高等魔術の教理

エリファス1810

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 アレフ
 A
 修行者
 修行
 普遍
 王冠

 哲学者デカルトが人の知の新しい啓示のための基礎として「私は思考する。だから、私は存在する」という原理を選んだ時に、キリスト教の啓示の立場から、多かれ少なかれ、哲学者デカルトは知らないで無上の存在、神の古い概念を変えた。
 出エジプト記3章14節でאהיה אשר אהיה、AHIH AShR AHIH、エヘイエ アシェル エヘイエと存在の中の存在、神はモーセにヘブライ語で名乗った。
 ヘブライ語でאהיה、AHIH、エヘイエは「存在する」という意味の1人称の動詞である。
 出エジプト記3章14節で存在の中の存在、神は「私は存在する。だから、何ものかである、私、神が存在する」、「私は存在したい様に存在する者である」、「私は存在の中の存在である」、「私は本物の存在である」、「私は幻ではない存在である」とモーセに名乗った。
 哲学者デカルトの人は「私は思考する様に存在する者である」と話す。
 思考する事は心の中で話す事である。
 思考は心の中の言葉である。
 神の様に哲学者デカルトの人は「私は私の中で私によって存在する者である」と話す。
ヨハネによる福音1章1節「神の言葉は神である」
 ヨハネによる福音1章1節の神の様に哲学者デカルトの人は「私は言葉が表す所の者である」と話す。
ヨハネによる福音1章1節「最初から神の言葉は存在している」
 最初とは何か?
 原理とは何か?
 原理とは話す基礎である。
 原理とは言葉の基礎である。
 原理とは言葉が存在するための論理である。
 言葉の存在は原理の中に存在する。
 原理とは存在するものである。
 知とは話す原理である。
 知の光とは何か?
 知の光とは話す事である。
 知の光とは言葉である。
 啓蒙とは何か?
 啓示とは何か?
 啓蒙とは話す事である。
 啓蒙とは言葉である。
 啓示とは話す事である。
 啓示とは言葉である。
 存在するものが原理である。
 話す事は手段である。
 言葉は手段である。
 存在の充実や開発と完成が目的である。
 話す事は創造する事である。
 しかし、「私は思考する。だから、私は存在する」は結果から原因を示している。
 大いなる著者ラムネーは「私は思考する。だから、私は存在する」が結果から原因を示している確実な矛盾を示した。
 結果から原因を示している確実な矛盾は「私は思考する。だから、私は存在する」という方法の哲学的な欠陥を十分に証明している。
「私は存在する。だから、何ものかが存在する」
 「私は存在する。だから、何ものかが存在する」は経験的な哲学のための、より基本的な簡潔な基礎に思われる。
「私は存在する。だから、存在が存在する」
「私は存在する。だから、存在、神が存在する」
 出エジプト記3章14節で神は「私は存在する。だから、何ものかである、私、神が存在する」、「私は存在したい様に存在する者である」、「私は存在の中の存在である」、「私は本物の存在である」、「私は幻ではない存在である」とモーセに名乗った。
 「私は存在する。だから、何ものかである、私、神が存在する」は人の中の神の無上の啓示である。
 「私は存在する。だから、何ものかである、私、神が存在する」は世界の中の人の無上の啓示である。
 「私は存在する。だから、何ものかである、私、神が存在する」は隠された哲学の無上の原理である。
 出エジプト記3章14節で神は「私は存在する。だから、何ものかである、私、神が存在する」、「私は存在したい様に存在する者である」、「私は存在の中の存在である」、「私は本物の存在である」、「私は幻ではない存在である」とモーセに名乗った。
「存在は存在である」
「存在は存在する」
「存在性は存在性である」
「ある存在は別の存在と存在性が同じである」
「ある存在と別の存在は存在するという意味で同じである」
「神は存在する」
 「私は存在する。だから、何ものかである、私、神が存在する」を原理とする隠された哲学には仮定や根拠の無い推測が無い。
 メルクリウス トリスメギストスのエメラルド板の最初は三重の断言である。
 (トリスメギストスは「三重に大いなる」を意味する。)

「後記は事実である。
後記は誤りが無く確実である。
後記は真理の中の真理である」

 物理学で、経験によって確認された事実。
 自然科学で、経験によって確認された事実。

 哲学で、誤りの全ての不純物を取り除いた確実性。

 宗教や無限、神の領域で、類推によって示された絶対の真理。
 神の教えで、類推によって示された絶対の真理。

 自然科学の事実、哲学の確実、神の教えの真理が本物の学問には最初に必要である。
 魔術だけが自然科学の事実、哲学の確実、神の教えの真理を達道者に与えられる。
 しかし、最初に、本書を手にとり読むつもりである、あなたは何者か?
 古代ギリシャ人が光の神アポロンにささげたデルポイ神殿の入り口には「あなた自身を知れ」と記されていた。
 本物の学問に近づこうと試みる全ての人に自身を知る様にすすめる。
 魔術、古代人が「神の王国」と呼んでいたものは王者と祭司のためだけに存在する。
 あなたは祭司か?
 あなたは王者か?
 魔術の祭司は大衆の聖職者ではない。(祭司は金銭をかせぐための職業ではない。)
 魔術の王者は俗世の権力者と競合しない。
 本物の学問の王者は真理の祭司である。
 本物の王者の力は大衆には隠されている。
 本物の祭司の祈りと犠牲が大衆には隠されている様に。
 ヨハネによる福音8章32節で祖の中で最も力が大きな者イエスが「あなたが真理を知れば、真理はあなたを自由にする」と明確に約束している様に、本物の学問の王者は真理を知り真理が自由にした者である。
 肉欲の奴隷である大衆、俗世の先入観の奴隷である大衆は秘伝伝授者には成れない。
 大衆は変わる必要が有る。
 さもなければ、大衆は到達できない。
 大衆は達道者にはなれない。
 達道者という言葉は意思と行動によって真理に到達した者を意味する。
 誤った自説に執着する大衆、誤った自説を手放す事を恐れる大衆、新しい真理を疑う大衆、根拠無しに全てのものを認めるよりも全てのものを疑う用意が無い大衆は本書を閉じるべきである。
 大衆には本書は無用か危険である。
 大衆には本書は理解できない。
 本書は大衆を苦悩させるであろう。
 もし大衆が本書の意味を推測しても、本書はより大きな不安の種と成るであろう。
 もし、あなたが論理、真理、正義より俗世の何ものかにとらわれるならば、
もし、あなたは善と悪の間で不確かに揺れ動くならば、
もし論理があなたを不安にさせるならば、
もし、ありのままの真理があなたに恥をかかせるならば、
もし誤りを認めた時にあなたが傷つくならば、
本書をすぐに捨てなさい。
 本書を読むなかれ。
 あなたには本書が存在しないようにふるまいなさい。
 しかし、本書を危険なものであると叫ぶなかれ。
 選ばれた少数の者は本書に記されている秘密を理解するであろう。
 秘密を理解した者は秘密を隠すであろう。
 夜の鳥に光を見せると、夜の鳥から光を隠してしまう事に成る。
 光は夜の鳥を盲目にしてしまう。
 夜の鳥には光は闇より暗く成ってしまう。
 エリファス レヴィは明らかに話すつもりである。
 エリファス レヴィは全てのものを知らせるつもりである。
 秘伝伝授者または秘伝を伝授されるにふさわしい者だけが本書の全てを読み部分的に理解するであろう。
 本物の学問と偽物の学問が存在する。
 神の聖霊の魔術と地獄の悪人の霊の魔術が存在する。
 言い換えると、悪人の霊の魔術は妄想と陰気の魔術である。
 神の聖霊の魔術を明らかにし悪人の霊の魔術の化けの皮をはがす事が神の聖霊の魔術師の務めである。
 神の聖霊の魔術師と悪人の霊の魔術師を区別する事が神の聖霊の魔術師の務めである。
 達道者と詐欺師を区別する事が神の聖霊の魔術師の務めである。
 神の聖霊の魔術師は知っている力を応用する。
 悪人の霊の魔術師は理解していない力を濫用しようと試みる。
 学問的な本書で非常に通俗的な非常に疑わしい言葉を用いる事が可能であれば、悪魔は神の聖霊の魔術師に身を委ねる。
 悪人の霊の魔術師は悪魔に身を委ねる。
 神の聖霊の魔術師は自然の法王である。
 悪人の霊の魔術師は自然への冒涜者に過ぎない。
 悪人の霊の魔術師と神の聖霊の魔術師の関係は、迷信家、狂信者と本物の信心深い者の関係に似ている。
 (
 悪人の霊の魔術師は迷信家、狂信者である。
 神の聖霊の魔術師は本物の信心深い者である。
 )
 さらに進む前に、魔術という言葉を簡潔に定義しよう。
 魔術はマギが口伝した自然の秘密についての知である。
 口伝の知によって達道者は全能である神の眷属と成り超人的な力をふるえる。
 口伝の知によって、超人的な力によって、多数の高名な秘儀祭司、メルクリウス トリスメギストス、オシリス、オルフェウス、ティアナのアポロニウス、名前を口にするのは危険で賢明ではない者たちは死後、神々として敬礼された。
 口伝の知によって、超人的な力によって、運の気まぐれによる世論の浮き沈みによって、ユリアヌス帝、誘惑者マーリン、生前大いなる悪人の霊の魔術師と呼ばれた高名な不運なコルネリウス アグリッパたちは、地獄の使いや詐欺師と呼ばれた。
 神の王国に到達するには、言い換えると、マギの知と力に到達するには、4つの条件が必要である。
 学によって光に照らされた知。
 何ものにも止められない大胆さ。
 何ものにも止められない意思。
 何ものにも堕落させられない何ものにも夢中に成らない慎重さ。
 知、大胆さ、意思、沈黙。
 知る、大胆に行う、思う、沈黙を守る。
 知るために考える、大胆に行う、思う、沈黙を守る。
 知、大胆さ、意思、沈黙は魔術師の4つの言葉である。
 牛の腹、人の頭、ライオンの爪、ワシの翼というスフィンクスの4つの象徴的な形は知、大胆さ、意思、沈黙を表す。
 知、大胆さ、意思、沈黙という4つの言葉の各々は、タロットの棒、杯、剣、輪の各々と4通りに組み合わせる事ができて、4通りに相互に説明し合う事ができる。※タロット カードを参照してください。
 ヘルメスの書タロットの最初のページには達道者が描かれている。
 ヘルメスの書タロットの最初のページには魔術師が描かれている。
 魔術師は大きなぼうしをかぶっている。
 ぼうしを下げたら、頭全てを隠すであろう。
 魔術師は左手に杖を持ち天へ向けて伸ばしている。
 魔術師は杖で命令している様に見える。
 魔術師は右手を胸の上に置いている。
 魔術師は主な象徴または自然科学の道具を前に置いている。
 魔術師は残りを手品師の袋の中に隠している。
 魔術師の胴体と両腕は文字アレフ(א)の形をしている。
 文字アレフはヘブライ文字のアルファベットの最初の文字である。
 ヘブライ人はアルファベットの最初の文字をエジプト人から取り入れた。
 文字アレフについて後で話すつもりである。
 魔術師はヘブライ人のカバリストがミクロ プロソプス、小さな顔と呼んでいるものである。
 (
 魔術師は神の人としての顔である。
 魔術師は神の人性である。
 )
 魔術師は小世界の創造主である。
 魔術師は人の創造主である。
 魔術師は自身の創造主である。
 全ての魔術の知の最初は自身を知る事である。
 自身の創造は知の全ての務めの最初である。
 自身の創造は他の全てを含んでいる。
 自身の創造は「大いなる務め」の基本である。
 しかし、自身の創造という言葉は説明が必要である。
 無上の論理は唯一、不変、不壊の原理である。
 人が死と呼んでいるものは変化である。
 不変の原理に近づき一体化する知は不変、不死と成る。
 不変の論理に近づき一体化するには、死に至る原因から結果への必然である変化によって、死に至る命か死をもたらす、全ての変化する死に至る力からの独立へ到達する事が必要であると理解できるであろう。
 どのように耐え我慢し死ぬべきか知る事。
 どのように耐え我慢し死ぬべきか知る事は、苦痛、肉欲、消滅の恐怖を超越する無上の秘訣である。
 栄光の死を探求し見つけた者は不死を確信する。
 不死を確信する者と共に、不死を確信する者のために、普遍の人々は不死を確信する。
 不死を確信する者の記念として、永遠の命の記念として、普遍の人々は祭壇と像を立てる。
 獣を和らげる事によってのみ、人は獣の王者と成れる。
 獣を和らげなければ、人は獣の犠牲または奴隷と成るであろう。
 獣は人の肉欲の例えである。
 肉欲は自然の先天性の力である。
 世界は戦場である。
 世界は自由が自発的な力の抵抗によって無気力と戦う戦場である。
 自然の法は石うすである。
 あなたが石うすでつぶす者に成れなければ、石うすにつぶされるものに成るであろう。
 あなたは地水火風の王者と成る様に求められている。
 あなたは四大元素の王者と成る様に求められている。
 しかし、四大元素の例えである4つの獣の主と成るには、四大元素の例えである4つの獣を圧倒し鎖につなぐ必要が有る。
 賢者に成りたい者、自然の大いなる謎を知りたい者は、スフィンクスの継承者、略奪者に成る必要が有る。
 スフィンクスの人の頭は話す力を保有している。
 スフィンクスの人の頭は言葉の力を保有している。
 スフィンクスのワシの翼は高みを類推する。
 スフィンクスの牛の腹は深みを掘る。
 スフィンクスのライオンの爪は縦横無尽に道を切り開く。
 入門したいあなた、あなたはファウストの様に哲学、神学、宗教、魔術の文書を乱読して学が有るか?
 あなたはヨブの様に無感覚なほどに忍耐強いか?
 そうではない?
 しかし、もしあなたが入門するつもりであれば、ファウストとヨブの様に成るであろう。
 あなたは雑念の渦を乗り越えたか?
 あなたは優柔不断では無いか?
 あなたは気まぐれでは無いか?
 あなたは快楽を望むべき時だけに快楽を望むか?
 そうではない?
 常にそうではない?
 しかし、もしあなたが入門するつもりであれば、そうなるであろう。
 スフィンクスは男性の頭だけではなく女性の胸を持っている。
 あなたはどのように女性の魅力に抵抗するべきか知っているか?
 そうではない?
 あなたは赤裸々に笑いものにして、徳における欠点を、自然の命の力として美化して、自慢するかもしれない。
 そうすれば良い。
 敬意をスターンのロバやアプレイウスのロバにささげる。
 ロバには長所が有る。
 同意しよう。
 男性器の神プリアポスは敬礼された。
 ヤギはメンデスで神の生殖力の象徴であった。
 しかし、ロバが主と成るべきか、人が主と成るべきか決めよう。
 快楽への執着を克服した者だけが愛の快楽を本当に保有できる。
 力が有り我慢する力が有る者は2倍の力を持つ者である。
 男性の欲望によって女性は男性を鎖につなぐ。
 欲望を和らげられる男性は女性を鎖につなぐであろう。
 人への最大の侮辱は人を臆病者と呼ぶ事である。
 臆病者とはどのような者か?
 自然の先天性の力である肉欲に盲目的に従うために、徳の尊重を放棄する者が臆病者である。
 実に、危険を前にして恐れ逃げようとする事は自然な事である。
 では、なぜ危険を前にして恐れ逃げようとする事は恥に成るのか?
 なぜなら、栄誉は自然な傾向や恐怖より義務を優先する事を法としているからである。
 前記の観点から、栄誉とは何か?
 栄誉とは不死の普遍的な予感と不死に至る方法の認識である。
 人が死から勝ち取る事ができる最後の戦勝記念品は、あきらめや絶望によってではなく、高められた希望によって、肉体の命への欲望に勝利する事である。
 希望は信心に含まれている。
 なぜなら、世界中の人々の完全な同意による、高貴な誠実な全てのものが、希望、信心だからである。
 自身の克服を学ぶ事は永遠の命を学ぶ事である。
 禁欲生活は自由のむなしい誇示ではなかった!
 自然の力である肉欲に従う事は死に至る命の集団の流れに従う事である。
 (
 マルコによる福音5章9節 悪人の霊はレギオン、軍団と名乗った。
 軍団は集団である。
 )
 肉欲に従う事は二次的な原因の奴隷に成る事である。
 自然である肉欲に抵抗し和らげる事は自身を創造する事である。
 肉欲に抵抗し和らげる事は個人的な不壊の命を創造する事である。
 肉欲に抵抗し和らげる事は、死に至る命の移り変わりと死から自由に成る事である。
 真理と正義をあきらめるくらいなら死ぬ用意が有る者は最も本当に生きている。
 なぜなら、真理と正義をあきらめるくらいなら死ぬ用意が有る者の魂に不死は宿っている。
 真理と正義をあきらめるくらいなら死ぬ用意が有る者を見つける、または、形成する事が全ての古代の入門の目的であった。
 ピタゴラスは数年の沈黙と全ての種類の克己を学徒に修行させた。
 エジプトの修行者は四大元素の試練を受けた。
 インドの苦行僧と祭司バラモンは禁欲生活を自ら行った。
 古代の修行者は自由意思と神の独立の王国に到達するために修行した。
 古代の神秘の入門が全ての禁欲、苦行、断食による衰弱をもたらした。
 本物の修行者は姿を隠した。
 なぜなら、入門にふさわしい修行者は祖師を見つけられなく成ったからである。
 宗教の指導者は時が経つにつれて大衆と同じく無知に成ってしまったからである。
 盲人は盲人に導かれる事にあきた。
 誰も疑いと失望に至るだけの試練を受ける気が無く成った。
 光への経路は失われた。
 何かを成し遂げるには、成し遂げようとしているものを知っているか、少なくとも成し遂げようとしているものを知っている何者かを信じる必要が有る。
 しかし、根拠無しに命をかけるべきであろうか?
 根拠無しに自身がどこに行くかも知らない何者かに従うべきであろうか?
 軽率に超越的な学問の経路に足を踏み入れてはならない。
 しかし、一度でも超越的な学問の経路を歩み始めたら、到達するか立ち行かなくなるであろう。
 疑う事は愚者に成る事である。
 立ち止まる事は堕ちる事である。
 後退する事は深淵に身を投げる事である。
 本書の研究を試みるあなた、もしあなたが本書の研究を終わりまで貫き通し、もしあなたが本書を理解すれば、本書はあなたを王者か狂人にするであろう。
 本書を思い通りにしなさい。
 あなたは本書を見下せないであろう。
 あなたは本書を忘れられないであろう。
 もしあなたが純粋であれば、本書はあなたの光と成るであろう。
 もしあなたに力があれば、本書はあなたの腕と成るであろう。
 もしあなたが神の様な者であれば、本書はあなたの神の教えと成るであろう。
 もしあなたが賢明であれば、本書はあなたの知のものさしと成るであろう。
 しかし、もしあなたが邪悪であれば、本書は地獄の光と成るであろう。
 本書は短剣の様にあなたの胸を引き裂くであろう。
 本書は良心を痛める様にあなたの記憶と成ってあなたの心を苦しめるであろう。
 本書はキマイラの様な妄想をあなたの想像力に住まわせるであろう。
 本書はあなたを愚かさを経て絶望へ追いやるであろう。
 あなたが本書を笑いものにしようと試みても、あなたは歯ぎしりするだけに終わるであろう。
 (
 あなたが本書を笑いものにしようと試みても、あなたは自分で自分の首をしめるだけに終わるであろう。
 歯ぎしりすると、自分の歯で自分の歯を壊す事に成るので、歯ぎしりは自分で自分の首をしめる例え。
マタイによる福音8章12節「歯ぎしり」
 )
 本書は例え話で蛇がかもうと試みて全ての歯を壊した、やすりと成るであろう。
 一連の入門をしよう。
 啓蒙は言葉であると話した。
 啓示は言葉であると話した。
 実に、言葉、話す事は存在のヴェール、命の特徴、命の表れである。
 全ての形は言葉のヴェールである。
 (
 全ての形は概念のヴェールである。
 全ての形は概念の表れである。
 )
 なぜなら、概念は言葉の母である。
 概念は形の唯一の存在理由である。
 全ての形は文字である。
 全ての文字は言葉から来て言葉へ行く。
 全ての文字は言葉から出で言葉へ戻る。
 (
 全ての文字は概念から来て概念へ行く。
 全ての文字は概念から出で概念へ戻る。
 )
 前記の理由から、トリスメギストスといった古代の賢者はエメラルド板で次の様に唯一の考えを表した。

「上のものは下のものから類推可能である。
下のものは上のものから類推可能である」

 言い換えると、形は概念とつり合っている。
 光線から類推する事によって、影は本体のものさしと成る。
 さやと剣の深さは同じである。
 否定は肯定とつり合っている。
 命を守る変化において、創造と破壊はつり合っている。
 無限の空間において全ての点は空間に広がる無限大の円周を持つ円の中心であると考えられる。
 全ての個体は無限に完成可能である。
 (全ての個体は無限に向上可能である。)
 倫理道徳の法は自然科学の法から類推可能である。
 (哲学の法は自然科学の法から類推可能である。)
 哲学的に、全ての点は無限大の円に拡大できる。
 魂全体に言える事は魂の各能力に言える。
 知と意思は計り知れない力、想像力の道具である。
 知と意思は想像力の協力者、道具である。
 想像力は十分に知られていない。
 想像力の全能性は魔術の領域だけに属する。
 想像力について話している。
 カバリストは想像力を透明なものと呼んでいる。
 事実、想像力は魂の目の様なものである。
 想像力において形は描かれ蓄えられる。
 想像力によって人は見えない世界の反映を見る。
 想像力は幻視のガラスである。
 想像力は魔術の命の器官である。
 想像力の仲介によって、魔術師は病気を治す。
 魔術師は季節を変える。
 魔術師は生きている者から死を追い払う。
 魔術師は死んだ者を命へ復活させる。
 なぜなら、想像力は意思を高める。
 想像力は意思を普遍の代行者に把握させる。
 想像力は母の胎内の幼子の形を決める。
 想像力は人の運命を決める。
 想像力は翼を伝染病に与える。
 想像力は戦いの武器を導く。
 あなたが戦いにさらされたら?
 パラケルススは「アキレスの様に自身が不死身であると確信しなさい。そうすれば、あなたは不死身に成るであろう」と話している。
 恐怖は銃弾を引き寄せる。
 大胆さは銃弾をしりぞける。
 切断された無い手足の痛みを感じる幻肢痛は良く知られている。
 パラケルススは、出血した血を手術して、生きている血を治した。
 パラケルススは切った髪によって触れないで頭痛を治した。
 体の全ての部分の想像の統一性と連帯の知によって、パラケルススは全ての理論の先を越していた。
 と言うよりはむしろ、パラケルススは最も有名な催眠術師たちの全ての経験の先を越していた。
 パラケルススの治療は奇跡的であったので、「フィリップス テオフラストゥス ボンバストゥス」という本名に、「金の」を意味する「アウレオルス」と「ローマの名医ケルススを超える」を意味する「パラケルスス」という別名を加えられるのにふさわしく、さらに「神の様な者」という称号を加えられるのにふさわしかった。
 想像力は言葉の応用の道具である。
 論理に応用された想像力が才能である。
 論理は唯一である。
 作品の多様性の中で才能が唯一である様に。
 唯一の原理が存在する。
 唯一の真理が存在する。
 唯一の論理が存在する。
 唯一絶対普遍の哲学が存在する。
 存在は、最初である唯一性の中に存在して、究極である唯一性の中に戻る。
 唯一性の中に唯一性が存在する。
 存在性の中に存在性が存在する。
 全ての中に全てが存在する、と言える。
 統一性は数の原理である。
 統一性は動きの原理である。
 結果として、統一性は命の原理である。
 脳という唯一の器官の統一性の中で人の体全体が要約されている。
 「存在は存在である」、「存在は存在する」、「存在性は存在性である」、「ある存在は別の存在と存在性が同じである」、「ある存在と別の存在は存在するという意味で同じである」、「神は存在する」という存在の肯定の唯一の考えの統一性の中で全ての神の教えは要約されている。
 存在の唯一の考えの統一性が、数学の数を形成する。
 魔術には「見えるものは見えないものの表れである」という唯一の考えが存在する。
 言い換えると、正確に言うと、感覚で感知できる目に見えるものと感覚で感知できない目に見えないものはつり合っている。
 魔術師は左手を天へ向けてかかげ右手で地を指さし「上に無限。下に無限! 無限は無限である。上の無限は下の無限と等しい」と話す。
 「上に無限。下に無限! 無限は無限である。上の無限は下の無限と等しい」は見えないもので真実である様に見えるもので真実である。
 神の言葉のアルファベットであるヘブライ文字の最初の文字アレフ(א)は左手を天へ向けて伸ばし右手を地へ向けて伸ばしている人を表す。
 アレフは全てのものの中の自発的な原理を表す。
 アレフは下における言葉の全能性に対応する上における創造を表す。
 アレフは地上における言葉の全能性に対応する天における創造を表す。
 文字アレフはpantacleである。
 文字アレフは普遍の知を表す。
 文字アレフは大宇宙の神聖な象徴と小宇宙の神聖な象徴を補う。
 文字アレフは世界の神聖な象徴と人の神聖な象徴を補う。
 文字アレフはメーソンの二重の三角形と燃える五芒星を説明する。
 文字アレフは六芒星と五芒星を説明する。
 言葉は唯一である。
 啓蒙は唯一である。
 啓示は唯一である。
 神は、理性を人に与える事によって、話す力を人に与えた。
 神は、理性を人に与える事によって、言葉を人に与えた。
 啓蒙の形は多様であるが啓蒙の原理は唯一である。
 啓示の形は多様であるが啓示の原理は唯一である。
 啓蒙は全て普遍の言葉に存在する。
 啓示は全て普遍の言葉に存在する。
 普遍の言葉とは絶対の論理を説明するものである。
 カトリックは「普遍の」を意味する。
 現代の神学用語でカトリックは「誤りが無い」を意味する。
 現代の神学用語でカトリックは不可謬を意味する。
 論理で普遍なものは絶対なものである。
 絶対なものは誤りが無い。
 絶対なものは不可謬である。
 もし絶対の論理が幼子の言葉を普遍に社会に抵抗できずに信じさせれば、神の定めによって、全ての人の定めによって、幼子は誤りが無い。
 もし絶対の論理が幼子の言葉を普遍に社会に抵抗できずに信じさせれば、神の定めによって、全ての人の定めによって、幼子は不可謬である。
 確信とは、論理の普遍性と唯一性による、論理的な確信である。
 信心とは、論理の普遍性と唯一性による、論理的な確信である。
 確信とは、言葉の普遍性による、論理的な確信である。
 信心とは、言葉の普遍性による、論理的な確信である。
 確信するとは、論理が最終的に知るか少なくとも認知する事を事前に確信させる時に、未だ知らないものを確信する事である。
 「知らないものを信じない!」と叫ぶ俗に言う似非哲学者は非論理的である。
 浅はかな理論家!
 もしあなたが知っているのであれば、信じる必要が有るであろうか? いいえ! 知っているものを信じる必要は無い!
 しかし、根拠無しに信じるべきであろうか? いいえ。
 盲信、妄信は迷信、愚かである。
 知が知らせる認知させる根拠によって、論理が認知させる根拠を確信して良い。
 知!
 大いなる言葉!
 大いなる問題!
 知とは何か?
 本書の2章で解答するつもりである。
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