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第1部 宗教の神秘
第1部 第1条 数5
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第1部 第1条 数5
5つ1組
数5は、宗教の数である。
なぜなら、数5は、(三位一体である)神の数3を、女性(である教会)の数2に結びつけた数である。
信心は、無知による臆病による狂愚な軽信ではない。
信心は、愛である神の存在の確信と認識である。
信心は、未知なものでも、非論理的なものには否定を貫く、理性の叫びである。
呼吸が命には必要である、のと正に同様に、信心は魂に必要な感情である。
信心は、勇気による気高さである。
信心は、神がかりの本質である。
信心は、あれこれの信条の肯定から成り立っておらず、諸象徴がヴェールに隠している真理への絶え間無い真の向上である。
もし、ある人が、神に相応しくない妄想を否定し、神への誤った妄想を打ち破り、憎むべき誤った偶像崇拝者どもに対し嫌悪を感じて反対したら、無知な大衆によって不信心者と呼ばれるであろう!
堕落したローマで初期キリスト教徒を迫害した人々は、初期キリスト教徒を(ローマ皇帝を神として崇拝しない、主神ユピテルといったローマの多神教の神々を崇拝しない、)不信心者と呼んだ。
なぜなら、初期キリスト教徒は、ローマ皇帝カリギュラやローマ皇帝ネロを神格化した偶像を敬礼しなかった。
良心が拒絶する教義に固執せず、一宗教を否定する事や、全宗教を誤って否定する事すら、信心による勇気ある崇高な行いである。
自分の確信のために苦しむ人は、全て、信心の殉教者である。
信心の殉教者は、自身について下手な説明をしてしまうかもしれないが、何よりも正義と真理を好む。
信心の殉教者を理解せずに非難するなかれ。
「無上の真理を信じる」という事は、無上の真理を定義する事ではない。
無上の真理を信じていると話す事は、無上の真理は知る事ができない対象であると認める事である。
ヘブライ人への手紙11章6節で、使徒パウロ(という説が有る「ヘブライ人への手紙」の著者)は、「神の存在を信じる事と、神は神を求める人に報いてくれると信じる事」が、全ての信心を含んでいる(、信心の総合である)と話している。
全宗教よりも、信心は大いなる物である。
なぜなら、宗教よりも正確さは欠くが、信心は、全ての信仰箇条(に相当する物)を話す事ができる。
各宗派独自の、どの教義も、一宗派のみへの信仰を定め、一宗派独自の物である。
信心は、全ての人に共通する感情である。
人は、より正確さを獲得する目的で、話し合いを増やすと、自分の信心を減らしてしまう。
新興宗派の教義は、全て、一宗派が私物化している、一宗派のみへの信仰である。
そのため、新興宗派の教義は、全て、ある程度、普遍の共通の信心を盗んでいる事に成る。
宗派心の強い人が盗作したり改悪したりして宗派独自の教義をねつ造するのを放って置きなさい。
迷信家が迷信を並べ立てたり、ねつ造するのを放って置きなさい。
マタイによる福音8章22節で、主イエスが「死んだ者の埋葬は死んだ者に任せなさい!」と話している様に。
言葉では言い表せない真理を信じよう。
人の理性が理解する事はできないが、人の理性が認識した絶対である神を信じよう。
人が知る事はできないが、人の心の琴線に触れるものを信じよう!
無上の論理である神を信じよう!
無限の愛である神を信じよう!
スコラ哲学による愚行と、偽の宗教による残忍な行いを残念に思おう!
人よ! あなたが望むものを明らかにしなさい。
そうすれば、あなたに相応しい事を教えよう。
祈りなさい、断食しなさい、徹夜しなさい。
そう、あなただけが、または、ほぼ、あなただけが、良い意味で嫉妬深い神が滅ぼす悪人に対する甚大な破滅から免れられるとでも信じているのか?
あなたは、不信心であり、見せかけだけの偽善者である、ではないか。
あなたは、生活を乱れた物に変えて、人事不省に陥って人生を無為に過ごしたいのか?
乱れた生活をし、人事不省に陥り、人生を無為に過ごす人は、病気であり、狂愚である。
(正しい)他人のために苦しむ覚悟が有るか?
全ての(正しい)人が救われる事を望むか?
正しい他人のために苦しむ覚悟が有り、全ての正しい人が救われる事を望む人は、賢者であり、義人である。
望む事は、恐れない事である。
神を誤って恐れるとは、何という神への冒涜か!
希望による行為は、祈りである。
祈る事は、永遠の知と思いやりによって、魂を開花させる事に成る。
祈りは、真理を向いて向上する精神による凝視である。
祈りは、無上の美に対して恋い焦がれる、心からの溜め息である。
祈りは、母に対する幼子の微笑である。
祈りは、恋人である彼女と接吻するための、恋人である彼氏からのささやきである。
祈りは、愛している魂の、愛の大海に広がる様な、穏やかな喜びである。
祈りは、花嫁による花婿の不在への悲しみである。
祈りは、祖国を想う旅人の溜め息である。
祈りは、妻と子を養うために働く貧者の思いやりである。
沈黙して祈ろう。
確信と愛の心の目で、未知の、人の父である神を見よう。
信じ、あきらめて、人生という労苦において神が各人に割り当てた務めを引き受けよう!
そうすれば、胸の鼓動は、祈りの言葉と成るであろう!
(人生における心胸の動きは、祈りに変換されるであろう!)
人が神に求めるものについて、人は神に知らせる必要があったか? いいえ! マタイによる福音6章8節でイエスは「神は人が求める前から人に必要なものを知っている」と話している!
神は人に必要なものを知らないであろうか? いいえ! マタイによる福音6章8節でイエスは「神は人が求める前から人に必要なものを知っている」と話している!
涙を流して悲しんでいる時は、涙を神にささげよう。
喜んでいる時は、神に笑顔を向けよう。
神に打たれている時は、頭を下げて謙虚に成ろう。
神が優しくしてくれている時は、神の腕の中で眠ろう!
誰の事を祈っているのか知らずに祈っている時、人の祈りは完全に成るであろう。
祈りとは、耳につく騒音ではない。
祈りとは、心を貫く沈黙、心に浸透する沈黙である。
気持ちの良い涙が瞳を潤す。
溜め息が香の煙の様に口から漏れる。
美、真理、正義である全てのものへの愛によって、心で、人は自身に触れる。
人は、新しい命、魂の永遠の命に感動して、もう(肉体が)死ぬ事を恐れない。
なぜなら、祈る事が、知性と思いやりによる永遠の生き方である。
祈る事が、地上での神(と言える正しい人)の生き方である。
ヨハネによる福音15章12節から17節の「互いに愛し合いなさい!」というイエスの言葉は、法である。
預言者よ! 「互いに愛し合いなさい!」というイエスの言葉を熟考し理解しなさい。
「互いに愛し合いなさい!」というイエスの言葉を理解したら、最早、読み取って学ぶだけに留まっているなかれ!
探しに隣人から離れて行くなかれ!
存在を疑わずに信じなさい!
愛しなさい!
最早、慎重過ぎるなかれ!
習うだけに留まっているなかれ!
愛しなさい!
「互いに愛し合いなさい!」というイエスの言葉は、真の宗教の教義の全てである。
宗教とは、思いやりである。
神とは、愛でしかない。
「大いなる神秘の鍵 第1部 第1条 数4」で、すでに話した様に、愛するとは、(自身を他者に)ささげる事である。
不信心者とは、他人から吸い取って搾取する人である。
信心深い者とは、思いやる事に専念する人である。
神は命を熱意によって人の心に与えるが、もし人が熱意を自身のためにだけ専念させてしまったら、人の心は、全てのものを滅ぼして灰だけに満たされた地獄に成ってしまう。
神は命を熱意によって人の心に与える。
もし人が熱意を自分以外の他者へ広げたら、熱意は、思いやりという穏やかな太陽に成る。
人は、家族から慈愛による恩恵を受けている。
家族は、祖国から慈愛による恩恵を受けている。
祖国は、国民一人一人から慈愛による恩恵を受けている。
人の利己主義は、孤立と失望に値する。
家族の利己主義は、自壊と国外追放に値する。
祖国の利己主義は、敵との争いと、敵からの内政への侵害に値する。
「私は神の役に立っていると思う」と言って、全ての隣人を思いやる事から離れて怠惰に孤立している人は、自分をだましている事に成ってしまう。
なぜなら、ヨハネの第1の手紙4章20節で、使徒ヨハネは「目に見える隣人(、神の子の兄弟、正しい人)を愛せない人が、なぜ目に見えない神を愛せると言えるのか? いいえ! 目に見える隣人(、神の子の兄弟、正しい人)を愛せない人は、目に見えない神を愛せない!」と話している。
人は、神の物は神に返す必要が有る。
ただし、人は、カエサルの物はカエサルに与える事を拒むなかれ。
(マタイによる福音22章21節「カエサルの物はカエサルに、神の物は神に」)
神は、(永遠の魂の)命を与える者である。
カエサルといった、人が動物的人間として与える事ができるのは(心の)死だけである。
人は、神を愛する必要が有る。
人は、カエサルといった、権力者を恐れるなかれ。
なぜなら、マタイによる福音26章52節に「(手段として暴力である)剣を取る人は剣によって滅びる」と記されている。
善良な思いやり深い人に成りたいと望むのか?
善良な思いやり深い人に成りたいのなら、正しくありなさい。
正しくありたいと望むのか?
正しくありたいなら、(神の知によって肉欲などから)自由でありなさい。
人を動物的人間にしてしまう悪徳は、自由の第一の敵である。
酩酊者を見てみなさい!
酩酊者の様な汚らわしい動物的人間が(肉欲などから)自由であると言えるかどうか言ってみなさい! 酩酊者の様な汚らわしい動物的人間が肉欲などから自由であるとは言えない!
死(体)を求める飢えたカラスの様に、金銭などに貪欲な人は、父が死ぬ様に呪う。
野心家の行き着く先は、破滅である。
野心家の行き着く先は、嫉妬による精神錯乱である!
放蕩者は、母の心胸に唾を吐き、死の内臓を中絶で満たす。
愛せない心は、憎悪という最も残酷な苦しみによって、こらしめられる。
なぜなら、(「こらしめられ方、罰され方は、罪に対応している」、)「罪のつぐなわされ方は、罪に潜在している」。
心に受け止めておきなさい!
悪事を行う人は、出来の悪い「陶器の器」、出来の悪い「土の器」に例えられる。
(
詩編2章9節とヨハネの黙示録2章27節「陶器の器」、「土の器」
人は「土」や「器」に例えられる。
)
悪事を行う人は、自滅させられる。
(ヨハネの黙示録2章23節「私イエスは行いに応じて報いる」)
運命は、悪事を行う人の自滅を望む。
不可避の必然は、悪事を行う人の自滅を望む。
諸天体の破片で、神は(新しい)星々を作っている。
魂の破片で、神は神の聖霊である天使を作っている。
5つ1組
数5は、宗教の数である。
なぜなら、数5は、(三位一体である)神の数3を、女性(である教会)の数2に結びつけた数である。
信心は、無知による臆病による狂愚な軽信ではない。
信心は、愛である神の存在の確信と認識である。
信心は、未知なものでも、非論理的なものには否定を貫く、理性の叫びである。
呼吸が命には必要である、のと正に同様に、信心は魂に必要な感情である。
信心は、勇気による気高さである。
信心は、神がかりの本質である。
信心は、あれこれの信条の肯定から成り立っておらず、諸象徴がヴェールに隠している真理への絶え間無い真の向上である。
もし、ある人が、神に相応しくない妄想を否定し、神への誤った妄想を打ち破り、憎むべき誤った偶像崇拝者どもに対し嫌悪を感じて反対したら、無知な大衆によって不信心者と呼ばれるであろう!
堕落したローマで初期キリスト教徒を迫害した人々は、初期キリスト教徒を(ローマ皇帝を神として崇拝しない、主神ユピテルといったローマの多神教の神々を崇拝しない、)不信心者と呼んだ。
なぜなら、初期キリスト教徒は、ローマ皇帝カリギュラやローマ皇帝ネロを神格化した偶像を敬礼しなかった。
良心が拒絶する教義に固執せず、一宗教を否定する事や、全宗教を誤って否定する事すら、信心による勇気ある崇高な行いである。
自分の確信のために苦しむ人は、全て、信心の殉教者である。
信心の殉教者は、自身について下手な説明をしてしまうかもしれないが、何よりも正義と真理を好む。
信心の殉教者を理解せずに非難するなかれ。
「無上の真理を信じる」という事は、無上の真理を定義する事ではない。
無上の真理を信じていると話す事は、無上の真理は知る事ができない対象であると認める事である。
ヘブライ人への手紙11章6節で、使徒パウロ(という説が有る「ヘブライ人への手紙」の著者)は、「神の存在を信じる事と、神は神を求める人に報いてくれると信じる事」が、全ての信心を含んでいる(、信心の総合である)と話している。
全宗教よりも、信心は大いなる物である。
なぜなら、宗教よりも正確さは欠くが、信心は、全ての信仰箇条(に相当する物)を話す事ができる。
各宗派独自の、どの教義も、一宗派のみへの信仰を定め、一宗派独自の物である。
信心は、全ての人に共通する感情である。
人は、より正確さを獲得する目的で、話し合いを増やすと、自分の信心を減らしてしまう。
新興宗派の教義は、全て、一宗派が私物化している、一宗派のみへの信仰である。
そのため、新興宗派の教義は、全て、ある程度、普遍の共通の信心を盗んでいる事に成る。
宗派心の強い人が盗作したり改悪したりして宗派独自の教義をねつ造するのを放って置きなさい。
迷信家が迷信を並べ立てたり、ねつ造するのを放って置きなさい。
マタイによる福音8章22節で、主イエスが「死んだ者の埋葬は死んだ者に任せなさい!」と話している様に。
言葉では言い表せない真理を信じよう。
人の理性が理解する事はできないが、人の理性が認識した絶対である神を信じよう。
人が知る事はできないが、人の心の琴線に触れるものを信じよう!
無上の論理である神を信じよう!
無限の愛である神を信じよう!
スコラ哲学による愚行と、偽の宗教による残忍な行いを残念に思おう!
人よ! あなたが望むものを明らかにしなさい。
そうすれば、あなたに相応しい事を教えよう。
祈りなさい、断食しなさい、徹夜しなさい。
そう、あなただけが、または、ほぼ、あなただけが、良い意味で嫉妬深い神が滅ぼす悪人に対する甚大な破滅から免れられるとでも信じているのか?
あなたは、不信心であり、見せかけだけの偽善者である、ではないか。
あなたは、生活を乱れた物に変えて、人事不省に陥って人生を無為に過ごしたいのか?
乱れた生活をし、人事不省に陥り、人生を無為に過ごす人は、病気であり、狂愚である。
(正しい)他人のために苦しむ覚悟が有るか?
全ての(正しい)人が救われる事を望むか?
正しい他人のために苦しむ覚悟が有り、全ての正しい人が救われる事を望む人は、賢者であり、義人である。
望む事は、恐れない事である。
神を誤って恐れるとは、何という神への冒涜か!
希望による行為は、祈りである。
祈る事は、永遠の知と思いやりによって、魂を開花させる事に成る。
祈りは、真理を向いて向上する精神による凝視である。
祈りは、無上の美に対して恋い焦がれる、心からの溜め息である。
祈りは、母に対する幼子の微笑である。
祈りは、恋人である彼女と接吻するための、恋人である彼氏からのささやきである。
祈りは、愛している魂の、愛の大海に広がる様な、穏やかな喜びである。
祈りは、花嫁による花婿の不在への悲しみである。
祈りは、祖国を想う旅人の溜め息である。
祈りは、妻と子を養うために働く貧者の思いやりである。
沈黙して祈ろう。
確信と愛の心の目で、未知の、人の父である神を見よう。
信じ、あきらめて、人生という労苦において神が各人に割り当てた務めを引き受けよう!
そうすれば、胸の鼓動は、祈りの言葉と成るであろう!
(人生における心胸の動きは、祈りに変換されるであろう!)
人が神に求めるものについて、人は神に知らせる必要があったか? いいえ! マタイによる福音6章8節でイエスは「神は人が求める前から人に必要なものを知っている」と話している!
神は人に必要なものを知らないであろうか? いいえ! マタイによる福音6章8節でイエスは「神は人が求める前から人に必要なものを知っている」と話している!
涙を流して悲しんでいる時は、涙を神にささげよう。
喜んでいる時は、神に笑顔を向けよう。
神に打たれている時は、頭を下げて謙虚に成ろう。
神が優しくしてくれている時は、神の腕の中で眠ろう!
誰の事を祈っているのか知らずに祈っている時、人の祈りは完全に成るであろう。
祈りとは、耳につく騒音ではない。
祈りとは、心を貫く沈黙、心に浸透する沈黙である。
気持ちの良い涙が瞳を潤す。
溜め息が香の煙の様に口から漏れる。
美、真理、正義である全てのものへの愛によって、心で、人は自身に触れる。
人は、新しい命、魂の永遠の命に感動して、もう(肉体が)死ぬ事を恐れない。
なぜなら、祈る事が、知性と思いやりによる永遠の生き方である。
祈る事が、地上での神(と言える正しい人)の生き方である。
ヨハネによる福音15章12節から17節の「互いに愛し合いなさい!」というイエスの言葉は、法である。
預言者よ! 「互いに愛し合いなさい!」というイエスの言葉を熟考し理解しなさい。
「互いに愛し合いなさい!」というイエスの言葉を理解したら、最早、読み取って学ぶだけに留まっているなかれ!
探しに隣人から離れて行くなかれ!
存在を疑わずに信じなさい!
愛しなさい!
最早、慎重過ぎるなかれ!
習うだけに留まっているなかれ!
愛しなさい!
「互いに愛し合いなさい!」というイエスの言葉は、真の宗教の教義の全てである。
宗教とは、思いやりである。
神とは、愛でしかない。
「大いなる神秘の鍵 第1部 第1条 数4」で、すでに話した様に、愛するとは、(自身を他者に)ささげる事である。
不信心者とは、他人から吸い取って搾取する人である。
信心深い者とは、思いやる事に専念する人である。
神は命を熱意によって人の心に与えるが、もし人が熱意を自身のためにだけ専念させてしまったら、人の心は、全てのものを滅ぼして灰だけに満たされた地獄に成ってしまう。
神は命を熱意によって人の心に与える。
もし人が熱意を自分以外の他者へ広げたら、熱意は、思いやりという穏やかな太陽に成る。
人は、家族から慈愛による恩恵を受けている。
家族は、祖国から慈愛による恩恵を受けている。
祖国は、国民一人一人から慈愛による恩恵を受けている。
人の利己主義は、孤立と失望に値する。
家族の利己主義は、自壊と国外追放に値する。
祖国の利己主義は、敵との争いと、敵からの内政への侵害に値する。
「私は神の役に立っていると思う」と言って、全ての隣人を思いやる事から離れて怠惰に孤立している人は、自分をだましている事に成ってしまう。
なぜなら、ヨハネの第1の手紙4章20節で、使徒ヨハネは「目に見える隣人(、神の子の兄弟、正しい人)を愛せない人が、なぜ目に見えない神を愛せると言えるのか? いいえ! 目に見える隣人(、神の子の兄弟、正しい人)を愛せない人は、目に見えない神を愛せない!」と話している。
人は、神の物は神に返す必要が有る。
ただし、人は、カエサルの物はカエサルに与える事を拒むなかれ。
(マタイによる福音22章21節「カエサルの物はカエサルに、神の物は神に」)
神は、(永遠の魂の)命を与える者である。
カエサルといった、人が動物的人間として与える事ができるのは(心の)死だけである。
人は、神を愛する必要が有る。
人は、カエサルといった、権力者を恐れるなかれ。
なぜなら、マタイによる福音26章52節に「(手段として暴力である)剣を取る人は剣によって滅びる」と記されている。
善良な思いやり深い人に成りたいと望むのか?
善良な思いやり深い人に成りたいのなら、正しくありなさい。
正しくありたいと望むのか?
正しくありたいなら、(神の知によって肉欲などから)自由でありなさい。
人を動物的人間にしてしまう悪徳は、自由の第一の敵である。
酩酊者を見てみなさい!
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死(体)を求める飢えたカラスの様に、金銭などに貪欲な人は、父が死ぬ様に呪う。
野心家の行き着く先は、破滅である。
野心家の行き着く先は、嫉妬による精神錯乱である!
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愛せない心は、憎悪という最も残酷な苦しみによって、こらしめられる。
なぜなら、(「こらしめられ方、罰され方は、罪に対応している」、)「罪のつぐなわされ方は、罪に潜在している」。
心に受け止めておきなさい!
悪事を行う人は、出来の悪い「陶器の器」、出来の悪い「土の器」に例えられる。
(
詩編2章9節とヨハネの黙示録2章27節「陶器の器」、「土の器」
人は「土」や「器」に例えられる。
)
悪事を行う人は、自滅させられる。
(ヨハネの黙示録2章23節「私イエスは行いに応じて報いる」)
運命は、悪事を行う人の自滅を望む。
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