大いなる神秘の鍵

エリファス1810

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第1部 宗教の神秘

第1部 第1条 数8

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第1部 第1条 数8

 数8

 数8は、反作用の数である。
 数8は、つり合わせる正義の数である。
 全ての作用は、反作用をもたらす。
 作用が反作用をもたらすのは、世界の普遍の法である。
 キリスト教は、反キリスト教を必ず引き起こす。
 反キリストとは、イエス キリストの影、引き立て役、証明である。
 使徒の時代に、教会に、反キリストは、すでに生じていた。
 テサロニケの信徒への第2の手紙2章6節から8節で、使徒パウロは、「なぜなら、不法の秘密の力は、すでに働いている。ただし、今、(不法の秘密の力を)阻止している者が取り除かれるまでで、取り除かれると、不法の者が現れる。……」と話している。
 プロテスタントは、「反キリストとは、カトリックの法王である」と話した。
 法王は、「異端者は、全て、反キリストである」と応えた。
 反キリストとは法王ではない、のと同じくらい、反キリストとはプロテスタントのルターではない。
 反キリストとは、キリストの精神とは正反対の精神である。
 反キリストの精神とは、自分の権利のための、他人の権利の侵害である。
 反キリストの精神とは、優勢による傲慢である。
 反キリストの精神とは、思考への圧政である。
 反キリストの精神とは、悪いカトリック教徒の軽信な傲慢な愚かさである、だけではなく、プロテスタントの利己心であり、プロテスタントが自認している教えである。
 反キリストとは、人々を結びつける代わりに、人々を分裂させるものである。
 反キリストの精神とは、言い争いの精神である。
 反キリストの精神とは、神学者や党派心の強い人の頑固さである。
 反キリストの精神とは、他人を真理から排斥して真理を私物化する不信心な欲望であり、世界の全ての人を人による裁きによる心が狭い圧政に力ずくで従わせようとする不信心な欲望である。
 反キリストとは、祝福する代わりに、呪う聖職者である。
 反キリストとは、心を引き寄せる代わりに、心を遠ざけさせる聖職者である。
 反キリストとは、教訓的である代わりに、嫌悪させる聖職者である。
 反キリストとは、救う代わりに、地獄へ落とす聖職者である。
 反キリストの精神とは、善意を失わせる、憎むべき狂信である。
 反キリストの精神とは、死、悲しみ、醜さの尊重や賛美である。
 多数の愚かな親が「どの仕事を息子のために選ぼうか?」と話している。
「息子は、精神的にも肉体的にも弱いし、少しも勇気が無い。
息子を聖職者にして『祭壇で生計を立てる』事ができる様にさせよう」
 多数の愚かな親は、「祭壇は、怠惰な動物的人間のための飼葉桶ではない」という事を理解していない。
 祭壇の偽の下僕である、祭司に相応しくない聖職者どもを見てみなさい!
 過度に肥満の、または、死んだ人の様に青白い痩せた、祭司に相応しくない聖職者どもは、澄んでいない輝きの無い目で、歪んだ口で、または、呆然と大口を開けて、あなたの心に何を訴えかけると言うのか?
 祭司に相応しくない聖職者どもが、話すのが聞こえる。
 祭司に相応しくない聖職者どもの、不快な単調な雑音が、何をあなたに教える所が有ると言うのか?
 祭司に相応しくない聖職者どもは、眠る様に、祈る(ふりをする)。
 祭司に相応しくない聖職者どもは、むさぼる様に、供え物をささげる。
 祭司に相応しくない聖職者どもは、パン、肉、赤ワイン、無意味な言葉に満ちた、機械的に対応するだけの人間である。
 人は、考えも思いやりも無く太陽の中の真珠貝の様に派手に着飾っている祭司に相応しくない聖職者どもには、魂の平和が有ると言う! 祭司に相応しくない聖職者どもに、魂の平和が有る訳が無い!
 祭司に相応しくない聖職者どもには、動物的人間の平和が有るのである。
 人にとっては、動物的人間の平和よりも、墓の中の平和の方がより良いであろう。
 祭司に相応しくない聖職者どもは、愚かさに従う聖職者である。
 祭司に相応しくない聖職者どもは、反キリストに従う聖職者である。
 イエス キリストの真の祭司は、魂が生きている人、労苦を忍耐する人、思いやる人、正義のために戦う人である。
 真の祭司は、言い争いをしない。
 真の祭司は、迫害しない。
 真の祭司からは、許し、知、思いやりが出て来る。
 真のキリスト教徒は、党派心を知らない人である。
 真のキリスト教徒は、全ての人のために、全てのものに成る。
 真のキリスト教徒は、全ての人を、全ての人を救うつもりである唯一の共通の父である神の子の様に見る。
 真のキリスト教徒にとって、キリスト教の全部が、甘美な思いやり深い意味だけを持っている。
 真のキリスト教徒は、(厳しい)正義の神秘を神に任せて、思いやりだけを理解する。
 真のキリスト教徒は、悪人を、同情と治療が必要な病人と見なす。
 真のキリスト教徒にとって、過誤と悪徳に満ちた世界は神の病院であり、真のキリスト教徒は、世界という神の病院で神の役に立つ事を望む。
 真のキリスト教徒は、「自分は、他者より優れている」と思考したりしない。
 真のキリスト教徒は、「健康状態が良好である限り、私が他者の役に立てます様に。また、私が倒れて死ななければいけない時は、よろしければ、他人が私の代わりに成ってくれて役に立ってくれます様に」と話すだけである。
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