百合短編集

南條 綾

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83 (オーストラリア×百合)シドニーの夏で貴女に逢って……

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 シドニーの夏は容赦がない。

 午後二時を過ぎた瞬間から、アスファルトが熱を吐き出して足の裏をじりじりと焼く。サーキュラー・キーからフェリーに乗ってマンリーに向かうつもりだったのに、結局ハーバー・ブリッジの影に隠れたベンチで三十分以上ぼんやりしていた。

 汗でTシャツが背中に張り付いて気持ち悪い。日焼け止めを塗り直すのも面倒で、肩がじんわり赤くなっているのがわかる。

 隣に座った女が、突然ペットボトルの水を差し出してきた。

「飲む? 冷たいよ」

 声が低くて、少しハスキー。英語だったけど、アクセントが柔らかくて、日本語を話すときの私みたいに少し舌足らずな響きがあった。

 見上げると、ショートカットの栗色の髪。サングラスを頭に乗せたまま、薄いリネンのシャツから鎖骨がくっきり見えている。二十代後半くらいだろうか。目尻に細かい笑いジワができていて、それが妙にリアルで、作り物じゃない美しさを感じた。

「……ありがとう」

 受け取って一口飲むと、冷たさが喉を通って胃まで落ちていく。生き返るみたいだった。

「観光?」

 彼女が首を傾げる。

「住んでる。もう二年ちょっと」

「へえ。珍しいね。日本人ってあんまり長く定住しないイメージ」

「仕事でこちらに移住してるの」

「何の仕事?」

「グラフィックデザイン。フリーランスだけど、こっちの広告代理店と契約してる」

 彼女は小さく笑った。

「私もデザイン系。インテリア。今はリモートメインだけど、今日は現場で打ち合わせだったの。終わって、ちょっと逃げてきた」

 私も今日、クライアントから「もっと明るく、もっとオーストラリアっぽく」と言われて、三回やり直したデータを結局送らずに放置していた。

 明るくって何だよ。オーストラリアっぽくって何だよ。こっちは毎日それで苦しんでるのに。

 今度は本当に「オーストラリアっぽく」ってやったら、カンガルーやらコアラやらサーファーやらステレオタイプ満載になって、「それじゃステレオタイプすぎる」ってまた没食らうパターンになりそう。

 外国人が「もっと日本っぽく」って言われて、着物に富士山描いて提出したら即ボツになるのと同じだと思った。
結局、相手の頭の中の「理想のイメージ」なんて、こっちがいくら頑張っても当たらないんだよな……。

「名前、聞いてもいい?」

「綾」

「アヤ……可愛い。わたしはエマリージュ。みんなは、エマって呼ぶよ」

 エマはそう言って、隣のスペースをぽんぽんと叩いた。まるで「もっと近くに来なよ」と言ってるみたいだった。

 それから私たちは、フェリーの時間なんか忘れて話し続けた。

 彼女はメルボルン生まれで、二十歳のときにシドニーに移ってきた。両親は離婚していて、今は一人暮らし。週末はよくブルー・マウンテンズにハイキングに行く。好きなビーチはマンリーじゃなくて、もっと北のエイヴァロン。人が少なくて、波がきれいだから。

 私は逆に、人が多いボンダイが好きだと伝えた。

「だって、あの感じ。みんなが無防備に肌を出して笑ってるのを見てるだけで、なんか……安心する」

 エマは目を細めて笑った。

「わかる。日本だとあんまりないよね、そういう開放感」

「……うん。ない」

 その一言で、なんか急に距離が縮まった気がした。夕方近くになって、ようやく立ち上がった。

「また会える?」

エマがさらっと聞いてきた。

「会いたい?」

「うん。会いたい」

 ストレートすぎて、胸がどきっとした。

「じゃあ、連絡先交換しよう」

 スマホを差し出すと、エマは自分の番号を打ち込んで、すぐに私に電話をかけてきた。着信音が鳴る前に切って、にやりと笑う。

「これで本物だってわかるでしょ」

 その日から、毎日メッセージが来るようになった。

 朝のコーヒーの写真。現場で見た変な形のソファの写真。
夜のオックスフォード・ストリートで撮ったネオンの写真。

 そして時々、ただの「今日も暑いね」「生きてる?」みたいな一言。
私は毎回、短く返していたけど、心臓はうるさかった。
エマのメッセージが来るたびに、画面を見る手が少し震える。
こんな気持ち、いつぶりだろう。日本にいた頃は、こんなふうに誰かを待ったことなんてなかった。

 二週間後の土曜日。エマが「ボンダイ行こうよ」と言ってきた。
「人が多いって言ってたじゃん」「だからこそ。アヤの好きな場所、見せて」

 朝九時に待ち合わせ。私はいつもの黒いTシャツにデニム。エマは白いワンピースで現れた。
風が吹くと裾がふわっと広がって、太ももがちらりと見える。
思わず目を逸らした。

 ビーチは予想通り人で溢れていた。
パラソルの下で日焼けした体を晒す人たち。サーファーが波を切る音。子どもが叫びながら走る声。
私たちは砂浜を歩きながら、アイスコーヒーを飲んだ。

「ねえ、アヤ」

 エマが突然立ち止まる。

「うん?」

「手、繋いでいい?」

 周りを見回した。誰も気にしていない。ここでは、女の子同士が手を繋いで歩くことなんて、日常の一部だ。

「……いいよ」

 エマの手は思ったより小さくて、でも力強かった。指を絡めると、掌に汗がじんわり伝わってくる。
それが気持ち悪くなくて、むしろ心地よかった。波打ち際まで行って、靴を脱いだ。

冷たい水が足首を包む。エマが笑いながら水をかけてきた。

「冷たっ!」

「もっと冷たくしてあげる」

 追いかけっこみたいになって、二人で笑いながら水をかけ合った。
髪が濡れて、Tシャツが透ける。エマのワンピースもびしょ濡れで、体に張り付いている。

「……エマ」

 名前を呼ぶと、彼女が振り向いた。

「ん?」

「好きだよ」

 言葉が出た瞬間、後悔した。早すぎる。軽すぎる。
でもエマは、目を丸くしたあと、ゆっくり笑った。

「私も。ずっと前から」

 彼女は私の濡れた髪を指で梳いて、そっと額にキスをした。
塩気と日焼け止めの匂いと、エマの匂いが混ざって、頭がくらくらした。

 その夜、エマの家に行った。パディントンの古いテラスハウス。一階は彼女の仕事部屋で、布地やサンプルが散乱している。二階がリビングとキッチンと寝室。

 シャワーを浴びて、借りたTシャツを着てソファに座ると、エマがワインを持ってきてくれた。

「これ、オーストラリア産のピノ・ノワール。軽めだから飲みやすいよ」

 グラスを傾けながら、ぼんやりテレビを見ていた。何かのホームドラマ。笑い声が響く。

 エマが隣に座って、肩にもたれかかってきた。

「アヤ」

「ん」

「こっち向いて」

 顔を上げると、唇が重なった。

 最初は軽く触れるだけだったのに、すぐに深くなった。

 舌が絡まって、息が苦しくなる。

 エマの手が私の背中を滑り、腰を引き寄せる。

「……待って、ちょっと」

 息を切らして離れると、エマが心配そうに見つめてきた。

「嫌だった?」

「違う。……ただ、急に怖くなった」

「怖い?」

「うん。私、こういうの……ちゃんと出来るか、わからなくて……」

 エマは静かに頷いた。

「いいよ。ゆっくりでいい。私も怖いんだから」

「エマも?」

「うん。前に付き合ってた子がいて……急にいなくなったの。連絡もなしで。だから、こうやって誰かを好きになるの、ずっと怖かったし、むずかしい……」

 その言葉で、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。

「……ごめん」

「謝らないで。アヤがいてくれるだけで、嬉しい」

 それから二人は、ただ抱き合って眠った。
エマの背中に腕を回して、彼女の心臓の音を聞いていた。規則正しくて、安心する音。

 翌朝、目が覚めるとエマがキッチンでコーヒーを淹れていた。

「朝から可愛い」

「髪ぐしゃぐしゃなのに?」

「それが可愛い」

 笑いながら近づいて、後ろから抱きついた。エマが振り返って、軽くキスをする。

「今日は何する?」

「ブルー・マウンテンズ、連れてって」

「いいよ。でも日焼け止め、ちゃんと塗ってね」

 車で二時間。山道を登ると、空気が急に冷たくなった。
エマが運転しながら、昔の話をぽつぽつしてくれた。
子どもの頃、メルボルンの庭で母親と一緒に花を植えていたこと。
初めて女の子を好きになったのは高校の美術部で、先輩だったこと。
その先輩とは結局何も言えずに終わったこと。

「アヤは? 日本で、誰かいた?」

「……いたよ。でも、別れた」

「どんな子?」

「私よりずっと大人で、落ち着いてて……でも、私のこと見てくれなかった」

 エマがハンドルを握る手に力がこもった。

「今は?」

「今は……エマのことしか見てない」

 サービスエリアで休憩したとき、エマが突然言った。

「私、アヤと一緒にいたい。ずっと」

「……私も」

 その言葉で、何かが決まった気がした。
帰りの車の中、夕陽がオレンジ色に山を染めていた。
エマの横顔を見ながら、私は静かに思った。
この国に来てよかった。
この暑さも、この乾いた風も、この果てしない空も。
全部、エマに会うためのものだったのかもしれない。

 それから数ヶ月が過ぎた。
季節は巡って、再び夏がやってきた。
シドニーの空は相変わらず青く、容赦なく日差しを降り注ぐ。
でも今は、もうあの頃みたいに一人でベンチに座ってぼんやりすることはない。
エマがいるから。

 私たちは自然と一緒に暮らすようになった。
最初は週末だけエマのパディントンの家に泊まりに行っていたのが、気づけば私の荷物が少しずつ増えていった。

 ある日「もうここに住んじゃえば?」とエマがさらっと言った。
私は「うん」と頷いて、翌週には引っ越し業者を呼んでいた。
家の中はエマの布地サンプルと私のモニターとタブレットで埋まっている。
リビングのテーブルはいつもスケッチブックとコーヒーカップで散らかっていて、それが居心地いい。

 夜になるとソファでくっついて、Netflixを見ながら眠くなるまで話す。くだらないことばっかりの幸せな時間。

「今日のクライアント、また『もっとオーストラリアっぽく』って言ってきた」

「また? じゃあ次はコアラ描いちゃえよ」

「コアラ描いたら『もっと人間らしく』って言われそう」

 そんな他愛もない会話が、すごく大切に感じる。

 ある週末、エマが「またブルー・マウンテンズ行こう」と言ってきた。
前回行ったときより少し涼しくなっていたけど、山の空気は相変わらず澄んでいて、ユーカリの匂いが鼻をくすぐる。

 スリー・シスターズの展望台で、エマが私の手を握った。
夕陽が岩を赤く染めて、遠くの谷に影が伸びていく。

「ここ、初めてアヤを連れてきたとき、ずっと言えなかったことある」

「……何?」

 エマが少し照れたように笑う。

「実はあのとき、もう好きだった。アヤが『私もエマのことしか見てない』って言ってくれた瞬間、心臓が止まるかと思った」

「……ずるい。今さら言うの」

「だって、言ったらアヤが照れて逃げそうだったもん」

 私はエマの肩に頭を預けた。確かに逃げてた可能性はある。もうこれは日本人だったら仕方ないかもしれない。私のせいじゃなく、心の中で日本人気質のせいにしちゃった。

 風が髪を揺らす。遠くで鳥の鳴き声がする。

「エマ」

「ん?」

「私も、あのときからずっと好き。毎日、起きて最初に思うのがエマのこと。仕事中も、エマのメッセージ待ってる自分がいる。……こんなに誰かを想うの、初めて」

 エマが私の頰に手を当てて、そっとキスをした。柔らかくて、温かくて、少し塩辛い夕陽の味がした。

 夕日の味は知らないけど多分イメージしたらそんな風に思えた。

 帰りの車の中で、エマが運転しながらぽつりと言った。

「アヤ、日本に帰るつもり、ある?」

 私は少し考えて、首を振った。

「ない。今はここが家だよ。エマがいる場所が、私の帰る場所だし、もし帰省することはあるかもしれないけど、その時はエマも一緒に行こう」

 エマの目が少し潤んだ。ハンドルを握る手が、ぎゅっと力を込めるのがわかった。

「よかった。……私も、アヤがいない生活なんて考えられない」

 それから一年が経った。今も変わらず、シドニーの夏は暑い。
でも私はもう、汗でTシャツが張り付くのを嫌がらない。
だって、エマが「汗かいてるアヤ、可愛い」って笑ってくれるから。

 朝、目が覚めるとエマが隣で寝息を立てている。
私はそっと髪を撫でて、額にキスをする。
エマが目を細めて笑う。

「おはよ」

「おはよ」

 そのまま抱き合って、二度寝する日もある。
仕事の締め切りが迫っていても、エマの匂いの中で少しだけ甘えさせてほしい。

 時々、ボンダイのビーチに行って、手を繋いで歩く。
周りの人たちは誰も気にしない。

 ここでは、それが普通だから。
波の音を聞きながら、エマが言う。

「これからも、ずっと一緒にいようね」

 私は頷いて、強く手を握り返す。

「うん。ずっと」

 オーストラリアに来てよかった。
この広い空の下で、エマと出会えてよかった。
これから先、何があっても、
この手を離さない。
だって、私の居場所は、もうここだから。
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