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第1部 宗教の神秘
第1部 第1条 数9
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第1部 第1条 数9
数9
数9のタロットには、隠者が描かれている。
数9は、秘伝伝授者と予言者に関係する数である。
予言者は、孤独である。
なぜなら、大衆が予言者の言葉に常に耳を傾けないのは、予言者の宿命である。
予言者は、他人とは違ったものの見方をする。
予言者は、不運を予知する。
そのため、大衆は、予言者を、伝染病患者であるかの様に、投獄し、殺すか笑いものにし、追放し、餓死するまで放置する。
そして、予言が実現すると、大衆は、「不運をもたらしたのは、予言者である」と言いがかりをつける。
さて、いつもの事だが、大いなる災いの直前には、通りは予言者で満ちあふれる。
エリファス レヴィは、牢獄の中で何人かの予言者に出会った事が有る。
また、エリファス レヴィは、屋根裏部屋で大衆から忘れ去られて死んでいる予言者達を見た事も有る。
大都市の全ての大衆が、ぼろぼろの衣で体を覆い贅と富を尽くした宮殿で絶え間無く回転する沈黙の予言者を見た事が有る。
マタイによる福音17章2節で太陽の様に輝いたイエス キリストの顔の様に、顔が太陽の様に輝く予言者をエリファス レヴィは見た事が有る。
顔が太陽の様に輝く予言者は、手の皮膚に「たこ」が有り、仕事着を着ていた。
顔が太陽の様に輝く予言者は、泥をこねて大作を作った。
顔が太陽の様に輝く予言者は、権利の剣と義務の王笏を絡み合わせた物を作った。
顔が太陽の様に輝く予言者は、思いやりの創造的な象徴を、黄金と鉄を絡み合わせた柱、権利の剣と義務の王笏を絡み合わせた柱の上に置いた。
ある日、人気の有る大いなる集会で、顔が太陽の様に輝く予言者は、道を下りながら、「神のパンよ、全ての人のためのパンに成りなさい!」と話して、手でパンを裂いて一欠片ずつ分けた。
エリファス レヴィが知っている予言者は、「私は最早、悪魔の神を敬礼するつもりは無い! 私は私の神のために絞首刑執行人を持ちたくない!」と叫んだ。
エリファス レヴィが知っている予言者は、神を冒涜していると大衆に思われていた。
しかし、エリファス レヴィが知っている予言者は、神を冒涜していなかった。
エリファス レヴィが知っている予言者は、ただ、信心の強さが、不正確な無思慮な言葉で、あふれ出ていただけであった。
後記の様に、さらに、エリファス レヴィが知っている予言者は、思いやりが傷つけられて狂って、話していた。
「全ての人の責任の罪は共通であり、相互の徳をたたえ合う様に、相互の責任の罪をつぐない合う。
罪への罰は死である。
さらに、罪自体が、最も大いなる罰である1つの罰である。
大罪は、大いなる不運にしか成らない。
最悪の人とは、他の悪人よりも、自分が優れていると思い込んでいる人である。
人が肉欲に夢中に成ってしまうのには、原因が有る。
肉欲に夢中に成ってしまう人は、肉欲に無抵抗なのである。
肉欲は、苦しみと成る。
悲しみながら肉欲による罪をつぐなう羽目に成る。
人が自由と呼んでいる物は、神聖な衝動の全能性でしかない。
殉教者達は、『人に従うよりも神に従う方が良い』と話している」
「信心による最良の行為よりも、思いやりによる最も不完全な行為は価値が大きい」
「裁くなかれ。
ほとんど話すなかれ。
思いやりなさい。
そして、行いなさい」
別の予言者が来て「善行によって悪しき教えに抗議しなさい。ただし、離れるなかれ」と話した。また、後記の様に、話した。
「全ての祭壇を建て直しなさい。
全ての神殿を清めなさい。
神の聖霊の訪れに備えて自分の気持ちを抑えなさい。
各人の祈り方で祈らせなさい。
深く内省しなさい。
ただし、他者を非難するなかれ。
宗教的行為の実践を軽蔑するなかれ。
なぜなら、宗教的行為の実践は、大いなる神聖な思考の表れである。
『共に祈る』とは、同じ信仰、希望、愛で、理解し合い通じ合う事である。
象徴は、単独では大した物ではない。
信心が、象徴を神聖な物にする。
宗教は、最も神聖な最も強い、人と人の結びつきである。
宗教的行為の実践とは、思いやりからの行為の実践である」
ついに、人々が、知らないものについて言い争ってはいけない、と理解する時、
人々が、多くのものに影響を及ぼす事よりも、多くのものを支配する事よりも、ささやかな思いやりは価値が大きい、と心に感じる時、
創造主である神さえも被造物の中で敬愛する2つの物である、従順の自発性と義務の自由を、全世界の人々が敬愛する時、
世界には、唯一の宗教(である仏教を含むキリスト教)、思いやり深い普遍のキリスト教、真のカトリックしか存在しなく成るであろう。
最早、環境的な制約や人的な制約によって、真のカトリックは自制しない。
「サマリアの女」に、救い主イエスは、ヨハネによる福音4章21節で「真に私イエスは、あなた、『サマリアの女』に次の様に話す(ので、信じなさい)。最早エルサレムによってではなく、ゲリジム山によってではなく、(霊と真理によって、)人が神を敬礼する時が来る」と、ヨハネによる福音4章24節で「なぜなら、神は霊である。そのため、神を敬礼する人は、霊と真理によって神を敬礼する必要が有る」と話している。
数9
数9のタロットには、隠者が描かれている。
数9は、秘伝伝授者と予言者に関係する数である。
予言者は、孤独である。
なぜなら、大衆が予言者の言葉に常に耳を傾けないのは、予言者の宿命である。
予言者は、他人とは違ったものの見方をする。
予言者は、不運を予知する。
そのため、大衆は、予言者を、伝染病患者であるかの様に、投獄し、殺すか笑いものにし、追放し、餓死するまで放置する。
そして、予言が実現すると、大衆は、「不運をもたらしたのは、予言者である」と言いがかりをつける。
さて、いつもの事だが、大いなる災いの直前には、通りは予言者で満ちあふれる。
エリファス レヴィは、牢獄の中で何人かの予言者に出会った事が有る。
また、エリファス レヴィは、屋根裏部屋で大衆から忘れ去られて死んでいる予言者達を見た事も有る。
大都市の全ての大衆が、ぼろぼろの衣で体を覆い贅と富を尽くした宮殿で絶え間無く回転する沈黙の予言者を見た事が有る。
マタイによる福音17章2節で太陽の様に輝いたイエス キリストの顔の様に、顔が太陽の様に輝く予言者をエリファス レヴィは見た事が有る。
顔が太陽の様に輝く予言者は、手の皮膚に「たこ」が有り、仕事着を着ていた。
顔が太陽の様に輝く予言者は、泥をこねて大作を作った。
顔が太陽の様に輝く予言者は、権利の剣と義務の王笏を絡み合わせた物を作った。
顔が太陽の様に輝く予言者は、思いやりの創造的な象徴を、黄金と鉄を絡み合わせた柱、権利の剣と義務の王笏を絡み合わせた柱の上に置いた。
ある日、人気の有る大いなる集会で、顔が太陽の様に輝く予言者は、道を下りながら、「神のパンよ、全ての人のためのパンに成りなさい!」と話して、手でパンを裂いて一欠片ずつ分けた。
エリファス レヴィが知っている予言者は、「私は最早、悪魔の神を敬礼するつもりは無い! 私は私の神のために絞首刑執行人を持ちたくない!」と叫んだ。
エリファス レヴィが知っている予言者は、神を冒涜していると大衆に思われていた。
しかし、エリファス レヴィが知っている予言者は、神を冒涜していなかった。
エリファス レヴィが知っている予言者は、ただ、信心の強さが、不正確な無思慮な言葉で、あふれ出ていただけであった。
後記の様に、さらに、エリファス レヴィが知っている予言者は、思いやりが傷つけられて狂って、話していた。
「全ての人の責任の罪は共通であり、相互の徳をたたえ合う様に、相互の責任の罪をつぐない合う。
罪への罰は死である。
さらに、罪自体が、最も大いなる罰である1つの罰である。
大罪は、大いなる不運にしか成らない。
最悪の人とは、他の悪人よりも、自分が優れていると思い込んでいる人である。
人が肉欲に夢中に成ってしまうのには、原因が有る。
肉欲に夢中に成ってしまう人は、肉欲に無抵抗なのである。
肉欲は、苦しみと成る。
悲しみながら肉欲による罪をつぐなう羽目に成る。
人が自由と呼んでいる物は、神聖な衝動の全能性でしかない。
殉教者達は、『人に従うよりも神に従う方が良い』と話している」
「信心による最良の行為よりも、思いやりによる最も不完全な行為は価値が大きい」
「裁くなかれ。
ほとんど話すなかれ。
思いやりなさい。
そして、行いなさい」
別の予言者が来て「善行によって悪しき教えに抗議しなさい。ただし、離れるなかれ」と話した。また、後記の様に、話した。
「全ての祭壇を建て直しなさい。
全ての神殿を清めなさい。
神の聖霊の訪れに備えて自分の気持ちを抑えなさい。
各人の祈り方で祈らせなさい。
深く内省しなさい。
ただし、他者を非難するなかれ。
宗教的行為の実践を軽蔑するなかれ。
なぜなら、宗教的行為の実践は、大いなる神聖な思考の表れである。
『共に祈る』とは、同じ信仰、希望、愛で、理解し合い通じ合う事である。
象徴は、単独では大した物ではない。
信心が、象徴を神聖な物にする。
宗教は、最も神聖な最も強い、人と人の結びつきである。
宗教的行為の実践とは、思いやりからの行為の実践である」
ついに、人々が、知らないものについて言い争ってはいけない、と理解する時、
人々が、多くのものに影響を及ぼす事よりも、多くのものを支配する事よりも、ささやかな思いやりは価値が大きい、と心に感じる時、
創造主である神さえも被造物の中で敬愛する2つの物である、従順の自発性と義務の自由を、全世界の人々が敬愛する時、
世界には、唯一の宗教(である仏教を含むキリスト教)、思いやり深い普遍のキリスト教、真のカトリックしか存在しなく成るであろう。
最早、環境的な制約や人的な制約によって、真のカトリックは自制しない。
「サマリアの女」に、救い主イエスは、ヨハネによる福音4章21節で「真に私イエスは、あなた、『サマリアの女』に次の様に話す(ので、信じなさい)。最早エルサレムによってではなく、ゲリジム山によってではなく、(霊と真理によって、)人が神を敬礼する時が来る」と、ヨハネによる福音4章24節で「なぜなら、神は霊である。そのため、神を敬礼する人は、霊と真理によって神を敬礼する必要が有る」と話している。
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