百合短編集

南條 綾

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25 珈琲の香りと君の微笑3 影の誤解

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  一月の終わり、雪解けの気配が少しだけ混じり始めた頃だった。クリスマスの飾りはとっくに片づけたのに、私はまだ、香織ちゃんがくれたワインレッドのマフラーを毎日のように巻いて店に出ていた。その毛糸の温かさに触れるたび、ツリーの灯りや、あの夜のキスの感触が胸の奥でゆっくり蘇る。
 カフェ「ビーンズ・ハート」のシフトは順調で、常連さんも変わらず通ってくれている。
表面だけ見れば何もかもいつも通りで、穏やかな時間が続いているように見えるのに、私の中だけ、少しずつ違う季節が始まっているような気がしていた。

でも、その「いつも通り」の中に、少しずつ違和感が混ざり始めた。
大学帰りのシフトに入る香織ちゃんのスマホが、前よりも頻繁に鳴るようになったのだ。カウンターの下で小さな振動音が響くたびに、香織ちゃんは「すみません」と小さく謝って、そっと画面をのぞき込み、すぐに伏せる。

 ある日の夕方、外は冷たい雨が降っていた。窓ガラスをつたう水滴が、街のネオンをゆらゆらと歪ませている。店内には、仕事帰りのサラリーマンや読書をする常連さん、少し年配のマダムが、ぽつぽつと席を埋めていた。

 ピークを過ぎて、店内に少しだけ余裕が出てきた時間帯だった。私はカウンターの中でカップを拭きながら、テーブル席の様子をぼんやりと眺めていた。雨音と、小さな話し声だけが、静かに店の空気を満たしている。
そんな静けさを破るように、入口の方でドアベルが鳴った。濡れたコートを脱ぎながら入ってきたのは、若い女性と、その隣に寄り添う同年代くらいの女の子だった。二人は楽しそうに話しながらカウンター近くの席に座り、そのままスマホの画面を見せ合って笑っている。

 すぐにオーダーを取りに行こうとしたとき、先に常連のマダムが香織ちゃんに声をかけた。
「香織ちゃん、大学のお友達? 最近、よく一緒に来る子と話してるの、見かけるわよ。恋人みたいで可愛いわねえ。クリスマスの時も、楽しそうだったわよね」

 その言葉が、思っていた以上にはっきりと耳に届いた。
 胸の奥を、冷たい針で刺されたみたいに痛みが走る。私は手にしていたカップ拭きの布に力を込めてしまい、カップのふちがきゅっと鳴った。

 「え、ち、違いますよ。ただのゼミ仲間ですよ! クリスマス前、グループワークが忙しくて。それで一緒に来てただけで……」
香織ちゃんは、慌てたように手を振った。

 笑って否定するその声はいつもの明るさを保っているのに、私は素直に受け取ることができなかった。
 大学には友達もたくさんいて、グループワークだってある。そんなこと、頭では分かっている。
 分かっているのに、「恋人みたい」と言われた一言が、耳の奥で何度も繰り返される。
 その夜のマフラーの温かさと、今の胸の冷たさの差が大きすぎて、心が追いついてくれなかった。

 その日から、私はスマホの通知音にひどく敏感になった。
カウンターの中で珈琲を淹れていても、テーブルを片づけていても、あの小さな振動が聞こえるたびに、意識がそっちへ引っ張られてしまう。
自分でも嫌になるくらいだった。恋人を信じたい。
でも、年齢も立場も違う二人の距離が、急に心もとないものに思えてくる。
私は店で、香織ちゃんは大学で。それぞれに別の世界を持っていて、その中で私はどれくらいの場所を占めているんだろう。
そんなことを考え始めると、自分の感情が、どんどん狭くて暗いところに閉じこもっていく気がした。

 はっきりと話をしようと決めたのは、窓の外の雨がさっきよりずっと激しくなった夜だった。
閉店間際、窓の外はすっかり真っ暗で、雨がさっきよりずっと激しくガラスを叩いていた。最後のお客さんを見送って灯りを少し落とすと、店内には小さめのBGMだけが静かに流れている。

 私はカウンターに置かれた布を手に取り、いつも通りの動作で表面を拭き始めた。けれど、手の動きはどこかぎこちなくて、心臓の鼓動だけが一つ一つやけに大きく響ているのがわかる。
逃げ出したい気持ちと、それでも聞かなきゃ前に進めないという焦りが、胸の中で絡まってほどけない。

「香織ちゃん、ちょっと、いい?」
自分でも驚くくらい、声が少し低く震えていた。
香織ちゃんは、レジのそばで今日の売り上げをメモしていた手を止めて、首をかしげる。

「どうしました? 片づけ、手伝いますよ」

「ううん。その前に……話したいことがある」
私はカウンターの上を拭きながら、心の中で何度も言葉を並べ直した。
問い詰めたいわけじゃない。でも、何も聞かずにモヤモヤを抱えたまま笑う自信もない。

「香織ちゃん、最近……大学で、誰か特別な人できた?」
言ってしまった瞬間、もう後戻りできなくなった気がした。それでも、私はもう止まれなかった。

「シフト、遅れる日が増えてるし……スマホの通知も多いし。先日だって、お客様に言われて……。クリスマスの夜、イルミネーションの下で約束したよね。これからも一緒にって。あれ、もう忘れちゃったのかなって。私、邪魔になってるのかなって、考えちゃって」

 最後の方は、ほとんど自分に向かって言っているみたいだった。
言葉にしてしまった途端、情けなさが込み上げる。恋人なのに、こんなことを疑っている自分が情けなくて、恥ずかしい。

 香織ちゃんの顔から血の気が引いていくのが、カウンター越しにも分かった。
彼女はスマホをぎゅっと握りしめたまま、私を見つめる。

「綾さん、そんな……信じてくれないの?」
その声は震えていて、本当にか細くて、聞いた瞬間、胸の奥が痛くなった。
香織ちゃんはスマホをぎゅっと握りしめたまま、テーブルの一点を見つめている。

「ただのグループワークで、ゼミの先輩が手伝ってくれてるだけです。連絡が多いのは、それだけで……。でも、綾さんがそんなふうに思ってたなんて……。クリスマスのプレゼント、まだ大事に使ってるのに。マフラーだって、いつも巻いてくれてるのに……」

 言葉の途中で、香織ちゃんの目に涙がにじいだ。
その一粒がこぼれそうになった瞬間、ずきっと胸が痛んだ。
自分がどれだけ狭い想像の中で、彼女を追い詰めていたのかを思い知らされる。
疑っていたあいだ、私の頭の中にあったのは「私が傷つく」ことばかり。
でも、本当に傷つけていたのは、目の前の彼女の方だった。香織ちゃんは、唇を震わせながら続けた。

「綾さん、ごめんね。ちゃんと話さなかった私のせいで、こんなふうに誤解させちゃった。美香先輩は、ただの友達です。グループワークも手伝ってくれるし、心配もしてくれるけど……。でも、私は綾さんのこと、本当に大切に思ってる。お客さんに何か言われても、気にならないくらい綾さんのことが好きなのに」
ぽろぽろと涙がこぼれて、レジ横のメモ用紙に落ちていく。
その光景が胸に焼き付いた。私はカウンターを回り込み、気づいたときには香織ちゃんを抱きしめていた。

「ごめん。疑って、ごめん。怖くて、勝手に一人でこじらせてた。
香織ちゃんのこと、大事なのに。いちばん、傷つけたくないのに」
私は香織ちゃんを強く抱きしめた。
胸にぎゅっと抱き寄せると、髪越しに、泣きながらも小さく笑う気配が伝わってくる。

「私の方こそ、もっと早く言えばよかった。スマホのことも、美香先輩のことも、最初からちゃんと話しておけばよかったのに。綾さんが不安になる前に、『大丈夫だよ、私は綾さんが好き』って、ちゃんと言えばよかった」
腕の中で、香織ちゃんが震える声でそう言った。

雨音が、ガラス越しに強く響いている。

 さっきまで閉店作業をしていた手は、今は止まっていた。レジの灯りだけが残ったカウンターの前で、私たちは抱き合ったまま、しばらく動けなかった。
胸の奥で固まっていたものが、少しずつ溶けていく。それでも、完全に痛みが消えたわけじゃない。互いに謝って、抱きしめ合って、それでも心のいちばん奥には、まだ小さな影が残っている。
この恋は本当に続けていけるのか。雨上がり前の雲みたいな不安のかけらが、静かにそこに居座り続けていた。
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