【1部完】紫微綾の事件簿1 鎖の記憶

南條 綾

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2章 潜入の鎖

事情聴取と準備 前編

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(金山駅前喫茶店・午後1時、事情聴取)

 金山のアスナル金山のパーキングにアクアブルーの車を滑り込ませ、エンジンを切る。車内に静けさが広がる。雨が窓を叩き、ワイパーの音がその静寂を破る。耳に心地よく響くその音が、少しだけ緊張を和らげてくれる。

 玲奈が指定した古い喫茶店へ向かう。彼女が好んで訪れる場所らしいが、ここは玲奈の管轄外のはずだ。
彼女は中警察署の管轄だったと、頭の中でぼんやりと思い出す。
あれ? この駅って、中区と熱田区のどちらだったっけって、どうでもいいことを考えてしまった。

  傘を忘れてしまったことを少し後悔しながらも、軽い雨だからそのまま濡れながら現場に向かうことにした。
銀髪が雨に濡れて、頬にぴったりと張り付く。赤い瞳が周囲を警戒して、路地を曲がると、ゴミ箱からネズミが飛び出して、心臓が一瞬跳ね上がってびっくりした。
ネズミってまだいるんだと思ってしまった。

 濡れた靴音が静けさを破り、遠くでタクシーのクラクションが聞こえる。
街の音が、なんだか心の中で響くような気がして。
今日は本当に気分が沈んで仕方ない。

 私は、雨に濡れながら、ようやくその喫茶店の前に立った。
古びた木製の看板が、軒下で小さく揺れている。「珈琲専門 リューヌ」って、色褪せた文字がなんだか懐かしくて、思わず頬が緩む。

 ガラス戸に手をかけるとひんやりとした感触が指先に伝わってきた。
そっと押し開けた瞬間、濃厚なコーヒーの香りと、ほのかに混じる煙草の匂いが私を包み込んだ。

 この匂いだけで、疲れた心がほぐれていく気がする。
店内は、まさに昭和の時間が止まったような空間だった。重厚な木のテーブルには、長年の傷が無数に刻まれていて、壁には黄ばんだ映画ポスターや昔のアイドルの写真が、端がめくれ上がったまま貼られている。
照明は薄暗く、オレンジ色のランプがぼんやりと店を照らすだけ。

 玲奈らしいな、こんな店。心の中で小さく笑った。
あの人なら、絶対このレトロな雰囲気を気に入ってるはず。
きっと隅っこの席に座って、のんびり私を待っていることだろう。
想像するとまるでデートの誘いの感じがして少しだけ恥ずかしくなってくる。

 カウンターの奥では、マスターが無言でカップを磨いていた。
白髪交じりの頭を少し傾けて、時折小さく咳払いをする。
その音だけが、静かな店内に響いていた。
窓ガラスには雨粒がびっしりと張りついて、外の世界を歪ませながら流れ落ちていく。
古いラジオから、ノイズ混じりのジャズが流れていた。サックスの音色が、時々プツプツと途切れて、それさえもこの店の味になってる。

 私は服についた雨粒を軽く払い、ゆっくりと店の中へ踏み込んだ。
玲奈は、どこにいるのかな。
そんなことを考えながら、視線を店内へと滑らせた。

 私は店内を見回すと、すぐに窓際の席に彼女を見つけた。
黒のスーツに身を包み、長い黒髪を高い位置でポニーテールにまとめている。
窓から差し込む薄い雨の光がその横顔を照らして、まるでモノクロ映画のヒロインみたい。
でも、視線がどうしても行くのは、やっぱりあの胸のラインだ。
スーツの上からでもはっきりわかる、
凶悪としか言いようのないボリュームと形。同じ女として、正直反則すぎる。

 どうしてあんなに完璧に盛られてるのよ、って毎回心の中で毒づいてしまう。彼女は新聞を広げて読んでいた。
鋭い目つきで文字を追うその表情は、まさに刑事のプロフェッショナル。
誰も寄せ付けないような、冷たくて凛とした仮面を被っている。

私は知ってるけど、普段の玲奈は全然違う。
母性本能が溢れちゃうくらい優しくて、のほほんとした笑顔で誰にでも甘やかしちゃうタイプなんだよね。
仕事の時は厳しいけどね。
もうすぐ三十歳だってのに、「女子」って呼ぶのがぴったりなくらい可愛らしいところがある。

 いやいや、三十手前で「女子」って呼ぶのはちょっと失礼かな、なんて一瞬迷ったりもするけど。
その時、彼女の視線が私を捉えた。
鋭かった瞳が、ふっと柔らかくなってるのがわかる。
新聞が静かに畳まれ、テーブルに置かれる小さな音が響いた。

 スーツの袖口から覗く銀色の腕時計が、チクタクと秒を刻んでいる。
雨音と混じって、その音が妙に耳に残る。
まるで「遅刻よ」って無言で言われているみたいで、ちょっとドキッとしてしまう。

 玲奈が小さく微笑みながら、口を開いた。
その低めで少し掠れた声は、いつもの優しいトーン。
でも今日は、どこか仕事モードの余韻が残ってる気がして、背筋が少し伸びる。私は急いで席に向かいながら、心の

「……やっと来た。綾、座りなさい。コーヒー頼んだわ」玲奈の声は低くて、少し掠れていて、いつもの優しい響きに仕事の余韻が混じってる。

 私は軽く会釈して、向かいの席に腰を下ろした。
テーブルにはすでにブラックのコーヒーが置かれていて、湯気がゆらゆらと立ち上る。
苦い香りが鼻先をくすぐって、なんだかホッとする。

 玲奈の視線が、私の銀髪と赤い瞳をじっと捉えている。
その瞳に、鋭さがにじみ出てる。刑事モード全開だ。お客は私たちだけ。まだ昼過ぎなのに、マスターが閉店の看板を出して厨房に引っ込んでしまった。

 喫茶店で事情聴取なんて、私くらいだよなぁ。自嘲気味に思いながら、書類上は私の自宅で予定だったのを思い出す。
公私混同、ここまでくるともう笑うしかない。いいのか、これでと心の中で呟いた。

 窓の外では雨が強まって、街灯の光がガラスに映って歪む。店内がさらに薄暗く感じる。

「安田俊介、喉を掻き切られて死んでたわ。現場の状況から、プロの仕事。財布にあなたの紫微探偵事務所の名刺が一枚だけ。依頼人だったんでしょ?」

 玲奈がストレートに切り出してきた。私は冷静に頷いて、詳細をぼかしながら答える。

「人探しの依頼よ。安田さんの娘さん、雑賀舞。16歳の家出少女。苗字が違うのは、安田さんが離婚して奥さんの姓を名乗ってるから」

 そう言いながら、昨夜の安田さんの震える声が頭の中で蘇る。
電話越しのノイズと、切羽詰まった息遣い。
あの時、私がもっと早く動いていれば……なんて思っちゃうけど、無駄な後悔だよなぁ。
コーヒーカップに手を伸ばして、そっと口をつけた。
苦味が舌に広がって、気持ちを少し引き締めてくれる。
玲奈の視線がまだ私を離さない。……さて、ここからが本番だ。

 玲奈の指がテーブルの縁をトントンと軽く叩く。
ああ、この癖……刑事モードの証拠だ。

「家出? ドン横キッズ絡みでしょ。そして池田公園で違法なQRコードの貼り紙も聴いてる。警察も情報持ってるわ。あなた、深入りしたんでしょう? 綾は容姿が目立つから」

 鋭い追及に、思わず息を飲む。本当に鋭いなぁ……。玲奈の情報網は侮れない。警察の内外から情報を集めてるんだろう。
昨日のあんなことがあれば耳にも入るよね。銀髪に赤い目って目立つし。

 30歳手前で警部補に昇進した優秀さは、伊達じゃない。
彼女がさりげなく開いたノートの端から、走り書きされた文字や図形がチラリと見えて、情報収集の細やかさに改めて驚く。

 あれ確か、マインドマップっていうやつだ。
図形を使って思考を視覚化するやつ。私は口を開こうとしたけど、玲奈が遮るように続けた。

「依頼人の娘を探すのが仕事なのはわかる? 本当にそれだけ? キッズの間で噂のバイト募集等の件も含んでるんじゃない? 今日池田公園で聞き込みしたら、笹原と揉めてるっていう話も聞いたわよ」

「あれは、仲介なのかな? 私だって自分の分はわきまえてるよ。笹原さんと揉めたら大変だしね」

 必死に説明するけど、玲奈の目は全く容赦ない。
テーブルに置かれたスプーンが、私の手の震えで微かにカタカタ鳴ってる。
彼女のポニーテールが小さく揺れて、緊張が伝染してくるみたいだ。
玲奈は少し声を低めて、諭すように言った。

「綾、貴女はあの事件で、無茶する癖がある。もしかしたらあの組織の残党が動いてる可能性が高いのよ。安田の殺しは多分警告だと思う。去年私と再会した時の事件で少し貴女有名になったしね。昨夜の騒ぎが組織に嗅ぎつけられた証拠かも。警察に任せなさい」

 その言葉に、胸の奥がズキッと痛む。
玲奈の瞳に浮かぶのは、ただの刑事の冷静さだけじゃない。
心配が、ほんの少しだけ滲んでる。私はコーヒーカップを両手で包み込んで、視線を落とした。
任せられないよ、玲奈。だって、法の網じゃ届かない闇が、舞ちゃんを飲み込もうとしてる可能性がある。
それに私自身がやらないと、多分いつまでもその影におびえないといけない。
そんなのは嫌だ。

10年前かぁ、私はあの事件で保護された。
葛城の親父さんにおびえていた私を保護してくれたけど、留まる自分が嫌だった。
自分を鍛え直して、強くなりたいって思って、櫻華流をあの人に紹介されて、鍛え直した。
高校卒業と同時に葛城の家を出てあの人の手伝いをして、去年、探偵になってすぐに大きな事件に巻き込まれて、玲奈と再会した。

 あの事件、結構派手に暴れちゃったから、裏社会で多少名が売れちゃったわけだ。その時に笹原さんとも出会ったんだっけ。
 
 一瞬、玲奈の目が柔らかくなった。事情聴取の名目だけど、やっぱり本気で心配してるんだろうな。

「あなたがまた深淵に落ちたら、私が……。あの時のあなたを思い出すと、胸が締め付けられる」
玲奈の声のトーンが下がって、静かに響く。

 その言葉に、10年前のコンテナの暗闇が一気にフラッシュバックした。
足首に食い込む鎖の冷たさ、息苦しい湿った空気、遠くで響く男たちの笑い声……。
冷や汗が背中を伝い、手がコーヒーカップを握り潰しそうになる。
指先が震えて、カップの縁がカチカチと鳴った。言葉を飲み込んで、なんとか反論する。

「玲奈、あなたも法の限界知ってるでしょ。警察が動いても、組織は潜るだけ。それに裏の情報だけど、警察の癒着もあるって噂があるよ」

 玲奈が無言で立ち上がり、私の隣に座り直した。テーブルの下で、彼女の手がそっと私の膝に触れる。
温かさが伝わってきて、心臓がドクンと跳ねる。
唇がゆっくり近づいてきて、「バカね。心配よ。割り切りの域を超えてるわ、私。10年前、あなたが壊れそうだった時、私がそばにいたでしょ」囁きと共に、短いキス。
コーヒーの苦味と、彼女の柔らかい唇の感触が混じって、頭がぼうっとする。
彼女の息が頬にかかって、温かさが心の奥まで染み込んでくる。

 涙がこぼれそうになって、慌てて目を伏せた。玲奈は少し離れて、刑事ノートを取り出し、声を低くした。

「安田の死は、組織の警告ね。QRコードの生成源、今池だっていう話ね。ダークウェブ経由のボット生成、追跡不能設計。警察のサイバー班も動き出したけど、時間かかるわ」

 驚いて顔を上げる。警察もそこまで嗅ぎつけてるのか。

「それを教えてくれるという事は、私の行動をある程度黙認するの? 玲奈の立場が危ういよ。先ほども言ったけど、癒着の噂もあるでしょ」彼女が苦笑いした。

「だからあなたみたいなのが必要なの。法の外側で動ける人。情報共有するわ。無茶はだめよ。もしかしたら娘さんを探す過程で、安田は何かを得たからかもしれない。貴女のせいじゃないわ」

 そう言って、玲奈は私の名刺をテーブルに滑らせて返してくれた。

「事情聴取はこれで終わり。でも、次はベッドで事情聴取よ」

 刑事の仮面がすっと外れて、いつもの柔らかい女の顔が覗く。
冗談めかしたその言葉に、頬がカッと熱くなった。

 私は立ち上がって、軽く頭を下げ、店を出た。
外に出ると、雨が再び降り始めて、足元のアスファルトを濡らす。

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