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〈2 ダイアモンドリリー〉
ep23 きみは**しい人だから②
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結子の瞳に移った咲乃の瞳は――暗い。ただ、無感情に、結子を見つめている。結子が知っていた、咲乃の暖かな瞳とは違いすぎて、まるで別人の瞳の中を見つめているようだ。
その瞳を見た瞬間、サッと結子の身体の体温が下がった。目の前の人は、初めて転校してきた時の彼とも違う。もっと別の、別の何かだ。
「それって、自分は何の努力しなくても勝手に好きになってくれて、自分だけに尽くしてくれて、自分の代わりに矢面になってかばってくれて、自分の傷を全部背負ってくれるような人?」
「ち、ちがっ――」
「違うかな」
結子が否定しようとすると、咲乃に鋭く遮られた。
「中本さん、本当は自分に自信がないから、そのままでいいよって肯定してもらいたいだけだよね」
結子は何も言えないまま、茫然と咲乃の言葉を聞き入れていた。
咲乃の言葉が信じられなくて、受け入れられなくて、聞きたくないと思っているのに、抵抗できない。
「寂しいから、寂しさを埋めてほしいだけ。自分が嫌いだから、代わりに好きになってほしいだけ。誰も認めてくれないから、代わりに認めてほしいだけ。優しくしてほしいから、優しくしてくれる人が欲しいだけ――」
咲乃の声はとても優しくきれいだったが、とても冷たく残酷で、結子の心臓をえぐり、空いた穴から体温を奪っていくようだ。
「好きな人に嫌いなものを押し付けて、自分は楽になりたいなんて。俺はそんな、中本さんの都合のいい王子様になるつもりはないよ」
「……」
否定したいのに、言葉が出てこない。
「自分の弱さを押し付けさえできれば」
彼のなめらかな指先が、結子の耳元の髪を掻き分けた。
「本当は、俺じゃなくても良かったんだ」
気付けば咲乃の頬に平手打ちをしていた。
悲しみと怒りがぐちゃぐちゃになって、言葉は出てこない。目の前の好きだった人を、信じられない想いで見つめて、結子はその場から逃げ出した。
*
叩かれた頬に手を当てると、叩かれた場所は、僅かに熱を帯びていた。
わかっていた。咲乃に想いを寄せる結子の気持ちは。全て理解した上で、近づいて、利用して、傷つけた。
結局、自分はこんなやり方しかできない。何が変わりたいだ。何も変わっていない。変わろうともしてないじゃないか。わかってる。でも。
――終わらせなきゃ。
ギリッと奥歯を噛み締めると、咲乃は立ち上がり、かばんを拾った。
小さく息を吐く。何も感じないまま、その場を後にしようとした。
外で山口さんが待っている。――とその時、咲乃はブレザーのポケットの中が震えているのに気付いた。
ポケットからスマホを出す。画面の「津田成海」の表示を見た時、咲乃は驚いて目を見張った。
連絡のやり取りは主にメッセージが主で、成海からかけて来たことは今まで一度もない。
思い当たる用事もなく、タイミングがタイミングなだけに出るのを躊躇う。しかし、無視をするのも気が引けて、咲乃は通話ボタンを押した。
「どうし――」
『もうぅぅっ、むりぃいいいいーー!!!!!』
突然の大音声に、咲乃は慌ててスマホを耳から離した。音量を下げて、改めてスマホを耳につける。
「津田さん、どうし」
『ひどいですよ、篠原くんは! 毎日毎日、大量の宿題だけを渡されて、次のテストに向けた勉強も並行しろだなんて!! 受験生でもないのに、毎日どんだけ勉強させるつもりなんですか!? こっちは引きこもりの不登校生なんですよ!?? 意地や根性なんて皆無なんです! ヘタレのクソ人間なんです!! なに過大な期待してくれちゃってるんですか!!!!』
「つ、津田さん?!」
思わず声が上ずった。電話の向こうではかなりご立腹のようだ。どうやら、課題を与えすぎてしまったらしい。
手紙の件があってから、咲乃は成海の家に行くのを控えるようにしていた。万が一尾行されていて、成海の家に通っているのを知られたら、成海にも被害が出る危険があったためだ。その間の勉強会は、ビデオ通話で行っていた。
リモートでつなげば、成海の家への移動時間が短縮されるため、いつもより勉強時間を増やすことができる。卒業までに、今の授業進度に追いつくこと、中学1年生分のまき直しや、社会や理解などの科目を増やすことも考えると、今までの勉強量だけでは足りない。次のテストも受けさせたい。必然的に勉強時間と課題の量も多くなる。
それに加え、最近は勉強ばかりで、ろくにコミュニケーションも取れていなかった。成海の部屋で勉強していた時は、休憩中に雑談したりして、無理をしていないか様子を見ながら進められたが、何事も断れない性格の彼女は、我慢に我慢を重ねたあげく、ついに限界を迎えたようだった。
『篠原くんは、頭良すぎてこれくらい平気かもしれませんけど、わたしはついていけないんです! 篠原くんとわたしとじゃ、頭の構造も違うんですよ!? いい加減遊びたい! ゲームやりたいんです! マ゛ン゛カ゛よ゛み゛た゛い゛ん゛て゛す゛う゛ぅぅぅぅぅぅ!』
散々怒りを爆発させて、今度はうぉんうぉんと何かの動物のように声を上げて泣き出した。
咲乃は何とか落ち着かせようと言葉を掛けるが、いくら声を掛けても聞き入れてはくれない。出会ってからこんなに怒りを爆発させる成海は初めてだった。
「ふっ……」
咲乃が噴出したのを耳ざとく聞いて、成海の泣き声がぴたりとやんだ。
『え……笑ってます……? 篠原くん、笑ってるんですか?』
「ごっ……ごめっ……!」
咲乃は口を押え、声を押し殺して笑った。腹が痛い。息ができない。止めたいのはやまやまだが、突然緊張の糸が切れたせいで笑いが全く抑えられない。
しばらく笑い続けていると、成海がずっと無言でいるのに気が付いた。
「……あ、えっと、津田さん?」
『面白かったですか?』
「え、う、ううん。ごめんね?」
さっきまで泣いていた成海の声が、すっかり冷たいものに変わっている。これはすぐに謝らなければ、後々面倒なことになってしまう。
「ごめんね、津田さん。ちょっと無理させすぎちゃったよね」
元々成海は、人の期待に応えようとするあまり、過度に無理をしてしまう。そのことを、最近はすっかり失念していた。いつの間にか成海に勉強の無理強いをしてしまっていたのだ。
『別にいいんです。頑張るって約束しましたし』
不貞腐れた声で、成海が応えた。
「でも、やりすぎちゃったね。今日は課題しなくていいよ」
『別にいいんです。頑張るって約束しましたし』
「津田さん?」
まだ怒っている。
咲乃は視線を落とした。睫毛の間から、虚無を映していた瞳に僅かな光が灯る。
「……津田さん。今日の用事が終わったら、そっちに行ってもいい?」
『忙しい篠原くんは、わたしのことは気にせず自分のことでもやってください。別にいいんです。頑張るって約束しましたし』
「津田さん」
ようやく、成海が黙った。
「今日で用事も終わるよ。だから、また行ってもいいよね?」
咲乃の声が弱くなっていくのが分かったのか、成海は溜息をついた。
『……わかりました。今日の晩御飯はグラタンだそうです。持って帰りますか?』
「うん、助かる。おかあさんによろしく伝えておいてね」
『わかりました。でも勉強はしたくないっ! 今日は絶対っ!!!』
「わかった、わかったから」
成海をなだめて、通話を切った。
丸い頬をぶすっと膨らませている顔を想像して、また可笑しくなった咲乃は、しばらくひとりで笑っていた。
その瞳を見た瞬間、サッと結子の身体の体温が下がった。目の前の人は、初めて転校してきた時の彼とも違う。もっと別の、別の何かだ。
「それって、自分は何の努力しなくても勝手に好きになってくれて、自分だけに尽くしてくれて、自分の代わりに矢面になってかばってくれて、自分の傷を全部背負ってくれるような人?」
「ち、ちがっ――」
「違うかな」
結子が否定しようとすると、咲乃に鋭く遮られた。
「中本さん、本当は自分に自信がないから、そのままでいいよって肯定してもらいたいだけだよね」
結子は何も言えないまま、茫然と咲乃の言葉を聞き入れていた。
咲乃の言葉が信じられなくて、受け入れられなくて、聞きたくないと思っているのに、抵抗できない。
「寂しいから、寂しさを埋めてほしいだけ。自分が嫌いだから、代わりに好きになってほしいだけ。誰も認めてくれないから、代わりに認めてほしいだけ。優しくしてほしいから、優しくしてくれる人が欲しいだけ――」
咲乃の声はとても優しくきれいだったが、とても冷たく残酷で、結子の心臓をえぐり、空いた穴から体温を奪っていくようだ。
「好きな人に嫌いなものを押し付けて、自分は楽になりたいなんて。俺はそんな、中本さんの都合のいい王子様になるつもりはないよ」
「……」
否定したいのに、言葉が出てこない。
「自分の弱さを押し付けさえできれば」
彼のなめらかな指先が、結子の耳元の髪を掻き分けた。
「本当は、俺じゃなくても良かったんだ」
気付けば咲乃の頬に平手打ちをしていた。
悲しみと怒りがぐちゃぐちゃになって、言葉は出てこない。目の前の好きだった人を、信じられない想いで見つめて、結子はその場から逃げ出した。
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叩かれた頬に手を当てると、叩かれた場所は、僅かに熱を帯びていた。
わかっていた。咲乃に想いを寄せる結子の気持ちは。全て理解した上で、近づいて、利用して、傷つけた。
結局、自分はこんなやり方しかできない。何が変わりたいだ。何も変わっていない。変わろうともしてないじゃないか。わかってる。でも。
――終わらせなきゃ。
ギリッと奥歯を噛み締めると、咲乃は立ち上がり、かばんを拾った。
小さく息を吐く。何も感じないまま、その場を後にしようとした。
外で山口さんが待っている。――とその時、咲乃はブレザーのポケットの中が震えているのに気付いた。
ポケットからスマホを出す。画面の「津田成海」の表示を見た時、咲乃は驚いて目を見張った。
連絡のやり取りは主にメッセージが主で、成海からかけて来たことは今まで一度もない。
思い当たる用事もなく、タイミングがタイミングなだけに出るのを躊躇う。しかし、無視をするのも気が引けて、咲乃は通話ボタンを押した。
「どうし――」
『もうぅぅっ、むりぃいいいいーー!!!!!』
突然の大音声に、咲乃は慌ててスマホを耳から離した。音量を下げて、改めてスマホを耳につける。
「津田さん、どうし」
『ひどいですよ、篠原くんは! 毎日毎日、大量の宿題だけを渡されて、次のテストに向けた勉強も並行しろだなんて!! 受験生でもないのに、毎日どんだけ勉強させるつもりなんですか!? こっちは引きこもりの不登校生なんですよ!?? 意地や根性なんて皆無なんです! ヘタレのクソ人間なんです!! なに過大な期待してくれちゃってるんですか!!!!』
「つ、津田さん?!」
思わず声が上ずった。電話の向こうではかなりご立腹のようだ。どうやら、課題を与えすぎてしまったらしい。
手紙の件があってから、咲乃は成海の家に行くのを控えるようにしていた。万が一尾行されていて、成海の家に通っているのを知られたら、成海にも被害が出る危険があったためだ。その間の勉強会は、ビデオ通話で行っていた。
リモートでつなげば、成海の家への移動時間が短縮されるため、いつもより勉強時間を増やすことができる。卒業までに、今の授業進度に追いつくこと、中学1年生分のまき直しや、社会や理解などの科目を増やすことも考えると、今までの勉強量だけでは足りない。次のテストも受けさせたい。必然的に勉強時間と課題の量も多くなる。
それに加え、最近は勉強ばかりで、ろくにコミュニケーションも取れていなかった。成海の部屋で勉強していた時は、休憩中に雑談したりして、無理をしていないか様子を見ながら進められたが、何事も断れない性格の彼女は、我慢に我慢を重ねたあげく、ついに限界を迎えたようだった。
『篠原くんは、頭良すぎてこれくらい平気かもしれませんけど、わたしはついていけないんです! 篠原くんとわたしとじゃ、頭の構造も違うんですよ!? いい加減遊びたい! ゲームやりたいんです! マ゛ン゛カ゛よ゛み゛た゛い゛ん゛て゛す゛う゛ぅぅぅぅぅぅ!』
散々怒りを爆発させて、今度はうぉんうぉんと何かの動物のように声を上げて泣き出した。
咲乃は何とか落ち着かせようと言葉を掛けるが、いくら声を掛けても聞き入れてはくれない。出会ってからこんなに怒りを爆発させる成海は初めてだった。
「ふっ……」
咲乃が噴出したのを耳ざとく聞いて、成海の泣き声がぴたりとやんだ。
『え……笑ってます……? 篠原くん、笑ってるんですか?』
「ごっ……ごめっ……!」
咲乃は口を押え、声を押し殺して笑った。腹が痛い。息ができない。止めたいのはやまやまだが、突然緊張の糸が切れたせいで笑いが全く抑えられない。
しばらく笑い続けていると、成海がずっと無言でいるのに気が付いた。
「……あ、えっと、津田さん?」
『面白かったですか?』
「え、う、ううん。ごめんね?」
さっきまで泣いていた成海の声が、すっかり冷たいものに変わっている。これはすぐに謝らなければ、後々面倒なことになってしまう。
「ごめんね、津田さん。ちょっと無理させすぎちゃったよね」
元々成海は、人の期待に応えようとするあまり、過度に無理をしてしまう。そのことを、最近はすっかり失念していた。いつの間にか成海に勉強の無理強いをしてしまっていたのだ。
『別にいいんです。頑張るって約束しましたし』
不貞腐れた声で、成海が応えた。
「でも、やりすぎちゃったね。今日は課題しなくていいよ」
『別にいいんです。頑張るって約束しましたし』
「津田さん?」
まだ怒っている。
咲乃は視線を落とした。睫毛の間から、虚無を映していた瞳に僅かな光が灯る。
「……津田さん。今日の用事が終わったら、そっちに行ってもいい?」
『忙しい篠原くんは、わたしのことは気にせず自分のことでもやってください。別にいいんです。頑張るって約束しましたし』
「津田さん」
ようやく、成海が黙った。
「今日で用事も終わるよ。だから、また行ってもいいよね?」
咲乃の声が弱くなっていくのが分かったのか、成海は溜息をついた。
『……わかりました。今日の晩御飯はグラタンだそうです。持って帰りますか?』
「うん、助かる。おかあさんによろしく伝えておいてね」
『わかりました。でも勉強はしたくないっ! 今日は絶対っ!!!』
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