40 / 46
第3部 自然の神秘
第3部 第2巻 第4章 倒錯の神秘
しおりを挟む
第3部 第2巻 第4章 倒錯の神秘
命に引き寄せる力と、死に引き寄せる力という、2つの引き寄せる力が、人のつり合いを形成している。
死に至る物、死に引き寄せる力は、人を底無しの淵に引きずり込む、めまいである。
自由とは、死に至る、死に引き寄せる力を超越する、論理的な努力である。
大罪、死に至る大罪とは、何であるか?
大罪、死に至る大罪とは、自由の放棄である。
自由の放棄とは、怠惰の法に身を委ねる事である。
不正な行為とは、不正と契約する事である。
不正は、全て、知を放棄する事に成る。
知を放棄した瞬間から、人は堕落して、自然の力に統治される事に成る。
常に、自然の力による反作用は、つり合いを取れていない全てのものを粉々にする。
悪への愛着と、意思による表立った、不正への愛着は、死にゆく意思による最低の努力である。
人が何をしても、人は、動物以上の知的存在である。
人は、(知性が邪魔をするので、)動物の様には、運命に身を委ねる事はできない。
人は、選ぶ必要が有る。
人は、愛する必要が有る。
死を愛していると自ら誤って思い込んでいる絶望した人は、愛が無い人よりも、生きている。
悪への行動力は、切り返す事によって、また、反動による逆流によって、人を善へ導いて戻す事ができるし、導いて戻すべきである。
救いようが無い不治の真の悪とは、怠惰である。
神の思いやりの(無限という)底無しの淵には、倒錯の底無しの淵が対応している。
頻繁に、神は、悪人を聖人に改心させている。
しかし、神は、中途半端な生ぬるい人や臆病者には何もしない。
神に見放されたら、人は行動する必要が有る。
さらに、自然は理解していて、人が勇気を持って命へ歩まないと、自然は人を死へ全力で動かす。
自然は、歩く意思が無い人を引きずって行く。
中略
神に逆らって侮辱する事は、信心による最低の行いである。
なぜなら、詩編115章17節で、詩編の作者は、「死んだ人は、神をたたえる事ができない、おおっ、主である神よ」と話しているが、エリファス レヴィは、大胆に補足して、「死んだ人は、神を冒涜する事ができない」と話す。
中略
常に、大いなる罪人は、多数の生ぬるい人々に対して抗議する様に成る。
中略
教会には、不祥事を起こした聖職者を裁き、非難し、罰する権利が有る。
しかし、教会には、不祥事を起こした聖職者を、絶望による乱心や、悲惨さや飢えによる誘惑に、引き渡す権利は無い。
虚無ほど恐ろしい物は無い。
仮に、虚無という概念を表す事ができて、虚無を認める事ができるのであれば、地獄は望むべき物と成ってしまうであろう。
そのため、自然は、救済策として、罪のつぐないを人に求めて強制する。
そのため、大いなるカトリック教徒ジョゼフ ド メーストル伯爵が非常に良く理解していた様に、懲罰は罪を清める。
そのため、死刑は、自然な権利であり、人の法から消えないであろう。
もし神が死刑を正しい物としなければ、殺人という汚れは、消す事ができないであろう。
死刑という神聖な権利を、社会が放棄すると、また、犯罪者が奪って不正利用すると、議論の余地無く、死刑の権利は、犯罪者の物に成ってしまうであろう。
死刑の権利が犯罪者の物に成ってしまったら、激しい自然な報復行為として、殺人は善行に成ってしまうであろう。
死刑の権利が犯罪者の物に成ってしまったら、人は、私刑による報復によって、公の罪のつぐないが無い事に対して抗議するであろう。
死刑の権利が犯罪者の物に成ってしまったら、壊れた正義の剣の欠片から、無秩序は、短剣をつくるであろう。
ある日、ある善良な祭司が「もし神が地獄(という状態)を無くしたら、人は、神に反抗して、新たな地獄を創造するであろう」と話したのは、正しい。
そのため、悪人は、地獄が無く成る事を望むのである。
全ての悪人は、「解放!」と叫ぶ。
悪人は、死刑の廃止による、殺人の解放を求める。
悪人は、結婚の廃止による、娼婦と子殺しの解放を求める。
悪人は、所有権の廃止による、怠惰と強奪の解放を求める。
悪人が「人生の廃止による、死の解放、自殺の解放!」という最後の隠された言葉に辿り着くまで、倒錯という竜巻は回転する。
労苦による勝利によって、人は、悲しみの運命から脱出できる。
人が死と呼んでいる物は、自然の永遠の出産でしかない。
絶え間無く、自然は、霊によって生まれ変わらなかった人の魂を、再び、引き寄せて懐へ取り込む。
(ヨハネによる福音3章「人は、霊によって生まれ変わらなければ、神の王国に入れない」)
自力で動かない、物質は、永久機関の力によってのみ、存在できる。
自然に気化し易い、霊は、固定される事によってのみ、存続できる。
ヨハネによる福音3章に記されている「霊によって生まれ(変わ)る」とは、人が自由意思によって精神を真理と善と一致させて運命の法から解放される事である。
自然が、霊によって生まれ変わらなかった人の魂を再び引き寄せて懐へ永遠に取り込んでいる状態が、人にとっての、ヨハネの黙示録2章11節の「第2の死」である。
(肉欲の)奴隷である人は、死に至る引力によって、ヨハネの黙示録2章11節の「第2の死」へ引きずり込まれる。
神の様な画家ミケランジェロが「最後の審判」という大いなる絵画で明らかにして見せた様に、悪人は互いに足を引っ張り合う。
悪人は、溺れている人の様に、まとわりつき合い、しっかり掴んで離さない。
(肉欲から)自由に成った霊は、昇天を邪魔されない様に、地獄に引きずり込まれない様に、力強く、悪人と戦う必要が有る。
2つの正反対のものの戦いは、創世から存在している。
古代ギリシャ人は、2つの正反対のものの戦いを、エロスとアンテロスの対立という象徴で表した。
古代ヘブライ人は、2つの正反対のものの戦いを、アベルとカインの対立という象徴で表した。
古代ギリシャ人は、2つの正反対のものの戦いを、巨人ティターン族と神々の戦いという象徴で表した。
2つの軍団は、遍在し、目に見えず、練り上げられ、攻撃や反撃の用意が常に出来ている。
中略
秩序と無秩序の必然的な戦い、先天的な物である肉欲と思考の必然的な戦いだけが、真実であり、重要である。
秩序と無秩序の戦い、肉欲と思考の戦いは、進歩する、つり合いをもたらす。
そのため、常に、悪人の霊は、知らないで、天使ミカエルの栄光の役に立つ事に成る。
肉欲の愛着は、死に至る肉欲のうち、最も倒錯的である。
肉欲の愛着は、無政府主義者の中の無政府主義者、悪魔の無政府主義者である。
肉欲の愛着は、法、義務、真理、正義を知らない。
肉欲の愛着は、処女に父と母の死体を踏みにじらせる事ができてしまう。
肉欲の愛着は、抑制し難い酩酊である。
肉欲の愛着は、激しい狂気である。
肉欲の愛着は、新しい餌食を探し求める、死に至る、めまいである。
肉欲の愛着は、より多くの幼子を食い物にするために父に成る事を望む、サトゥルヌスによる、人を食い物にする酩酊である。
性欲を圧倒する事は、自然の全てを圧倒する事に成る。
性欲を正義に従わせる事は、性欲を不死にささげて、命を生まれ変わらせる事に成る。
キリスト教の啓示の最大の功績は、性欲を正義に従わせる事による、自発的な処女性の創造と、結婚の神聖化である。
愛着が肉欲や享楽でしかない間は、愛着は死に至る。
愛を永遠にするためには、愛は、自己犠牲と成る必要が有る。
なぜなら、愛が自己犠牲と成った時、愛は、力や徳に成る。
愛は、世界のつり合いをもたらす、エロスとアンテロスの戦いである。
感覚を刺激し過ぎるものは、全て、人を堕落や悪事や犯罪に導いてしまう。
涙は、人を血に呼び寄せる。
大きな感情は、強い酒の様な物である。
感情を習慣的に利用する事は、感情を濫用する事に成る。
感情の濫用は、全て、倫理道徳的な感覚を倒錯させてしまう。
感情の濫用者は、感情のために感情を求める様に成ってしまう。
感情の濫用者は、感情を手に入れるために、全てのものを犠牲にする様に成ってしまう。
夢見がちな感情の濫用者の女性は、中央刑事裁判所オールド ベイリーの女主人公である犯罪者に容易に成ってしまうであろう。
夢見がちな感情の濫用者の女性は、死ぬ自分を見て自画自賛するために、また、死ぬ自分を見て自身をあわれむために、自殺という嘆かわしい取り返しのつかない非論理的な愚行にまで行き着いてしまうかもしれない。
夢見る習慣、妄想癖は、女性を病的興奮に導いてしまい、男性を憂鬱に導いてしまう。
中略
倫理道徳的な感覚の喪失は、真の狂気である。
第一に、正義に従わない人は、自分を見失っている。
正義に従わない人は、自分の存在という闇夜の中を、正義という明かり無しで歩いている様なものである。
正義に従わない人は、自分の生き方という闇夜の中を、正義という明かり無しで歩いている様なものである。
人は、夢の中の人の様に動揺して、自分の肉欲という悪夢に食い物にされてしまう。
先天的な命である肉欲と、人の意思の弱い抵抗という、2つの激しい流れが、対照的な対立を形成するので、カバリストは複数の魂による超胎児形成を仮定した。
言い換えると、カバリストは、肉体を獲得しようと互いに争い合って、多くの場合、肉体を破壊してしまう、複数の魂が1つの肉体に存在する事を信じた。
正に、1816年のフランスの難破船メデューズ号の船員が、小さな筏を獲得しようと争い合って、筏を沈ませてしまった、様に。
正義に従わない人は、先天的な物である肉欲による星の光の流れか、思考による星の光の流れの下僕に自ら成り下がって、自分の人格や個性を放棄してしまい、マルコによる福音5章で「軍団」を名乗っている多数の悪人の霊の奴隷に成り下がってしまうのは、確かである。
前記を、芸術家は、良く十分に経験している。
芸術家は、習慣的に普遍の光、星の光を呼び出して、気力を喪失してしまう。
芸術家は、霊媒師と成ってしまう。
言い換えると、芸術家は、病人と成ってしまう。
より多くの成功が世論において芸術家を誇張するほど、芸術家の人格や個性は弱く成ってしまう。
芸術家は、気まぐれに成り、嫉妬深く成り、怒りっぽく成ってしまう。
芸術家は、違う分野でも、他人の功績に並ばれる事を認められなく成ってしまう。
芸術家は、不正な人に成ってしまい、思いやりを失ってしまう。
本当に大いなる人は、俗世で成功すると自分を見失う運命から逃れるために、また、俗世で成功すると自分を見失い(肉欲からの)自由が死んでしまうと知って、友人関係などから独立する。
大いなる人は、誇りある不人気によって、下劣な大衆による汚染から身を守る。
もしバルザックが存命中に徒党を組んでいたら、死後、現代の偉大な世界的な天才としての名声を残せなかったであろう。
光は、無情なものや閉ざされた目を照らさないか、少なくとも、見る者のためにのみ、無情なものや閉ざされた目を照らすだけである。
創世記1章3節の神の言葉「光あれ!」は、闇に勝利した知性の叫びである。
実際、「光あれ!」という言葉は、気高い。
なぜなら、「光あれ!」という言葉は、この世の最も大いなるもの、最も不思議なものである、知性による知性自身の創造を簡潔に表す。
知性の力を集結して、知性の能力をつり合わせて、知性は「私、知性は、永遠の真理を見る事によって、永遠に成る事を望む」と話している。
創世記1章3節「神が『光あれ!』と話すと光が創造された」
光は、神の様に永遠であるが、見るために開かれた目には、毎日、新たに創造されている様に見える。
真理は、永遠の創造であり、知の創造である。
真理が「光あれ!」と叫ぶと、光が創造されて、知も創造された。
知は永遠である。
なぜなら、知は、「光が永遠である」と理解できるからである。
知は、自分の作品であるかの様に、真理を観察する。
なぜなら、知は、光の勝利者である。
永遠性は、知による光への勝利である。
なぜなら、永遠性は、知の勝利への報いであり、知の勝利の王冠である。
しかし、全ての精神が真理を正しく見るわけではない。
なぜなら、全ての心が真理を正しく望むわけではない。
真の光が存在するのは都合が悪いと思う悪人の魂が存在する。
悪人は、星の光によるリンの様な青白い光を放つ幻覚、星の光による失敗作、思考による幻覚で満足してしまう。
悪人は、幻覚を好んでしまい、幻覚を追い払う日光を恐れてしまう。
なぜなら、日光が悪人の目の役に立たないで、悪人をより深い闇に陥れる、と悪人は感じてしまう。
そのため、狂人や愚者は、賢者を最初は恐れるが、それから賢者を中傷し、侮辱し、困らせ、非難する。
人は、狂人や愚者をあわれんで許す必要が有る。
なぜなら、狂人や愚者は、自分が行っている事を分かっていない。
真の光は、魂を安息させて満足させる。
幻覚は、魂を疲れさせて苦しめる。
狂気の満足は飢えた人の美食の夢に似ていて、美食の夢は飢えを常に満たす事無く飢えた人の飢えを活発にさせる。
狂気の満足が、苛立ちと心配、失望と絶望をもたらす。
ゲーテの小説「若きウェルテルの悩み」の話の中の自殺した架空の人物ウェルテルの感化を受けた人は、「常に命は嘘をついている。だから、私は死にたい!」と話す。
貧弱で杜撰な幼子よ、あなたに必要なのは死ではなく、命、真の人生である。
なぜなら、あなたは、この世に生まれた時から、毎日、死んでいる様なものである。
あなたは、快楽が消滅してしまう事への救いを、消滅する快楽から求めるのか?
命、人生が人をだました事は無く、人が未だに本当に生きた事が無いだけである。
あなたが命、人生と誤解している物は、死ぬ前の幻覚や夢でしかない。
全ての大いなる罪人は、故意に、自身に幻覚を見せている。
故意に、自身に幻覚を見せている人は、必然的に、大いなる罪人に成るかもしれない。
人の支配的な感情は、人の個人的な星の光を特化し、放射し、決定し、人の天国の種か地獄の種と成る。
(ある意味、)各人は、善い天使か、悪の使者を、受胎し、産み、育てている。
真理を受胎すると、善い霊を人の中に産み出す事に成る。
故意の虚偽や嘘は、夢魔や悪霊を産んで育てる事に成る。
全ての人は、自分の子を必ず育てる事に成る。
人は、命、人生を、思考のために使う。
自分の魂を新たに創造して魂の永遠性を再発見した人は幸いである!
虚偽や嘘と死を育てる事に自身を浪費した人には災いが有る!
なぜなら、全ての人は自分がまいた種の結果を刈り入れる事に成る。
不安や混乱の感化を与えてしまう、会話で有害な感化を与えてしまう、落ち着かないで苦しんでいる人が何人か存在する。
落ち着かないで苦しんでいる人がいると、人は苛立ちを感じてしまう。
落ち着かないで苦しんでいる人から離れても、人は怒りを感じたままに成ってしまう。
しかし、倒錯を秘めている人は、不安や混乱を感じるために、落ち着かないで苦しんでいる人を探し求めて、落ち着かないで苦しんでいる人がもたらす悪感情を楽しむ。
倒錯している人は、倒錯した精神という伝染病を患っている。
常に、倒錯している人には、秘めた動機として、破壊への渇望が有る。
倒錯している人の最終目的は、自殺である。
中略
絶え間無く自殺を望む事、人生や命と自然を中傷する事、毎日、死ねずに死を思い起こす事は、永遠の地獄であり、神話学的に倒錯した精神の象徴であるサタンへの罰である。
ギリシャ語で「悪魔」を意味する「Diabolos」を、正しく翻訳すると、「倒錯者」と成る。
「人は、命の肉体の快楽ですら、倫理道徳的な感覚の力によってしか、楽しむ事ができない」事は、放蕩者が気づいていない神秘である。
快楽とは、心中の調和による音楽である。
肉体の感覚は、心中の調和による音楽の、楽器に過ぎない。
堕落した魂が触れると、肉体の感覚という心中の調和による音楽の楽器は、外れた音を出してしまう。
悪人は、何も感じる事ができない。
なぜなら、悪人は、何者も愛する事ができない。
人は、愛するためには、正しく成る必要が有る。
結果的に、悪人にとっては全てのものが空虚である。
そのため、悪人には自然が不能であると誤って見えてしまう。
なぜなら、悪人は不能である。
悪人は全てのものを疑う。
なぜなら、悪人は何も知らない。
悪人は全てのものを冒涜する。
なぜなら、悪人は審美眼が無い。
悪人は堕落させるために親切にする。
悪人は酩酊するために飲む。
悪人は忘れるために眠る。
悪人は死に至る倦怠を我慢するために起きる。
悪人は、肉欲の奴隷と成るために、全ての法と義務から逃避して、毎日、生きている、と言うよりは、死んでいる。
「この世」と「あの世」の役に立たなく成った人にとっては「この世」と「あの世」は役に立たない。
星の光は、仲介するものである。人の自由な形にできる仲介するものは、人の星の体である。
人の星の体は、言い換えると、人の中に特化している星の命の一部である。
人の星の体、人の星の命の一部は、四大元素の同化と形成に役立つ。
四大元素は、人の存在に必要である。
正しい調和している意思でも、邪悪であり倒錯している意思でも、人の意思は、人の星の体に直接作用して、人の星の体を人の想像通りに形成して、人を引きつける美しさを人の星の体に与える。
人の心の奇形、人の心の醜さは、人の星の体を通じて、人の肉体の醜さをもたらす。
なぜなら、仲介するものである、人の星の体は、人の肉体という建物の内部の建設者である。
そして、人の星の体は、人の真の欲求や、思い込みといった人工的な欲求に従って、肉体を絶え間無く変える。
人の星の体は、貪欲な人の腹と顎を含む口を大きくする。
人の星の体は、けちな人の唇を薄くする。
人の星の体は、淫らな女性の目つきを恥知らずな物にする。
人の星の体は、嫉妬深い人や意地の悪い人の目つきを陰険な物にする。
人の魂の中で利己心が支配的に成ると、人の目つきは冷たく成り、人の顔つきは無慈悲な物に成り、形の調和は消え、利己心の特性の吸収や放射に応じて、手足は乾くか、太る。
自然は、人の肉体を人の魂に似た形へ変えて、肉体と魂の類推可能性を永遠に保証して、絶え間無く調整する。
心は良くないが肉体は美しい女性よ、長い間、肉体が美しいままではいられない事は確実であると思いなさい。
肉体の美しさは、徳を積んだり善行をしたりする事を条件に自然から前借りしている借金である。
徳や善行という金を用意できずに、期限を超過すると、自然という金貸しは、無慈悲に元本と利子を奪うであろう。
倒錯は、肉体のつり合いを崩して、肉体を改悪して、肉体を自壊や死に駆り立てる欲求の死に至る感化力を造り出す。
倒錯している人は、快楽が減るほど、快楽に飢える様に成る。
酩酊者には、赤ワインは、水の様に成ってしまう。
中略
倒錯した人は、逃した快楽が、長期の苛立ちと欲望に変わってしまう。
倒錯した人は、不節制が殺人的に酷く成るほど、至福が近くにある様に誤って思い込んでしまう……。
以下略
命に引き寄せる力と、死に引き寄せる力という、2つの引き寄せる力が、人のつり合いを形成している。
死に至る物、死に引き寄せる力は、人を底無しの淵に引きずり込む、めまいである。
自由とは、死に至る、死に引き寄せる力を超越する、論理的な努力である。
大罪、死に至る大罪とは、何であるか?
大罪、死に至る大罪とは、自由の放棄である。
自由の放棄とは、怠惰の法に身を委ねる事である。
不正な行為とは、不正と契約する事である。
不正は、全て、知を放棄する事に成る。
知を放棄した瞬間から、人は堕落して、自然の力に統治される事に成る。
常に、自然の力による反作用は、つり合いを取れていない全てのものを粉々にする。
悪への愛着と、意思による表立った、不正への愛着は、死にゆく意思による最低の努力である。
人が何をしても、人は、動物以上の知的存在である。
人は、(知性が邪魔をするので、)動物の様には、運命に身を委ねる事はできない。
人は、選ぶ必要が有る。
人は、愛する必要が有る。
死を愛していると自ら誤って思い込んでいる絶望した人は、愛が無い人よりも、生きている。
悪への行動力は、切り返す事によって、また、反動による逆流によって、人を善へ導いて戻す事ができるし、導いて戻すべきである。
救いようが無い不治の真の悪とは、怠惰である。
神の思いやりの(無限という)底無しの淵には、倒錯の底無しの淵が対応している。
頻繁に、神は、悪人を聖人に改心させている。
しかし、神は、中途半端な生ぬるい人や臆病者には何もしない。
神に見放されたら、人は行動する必要が有る。
さらに、自然は理解していて、人が勇気を持って命へ歩まないと、自然は人を死へ全力で動かす。
自然は、歩く意思が無い人を引きずって行く。
中略
神に逆らって侮辱する事は、信心による最低の行いである。
なぜなら、詩編115章17節で、詩編の作者は、「死んだ人は、神をたたえる事ができない、おおっ、主である神よ」と話しているが、エリファス レヴィは、大胆に補足して、「死んだ人は、神を冒涜する事ができない」と話す。
中略
常に、大いなる罪人は、多数の生ぬるい人々に対して抗議する様に成る。
中略
教会には、不祥事を起こした聖職者を裁き、非難し、罰する権利が有る。
しかし、教会には、不祥事を起こした聖職者を、絶望による乱心や、悲惨さや飢えによる誘惑に、引き渡す権利は無い。
虚無ほど恐ろしい物は無い。
仮に、虚無という概念を表す事ができて、虚無を認める事ができるのであれば、地獄は望むべき物と成ってしまうであろう。
そのため、自然は、救済策として、罪のつぐないを人に求めて強制する。
そのため、大いなるカトリック教徒ジョゼフ ド メーストル伯爵が非常に良く理解していた様に、懲罰は罪を清める。
そのため、死刑は、自然な権利であり、人の法から消えないであろう。
もし神が死刑を正しい物としなければ、殺人という汚れは、消す事ができないであろう。
死刑という神聖な権利を、社会が放棄すると、また、犯罪者が奪って不正利用すると、議論の余地無く、死刑の権利は、犯罪者の物に成ってしまうであろう。
死刑の権利が犯罪者の物に成ってしまったら、激しい自然な報復行為として、殺人は善行に成ってしまうであろう。
死刑の権利が犯罪者の物に成ってしまったら、人は、私刑による報復によって、公の罪のつぐないが無い事に対して抗議するであろう。
死刑の権利が犯罪者の物に成ってしまったら、壊れた正義の剣の欠片から、無秩序は、短剣をつくるであろう。
ある日、ある善良な祭司が「もし神が地獄(という状態)を無くしたら、人は、神に反抗して、新たな地獄を創造するであろう」と話したのは、正しい。
そのため、悪人は、地獄が無く成る事を望むのである。
全ての悪人は、「解放!」と叫ぶ。
悪人は、死刑の廃止による、殺人の解放を求める。
悪人は、結婚の廃止による、娼婦と子殺しの解放を求める。
悪人は、所有権の廃止による、怠惰と強奪の解放を求める。
悪人が「人生の廃止による、死の解放、自殺の解放!」という最後の隠された言葉に辿り着くまで、倒錯という竜巻は回転する。
労苦による勝利によって、人は、悲しみの運命から脱出できる。
人が死と呼んでいる物は、自然の永遠の出産でしかない。
絶え間無く、自然は、霊によって生まれ変わらなかった人の魂を、再び、引き寄せて懐へ取り込む。
(ヨハネによる福音3章「人は、霊によって生まれ変わらなければ、神の王国に入れない」)
自力で動かない、物質は、永久機関の力によってのみ、存在できる。
自然に気化し易い、霊は、固定される事によってのみ、存続できる。
ヨハネによる福音3章に記されている「霊によって生まれ(変わ)る」とは、人が自由意思によって精神を真理と善と一致させて運命の法から解放される事である。
自然が、霊によって生まれ変わらなかった人の魂を再び引き寄せて懐へ永遠に取り込んでいる状態が、人にとっての、ヨハネの黙示録2章11節の「第2の死」である。
(肉欲の)奴隷である人は、死に至る引力によって、ヨハネの黙示録2章11節の「第2の死」へ引きずり込まれる。
神の様な画家ミケランジェロが「最後の審判」という大いなる絵画で明らかにして見せた様に、悪人は互いに足を引っ張り合う。
悪人は、溺れている人の様に、まとわりつき合い、しっかり掴んで離さない。
(肉欲から)自由に成った霊は、昇天を邪魔されない様に、地獄に引きずり込まれない様に、力強く、悪人と戦う必要が有る。
2つの正反対のものの戦いは、創世から存在している。
古代ギリシャ人は、2つの正反対のものの戦いを、エロスとアンテロスの対立という象徴で表した。
古代ヘブライ人は、2つの正反対のものの戦いを、アベルとカインの対立という象徴で表した。
古代ギリシャ人は、2つの正反対のものの戦いを、巨人ティターン族と神々の戦いという象徴で表した。
2つの軍団は、遍在し、目に見えず、練り上げられ、攻撃や反撃の用意が常に出来ている。
中略
秩序と無秩序の必然的な戦い、先天的な物である肉欲と思考の必然的な戦いだけが、真実であり、重要である。
秩序と無秩序の戦い、肉欲と思考の戦いは、進歩する、つり合いをもたらす。
そのため、常に、悪人の霊は、知らないで、天使ミカエルの栄光の役に立つ事に成る。
肉欲の愛着は、死に至る肉欲のうち、最も倒錯的である。
肉欲の愛着は、無政府主義者の中の無政府主義者、悪魔の無政府主義者である。
肉欲の愛着は、法、義務、真理、正義を知らない。
肉欲の愛着は、処女に父と母の死体を踏みにじらせる事ができてしまう。
肉欲の愛着は、抑制し難い酩酊である。
肉欲の愛着は、激しい狂気である。
肉欲の愛着は、新しい餌食を探し求める、死に至る、めまいである。
肉欲の愛着は、より多くの幼子を食い物にするために父に成る事を望む、サトゥルヌスによる、人を食い物にする酩酊である。
性欲を圧倒する事は、自然の全てを圧倒する事に成る。
性欲を正義に従わせる事は、性欲を不死にささげて、命を生まれ変わらせる事に成る。
キリスト教の啓示の最大の功績は、性欲を正義に従わせる事による、自発的な処女性の創造と、結婚の神聖化である。
愛着が肉欲や享楽でしかない間は、愛着は死に至る。
愛を永遠にするためには、愛は、自己犠牲と成る必要が有る。
なぜなら、愛が自己犠牲と成った時、愛は、力や徳に成る。
愛は、世界のつり合いをもたらす、エロスとアンテロスの戦いである。
感覚を刺激し過ぎるものは、全て、人を堕落や悪事や犯罪に導いてしまう。
涙は、人を血に呼び寄せる。
大きな感情は、強い酒の様な物である。
感情を習慣的に利用する事は、感情を濫用する事に成る。
感情の濫用は、全て、倫理道徳的な感覚を倒錯させてしまう。
感情の濫用者は、感情のために感情を求める様に成ってしまう。
感情の濫用者は、感情を手に入れるために、全てのものを犠牲にする様に成ってしまう。
夢見がちな感情の濫用者の女性は、中央刑事裁判所オールド ベイリーの女主人公である犯罪者に容易に成ってしまうであろう。
夢見がちな感情の濫用者の女性は、死ぬ自分を見て自画自賛するために、また、死ぬ自分を見て自身をあわれむために、自殺という嘆かわしい取り返しのつかない非論理的な愚行にまで行き着いてしまうかもしれない。
夢見る習慣、妄想癖は、女性を病的興奮に導いてしまい、男性を憂鬱に導いてしまう。
中略
倫理道徳的な感覚の喪失は、真の狂気である。
第一に、正義に従わない人は、自分を見失っている。
正義に従わない人は、自分の存在という闇夜の中を、正義という明かり無しで歩いている様なものである。
正義に従わない人は、自分の生き方という闇夜の中を、正義という明かり無しで歩いている様なものである。
人は、夢の中の人の様に動揺して、自分の肉欲という悪夢に食い物にされてしまう。
先天的な命である肉欲と、人の意思の弱い抵抗という、2つの激しい流れが、対照的な対立を形成するので、カバリストは複数の魂による超胎児形成を仮定した。
言い換えると、カバリストは、肉体を獲得しようと互いに争い合って、多くの場合、肉体を破壊してしまう、複数の魂が1つの肉体に存在する事を信じた。
正に、1816年のフランスの難破船メデューズ号の船員が、小さな筏を獲得しようと争い合って、筏を沈ませてしまった、様に。
正義に従わない人は、先天的な物である肉欲による星の光の流れか、思考による星の光の流れの下僕に自ら成り下がって、自分の人格や個性を放棄してしまい、マルコによる福音5章で「軍団」を名乗っている多数の悪人の霊の奴隷に成り下がってしまうのは、確かである。
前記を、芸術家は、良く十分に経験している。
芸術家は、習慣的に普遍の光、星の光を呼び出して、気力を喪失してしまう。
芸術家は、霊媒師と成ってしまう。
言い換えると、芸術家は、病人と成ってしまう。
より多くの成功が世論において芸術家を誇張するほど、芸術家の人格や個性は弱く成ってしまう。
芸術家は、気まぐれに成り、嫉妬深く成り、怒りっぽく成ってしまう。
芸術家は、違う分野でも、他人の功績に並ばれる事を認められなく成ってしまう。
芸術家は、不正な人に成ってしまい、思いやりを失ってしまう。
本当に大いなる人は、俗世で成功すると自分を見失う運命から逃れるために、また、俗世で成功すると自分を見失い(肉欲からの)自由が死んでしまうと知って、友人関係などから独立する。
大いなる人は、誇りある不人気によって、下劣な大衆による汚染から身を守る。
もしバルザックが存命中に徒党を組んでいたら、死後、現代の偉大な世界的な天才としての名声を残せなかったであろう。
光は、無情なものや閉ざされた目を照らさないか、少なくとも、見る者のためにのみ、無情なものや閉ざされた目を照らすだけである。
創世記1章3節の神の言葉「光あれ!」は、闇に勝利した知性の叫びである。
実際、「光あれ!」という言葉は、気高い。
なぜなら、「光あれ!」という言葉は、この世の最も大いなるもの、最も不思議なものである、知性による知性自身の創造を簡潔に表す。
知性の力を集結して、知性の能力をつり合わせて、知性は「私、知性は、永遠の真理を見る事によって、永遠に成る事を望む」と話している。
創世記1章3節「神が『光あれ!』と話すと光が創造された」
光は、神の様に永遠であるが、見るために開かれた目には、毎日、新たに創造されている様に見える。
真理は、永遠の創造であり、知の創造である。
真理が「光あれ!」と叫ぶと、光が創造されて、知も創造された。
知は永遠である。
なぜなら、知は、「光が永遠である」と理解できるからである。
知は、自分の作品であるかの様に、真理を観察する。
なぜなら、知は、光の勝利者である。
永遠性は、知による光への勝利である。
なぜなら、永遠性は、知の勝利への報いであり、知の勝利の王冠である。
しかし、全ての精神が真理を正しく見るわけではない。
なぜなら、全ての心が真理を正しく望むわけではない。
真の光が存在するのは都合が悪いと思う悪人の魂が存在する。
悪人は、星の光によるリンの様な青白い光を放つ幻覚、星の光による失敗作、思考による幻覚で満足してしまう。
悪人は、幻覚を好んでしまい、幻覚を追い払う日光を恐れてしまう。
なぜなら、日光が悪人の目の役に立たないで、悪人をより深い闇に陥れる、と悪人は感じてしまう。
そのため、狂人や愚者は、賢者を最初は恐れるが、それから賢者を中傷し、侮辱し、困らせ、非難する。
人は、狂人や愚者をあわれんで許す必要が有る。
なぜなら、狂人や愚者は、自分が行っている事を分かっていない。
真の光は、魂を安息させて満足させる。
幻覚は、魂を疲れさせて苦しめる。
狂気の満足は飢えた人の美食の夢に似ていて、美食の夢は飢えを常に満たす事無く飢えた人の飢えを活発にさせる。
狂気の満足が、苛立ちと心配、失望と絶望をもたらす。
ゲーテの小説「若きウェルテルの悩み」の話の中の自殺した架空の人物ウェルテルの感化を受けた人は、「常に命は嘘をついている。だから、私は死にたい!」と話す。
貧弱で杜撰な幼子よ、あなたに必要なのは死ではなく、命、真の人生である。
なぜなら、あなたは、この世に生まれた時から、毎日、死んでいる様なものである。
あなたは、快楽が消滅してしまう事への救いを、消滅する快楽から求めるのか?
命、人生が人をだました事は無く、人が未だに本当に生きた事が無いだけである。
あなたが命、人生と誤解している物は、死ぬ前の幻覚や夢でしかない。
全ての大いなる罪人は、故意に、自身に幻覚を見せている。
故意に、自身に幻覚を見せている人は、必然的に、大いなる罪人に成るかもしれない。
人の支配的な感情は、人の個人的な星の光を特化し、放射し、決定し、人の天国の種か地獄の種と成る。
(ある意味、)各人は、善い天使か、悪の使者を、受胎し、産み、育てている。
真理を受胎すると、善い霊を人の中に産み出す事に成る。
故意の虚偽や嘘は、夢魔や悪霊を産んで育てる事に成る。
全ての人は、自分の子を必ず育てる事に成る。
人は、命、人生を、思考のために使う。
自分の魂を新たに創造して魂の永遠性を再発見した人は幸いである!
虚偽や嘘と死を育てる事に自身を浪費した人には災いが有る!
なぜなら、全ての人は自分がまいた種の結果を刈り入れる事に成る。
不安や混乱の感化を与えてしまう、会話で有害な感化を与えてしまう、落ち着かないで苦しんでいる人が何人か存在する。
落ち着かないで苦しんでいる人がいると、人は苛立ちを感じてしまう。
落ち着かないで苦しんでいる人から離れても、人は怒りを感じたままに成ってしまう。
しかし、倒錯を秘めている人は、不安や混乱を感じるために、落ち着かないで苦しんでいる人を探し求めて、落ち着かないで苦しんでいる人がもたらす悪感情を楽しむ。
倒錯している人は、倒錯した精神という伝染病を患っている。
常に、倒錯している人には、秘めた動機として、破壊への渇望が有る。
倒錯している人の最終目的は、自殺である。
中略
絶え間無く自殺を望む事、人生や命と自然を中傷する事、毎日、死ねずに死を思い起こす事は、永遠の地獄であり、神話学的に倒錯した精神の象徴であるサタンへの罰である。
ギリシャ語で「悪魔」を意味する「Diabolos」を、正しく翻訳すると、「倒錯者」と成る。
「人は、命の肉体の快楽ですら、倫理道徳的な感覚の力によってしか、楽しむ事ができない」事は、放蕩者が気づいていない神秘である。
快楽とは、心中の調和による音楽である。
肉体の感覚は、心中の調和による音楽の、楽器に過ぎない。
堕落した魂が触れると、肉体の感覚という心中の調和による音楽の楽器は、外れた音を出してしまう。
悪人は、何も感じる事ができない。
なぜなら、悪人は、何者も愛する事ができない。
人は、愛するためには、正しく成る必要が有る。
結果的に、悪人にとっては全てのものが空虚である。
そのため、悪人には自然が不能であると誤って見えてしまう。
なぜなら、悪人は不能である。
悪人は全てのものを疑う。
なぜなら、悪人は何も知らない。
悪人は全てのものを冒涜する。
なぜなら、悪人は審美眼が無い。
悪人は堕落させるために親切にする。
悪人は酩酊するために飲む。
悪人は忘れるために眠る。
悪人は死に至る倦怠を我慢するために起きる。
悪人は、肉欲の奴隷と成るために、全ての法と義務から逃避して、毎日、生きている、と言うよりは、死んでいる。
「この世」と「あの世」の役に立たなく成った人にとっては「この世」と「あの世」は役に立たない。
星の光は、仲介するものである。人の自由な形にできる仲介するものは、人の星の体である。
人の星の体は、言い換えると、人の中に特化している星の命の一部である。
人の星の体、人の星の命の一部は、四大元素の同化と形成に役立つ。
四大元素は、人の存在に必要である。
正しい調和している意思でも、邪悪であり倒錯している意思でも、人の意思は、人の星の体に直接作用して、人の星の体を人の想像通りに形成して、人を引きつける美しさを人の星の体に与える。
人の心の奇形、人の心の醜さは、人の星の体を通じて、人の肉体の醜さをもたらす。
なぜなら、仲介するものである、人の星の体は、人の肉体という建物の内部の建設者である。
そして、人の星の体は、人の真の欲求や、思い込みといった人工的な欲求に従って、肉体を絶え間無く変える。
人の星の体は、貪欲な人の腹と顎を含む口を大きくする。
人の星の体は、けちな人の唇を薄くする。
人の星の体は、淫らな女性の目つきを恥知らずな物にする。
人の星の体は、嫉妬深い人や意地の悪い人の目つきを陰険な物にする。
人の魂の中で利己心が支配的に成ると、人の目つきは冷たく成り、人の顔つきは無慈悲な物に成り、形の調和は消え、利己心の特性の吸収や放射に応じて、手足は乾くか、太る。
自然は、人の肉体を人の魂に似た形へ変えて、肉体と魂の類推可能性を永遠に保証して、絶え間無く調整する。
心は良くないが肉体は美しい女性よ、長い間、肉体が美しいままではいられない事は確実であると思いなさい。
肉体の美しさは、徳を積んだり善行をしたりする事を条件に自然から前借りしている借金である。
徳や善行という金を用意できずに、期限を超過すると、自然という金貸しは、無慈悲に元本と利子を奪うであろう。
倒錯は、肉体のつり合いを崩して、肉体を改悪して、肉体を自壊や死に駆り立てる欲求の死に至る感化力を造り出す。
倒錯している人は、快楽が減るほど、快楽に飢える様に成る。
酩酊者には、赤ワインは、水の様に成ってしまう。
中略
倒錯した人は、逃した快楽が、長期の苛立ちと欲望に変わってしまう。
倒錯した人は、不節制が殺人的に酷く成るほど、至福が近くにある様に誤って思い込んでしまう……。
以下略
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
本能寺からの決死の脱出 ~尾張の大うつけ 織田信長 天下を統一す~
bekichi
歴史・時代
戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち
ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。
クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる