大いなる神秘の鍵

エリファス1810

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第1部 宗教の神秘

第1部 第1条 数7

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第1部 第1条 数7

 7つ1組

 数7は、聖書にあらわれる大いなる数である。
 数7は、創世記といったモーセの書において、創世の鍵に成っている。
 数7は、全ての宗教の象徴である。
 モーセは、「モーセ五書」を書き残した。
 「旧約聖書」と「新約聖書」という2種類の「聖書」によって、「モーセ五書」、「律法」、「トーラー」は完成している。
 (「モーセ五書」の数5と「旧約聖書」と「新約聖書」という2種類の「聖書」の数2を足すと、数7である。)
 聖書は、歴史書ではない。
 聖書は、詩を集めた物である。
 聖書は、諸々の例え話と象徴の書である。
 創世記の、アダムとエヴァは、人性の原型に過ぎない。
 創世記の、誘惑する蛇は、人を試す、「時」である。
 創世記の、善悪の知の木は、「権利」である。
 創世記3章の、労苦による罪のつぐないは、「義務」である。
 創世記の、カインとアベルは、肉と霊、力と知、破壊と調和を表す。
 創世記6章の巨人は、(肉欲によって、)地を暴力で奪い合う古代の権力者どもを表す。
 創世記7章の、大洪水は、大変革を表す。
 モーセの、契約の箱は、ヘブライ人が保存している口伝である。
 前記の時代、(後にキリスト教として表れる真の神の教えである)宗教は、ヘブライ人所有の神秘、ヘブライ人の所有物に成る。
 ハムはヘブライ人所有の宗教をヘブライ人以外に口外したため、創世記9章25節でノアはハムの子カナンを呪った。
 創世記10章のニムロデと創世記11章のバベルの塔は、人の夢想に常に満ちあふれている、独裁と世界帝国という2つの原初の象徴である。
 アッシリア人、メディア人、ペルシャ人、アレクサンダー、ローマ帝国、ナポレオン、初代ロシア皇帝ピョートル1世の後継者であるロシア皇帝たちは、次々と、独裁と世界帝国という夢想の実現を求め、常に、利害による分裂によって実現できなかった。
 創世記11章の「言葉の混乱」は、利害による分裂の例えである。
 (人は利害が衝突する相手の言葉には聞く耳を持たない。)
 知と思いやり無しでは、暴力では、世界帝国を実現できなかった。
 創世記10章のニムロデは、未開の、「権利」を象徴する人である。
 ニムロデとは正反対で、創世記のアブラハムは、義務を象徴する人である。
 創世記12章で、アブラハムは、自由意思で、自由を求め、カルデアの都市国家ウルを出て旅をし、未知の地カナンで戦った。
 アブラハムは、アブラハムの「知」の力によって、「神」の力によって、未知の地カナンを所有した。
 アブラハムの不妊の妻サラは、アブラハムの考え、知を表す。
 アブラハムの多産の奴隷ハガルは、アブラハムの力を表す。
 ただし、力が結果をもたらすと、考え、知は多産に成る。
 ハガルが子イシュマエルをもたらすと、サラは多産に成った。
 知である息子によって、力の子は追放される事に成る。
 イサクによって、イシュマエルは追放される事に成る。
 知の人は、荒っぽい試練を甘んじて受ける。
 知の人アブラハムは、荒っぽい試練を甘んじて受ける。
 知の人は、自己犠牲によって、克己を確認する必要が有る。
 知の人アブラハムは、自己犠牲、独り子イサクを神にささげる事によって、克己を確認する必要が有る。
 神は、知の子(、知の結果である行い)を神にささげる様に知へ命令する。
 創世記22章で、神は、アブラハムの息子イサクを神にささげる様にアブラハムへ命令する。
 言い換えると、疑心は、考え、知を試す必要が有る。
 神は、アブラハムの考え、知を試す必要が有った。
 知の人は全てのものを無上の論理である神の祭壇の上にささげる覚悟が有るべきである。
 知の人アブラハムは全てのものを無上の論理である神の祭壇の上にささげる覚悟が有るべきである。
 アブラハムがイサクを誤って生贄にしようとすると、神は、干渉して生贄を止める。
 普遍の論理は、労苦の結果を許して、普遍の論理を知に知らせる。
 普遍の論理である神は、アブラハムの労苦の結果を許して、普遍の論理を知の象徴であるアブラハムに知らせる。
 考え、知の物質的な面だけが、ささげられる。
 創世記22章13節で、アブラハムによって、「やぶに角が引っかかっている羊」が、ささげられた。
 創世記22章13節の「やぶに角が引っかかっている羊」、「面をやぶに向けている羊」は、「知の物質的な面」を意味する。
 そのため、創世記のアブラハムの話は、古代の作法による、例え話である。
 創世記のアブラハムの話は、人の魂の運命の高尚な啓示を含んでいる。
 文字通りに受け取ると、創世記のアブラハムの話は、非論理的で反感を抱かせる話である、と誤解されてしまう。
 アウグスティヌスは、アプレイウスの「黄金のロバ」という話を文字通りに受け取らなかったか?
 あわれな偉人達! あわれな学者達!
 イサクの話は、もう一つの口伝である。
 イサクの妻リベカは、オリエントの女性の典型であり、勤労的であり、親切にもてなし、子のうち弟ヤコブをひいきし、子ヤコブのために夫イサクをだます策を考える抜け目の無さが有った。
 ヤコブはアベルを象徴する。
 ヤコブの兄エサウはカインを象徴する。
 ただし、ヤコブはアベルとして、カインであるエサウに報復して、父イサクからの祝福を横取りした。
 自由に成った知は、機知によって勝利する。
 ヤコブは、機知によってエサウに勝利する。
 ヤコブの気質に、ヘブライ人の精神の全てが存在する。
 忍耐強く勤労的な「押しのけた者」、「取って代わった者」、「ヤコブ」は、エサウの怒りに自ら従おうとして、富者に成り、兄エサウからの許しを手に入れた。
 「古代人は、哲学的に考える時は常に、例え話を作る」事を忘れるなかれ。
 ヨセフの史実、または、ヨセフの伝説は、福音の精神の全てを芽生えとして含んでいる。
 イエス キリストは、兄弟に誤解された時は度々、創世記45章の「エジプトの統治者であるヨセフは、『私はヨセフだ!』と大声で叫んで正体を明かしてから、ベニヤミンの首にすがりついた」という話を読み返して涙を流して悲しんでいたに違いない。
 イスラエルは、神の民族に成った。
 言い換えると、イスラエルは、知という財産の管理人に成った。
 イスラエルは、神の言葉の保管者に成った。
 イスラエルの知とは、労苦による、人の自立のための知であり、王者のための知である。
 イスラエルは、貴重な種の様に、イスラエルの知を用心して隠した。
 イスラエルの秘伝伝授者は、難しい忘れられない象徴を記憶に焼きつけた。
 イスラエルでは、真理の、全ての偶像が禁じられた。
 イスラエルであるヤコブの子孫は、聖所がまとまっている周囲を剣を手に監視した。
 創世記34章で、ハモルとシェケムは、神聖な家族であるヘブライ人の中に力ずくで不法に入り込もうとして、ヤコブの子達に割礼という心にも無い入門の儀式を受けさせられた後で滅ぼされた。
 大衆を統治するには、聖所を自己犠牲と恐怖で囲む必要が十分に有る。
 イスラエルであるヤコブの子孫が奴隷にされる事は、イスラエルへの救いを用意する事に成る。
 なぜなら、イスラエルには、唯一の神、唯一の知が有る。
 そして、人は、神(という概念)を束縛できないし、知(という概念)を束縛できない。
 イスラエルには、唯一の神の教えが有る。
 そして、人は、宗教(という概念)を侵害できない。
 結局、イスラエルは、唯一の民族である。
 そのため、人は、民族の実質性を束縛できない。
 迫害は、イスラエルの復讐者を目覚めさせる事に成る。
 神、知は、人に成った。
 神の知は、イエスという人に成った。
 モーセが現れて、悪いファラオは失墜した。
 出エジプト記13章20節から22節で、(昼は)雲の柱が、(夜は)火の柱が、解放された民族ヘブライ人の前に先立って、荒れ野へ雄大に進んだ。
 イエス キリストは、知と思いやりによる、(大)祭司であり、王である。
 イエスは、霊、信心、徳の油による「油を注がれた者」、「キリスト」である。
 霊、信心、徳の油とは、力である。
 イエスは、聖職者が退廃した時に、もはや古代の象徴に力が無く成った時に、知による光明が消えた時に、降臨した。
 イエスは、イスラエルを命に呼び戻して復活させるために、降臨した。
 もしファリサイ派が命を奪ったイスラエルを刺激して復活させる事ができなくても、イエスは、死んでいる偶像崇拝にふけっている世界中の人々を復活させるつもりであった。
 イエス キリストは、(他)人の義務を果たす権利である。
 人には、イエスへの義務を果たす権利以外の権利は無い。
 おおっ! 人よ!
 人には、完全に死に至るまで、自分の義務を果たす事を妨げる全ての者に対して抵抗する権利が有る。
 母よ!
 子が溺れている時、母が、子を助けるのを妨げる人をなぐり、子を助けに走ったとして、誰が母をあえて非難するであろうか? 母は子を助けるのを妨げる人をなぐって善い!
 イエス キリストは、義務を果たす権利を、権利を主張する義務に対立させた。
 「権利」は、ヘブライ人にとって、ファリサイ派の教えであった。
 実に、ファリサイ派は、教えとして主張する特権を得ていた様に思われる。
 ファリサイ派は、ユダヤ教の正統な継承者ではないか?
 ファリサイ派には、救い主イエスを迫害する権力が有った。
 救い主イエスは、人に成った神イエスの義務がファリサイ派に反対する事であると知っていた。
 イエス キリストとは、抗議の精神である。
 イエスの抗議の精神とは、何に対する抗議なのか?
 知に対する肉欲の抗議か? いいえ!
 義務に対する権利の抗議か? いいえ!
 倫理道徳に対する科学の抗議か? いいえ!
 精神に対する肉体の抗議か? いいえ!
 普遍の論理に対する妄想の抗議か? いいえ!
 知に対する狂愚の抗議か? いいえ!
 千回でも何回でも、いいえ! さらに、いいえ!
 イエス キリストは、妄想に対する永遠の抗議である現実であり、権利に対する永遠の抗議である義務である。
 イエスは、肉欲による奴隷状態を打ち破る、精神の解放である。
 イエスは、利己主義に抗議する、献身である。
 イエスは、マタイによる福音4章の様に「私は、お前に従うつもりは無い!」と傲慢の精神に対して答える、気高い謙遜である。
 イエス キリストは、未婚の独身であった。
 イエス キリストは、孤独であった。
 イエス キリストは、悲しんだ。
 なぜなのか?
 なぜなら、人の女性は、金銭で性的に身体を売っている。
 社会は、(搾取によって、)盗む罪を犯している。
 自分のためだけに自分だけが喜ぶ事は、不信心である。
 イエス キリストは裁かれて死罪に定められ、迫害され、十字架刑で処刑されて殺害されたが、大衆はイエスを敬礼している!
 この世でイエスが身代わりに成って苦しみ無実の罪で殺害された事件が起きたのは、恐らく、個々の人自身と同じくらい、重要である。
 人が生きている、この世の裁判官たちよ、気をつけなさい!
 人の裁きを裁くつもりである人に成った神イエスについて考えなさい!
 (
マタイによる福音7章1節から2節「他人を裁くなかれ。自分が裁かれないためにである。他人を裁く裁きで自分も裁かれるであろう」
ヨハネによる福音5章30節「私イエスは聞いた通りに裁くだけである。私イエスの裁きは正しい」
 )
 救い主イエスは、死ぬ前に、救いの手段である不死の象徴である聖体のパンと赤ワインをイエスの子孫であるキリスト教徒達に残した。
 聖体! 全員一致の統一体! この世の救い主イエスの究極の言葉!
 要約すると、ヨハネによる福音6章で、イエスは「(思いやりから)全員で分かち合った、パンと赤ワインは、私イエスの血肉である(思いやりの象徴である)」と話している。
 イエスは、肉を死刑執行人に与え、血を地に吸わせた。
 なぜなのか?
 全ての人が、知という聖体のパンと、思いやりという聖体の赤ワインをいただく事ができる様にするためである。
 おおっ! 人の統一体の象徴であるイエスよ!
 おおっ! 普遍の騎士団の円卓であるイエスよ!
 おおっ! 兄弟愛と平等の宴であるイエスよ! 友愛と平等の宴であるイエスよ!
 イエスが、より良く理解されるのは、いつであろうか?
 思いやりによる殉教者達よ。
 全ての人が、(知という魂の)糧と成る聖体のパンと、(思いやりという心を)強める聖体の赤ワインを保持できる様にするため、命をささげた全ての殉教者達よ。
 全ての殉教者達は、普遍の聖体のパンと赤ワインという象徴に手を置いて、「聖体のパンと赤ワインは、私、殉教者の血肉である」と話していなかったか? 全ての殉教者達は、普遍の聖体のパンと赤ワインという象徴に手を置いて、「聖体のパンと赤ワインは、私、殉教者の血肉である」と話していた!
 主イエスが兄弟、同胞と呼んだ、全世界の人々よ。
 「普遍のパン、兄弟愛からのパン、友愛からのパン、聖体のパンは、神である」と心に感じないか?
 十字架にはりつけにされて殺害された人に成った神イエスによって金銭を稼ぐ商売人と成ってしまっている邪悪な聖職者どもよ!
 血肉と命を(他)人にささげる覚悟が無い邪悪な聖職者どもは、全て、神の子イエスの聖体のパンと赤ワインを受ける価値が無い!
 (邪悪な聖職者どもは、魂の永遠の命を受け取れずに、魂まで滅びなさい!)
 邪悪な聖職者どもは、イエスの血を自分に注ぐなかれ!
 なぜなら、イエスの血は、罪人の焼き印を邪悪な聖職者どもの額に押すであろう!
 邪悪な聖職者どもは、唇を神の胸に近づけるなかれ!
 神は、邪悪な聖職者どもの心や言葉の棘を感じ取る事ができる!
 邪悪な聖職者どもは、(思いやりという)イエス キリストの血の象徴である赤ワインを飲むなかれ。
 イエスの血の象徴である赤ワインは、邪悪な聖職者どもの内臓、心の内奥を焼くであろう。
 邪悪な聖職者どものために無駄にイエスの血が流されるのは、もう十分である!
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