士事務所でアルバイトをして稼いだ金で、ロザリンデに贈ってくれたものだ。今はまだこんなものしか贈れないけれど……と照れ臭そうに笑ったヘルマンの姿が、ロザリンデの瞼に鮮明に焼き付いている。そして、その胸元に下がるカメオのすぐ横には、テオドールに乱暴に吸われてついたいくつもの赤い痣が、くっきりと残っていた。
「ヘ……ル……」
なおも引き留めようとするロザリンデから半歩離れて、ヘルマンは一層冷たい目をロザリンデに向け、半ば嘲笑ともとれるもったいぶったわざとらしい口調で続けた。
「ロザリンデ・ムーア子爵令嬢。まさか君が姉の夫を寝取って喜ぶような、薄汚くて淫乱な女だとは思わなかったよ。あやうく騙されるところだった。……何、心配しなくていい、このことは誰にも言わないから。恩義あるマティルダ様を悲しませることは僕だってしたくないからね。だけど、金輪際、僕には近づかないでくれ。いいね」
そして俯いて黙ったまま震えているロザリンデを置き去りにして、足早にその場を去っていったのだった。
ロザリンデの青い瞳から大粒の涙がこぼれ落ちて、床にいくつもの染みを作った。
(誰にも、誰にも知られたくなかったのに……よりにもよってヘルマンに見られてしまったなんて……。誤解よ、ヘルマン、わたくしはそんな女じゃない。……いいえ違う、ヘルマンの言う通りだわ。ロザリンデ、お前は穢れた罪深い女よ。もう二度と、あなたがわたくしに微笑みかけてくれることはない。これが、お姉様を、あなたを裏切った、わたくしへの罰……!)
それから半年、ヘルマンは何事もなかったかのように黙々と書生の仕事をこなしながら法科大学に通っていたが、前にも増していっそう無口になり、他人を寄せ付けなくなった。時折、屋敷でロザリンデと出くわすこともあったが、当然のことながら一言も言葉を交わすことはなく、すれ違いざまに投げられる視線には侮蔑と憎しみがこもっていて、そのたびにロザリンデは胸元のカメオを握りしめて、その場に立ち尽くした。
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