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カウンターから向かって左奥の指定席

6.

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 会いたかった人に会えない。会えないだけで、一日の満足度が違うと気付くのは何度目だろうか。幼い頃から、友人と遊ぶ予定が無くなった時は空虚感を抱いてきた。父に急遽仕事が入り外出する約束を破られた時も同じだった。真哉さんに会わなかった土曜日が、こんなにも虚しいとは思わなかった。

「別に約束してた訳じゃねえけどさ、でもさあ」

 何杯呷ったか分からないビールジョッキをテーブルに置き、先刻から繰り返している台詞をもう一度吐き出す。盛大にため息を吐いてどすのきいた声音を出したのは尾上俊二だった。

「珍しく3回も飲みに誘ったと思えばそれしか言わねえな」

「だぁってよお」

「うるせえ。撮影の合間をぬって時間作ってやった俺の気にもなれ」

「俊二には感謝してるけどさぁ……」

「いくら泣いても花岡真哉は此処には来ねえよ」

 ピシャリと言い放つ俊二に目頭が熱くなり、俺はとうとう机に突っ伏した。堪えきれずしゃくり上げて声を上げながら真哉さんの名前を叫ぶ。向かいに座る俊二がうるせえ、と不機嫌そうに吐き捨てたのが聞こえた。

「あーあーあー、大の大人が泣くな。めんどくせえ」

 整った顔を顰めて頭を抱えているだろう俊二が容易に思い浮かんで、突っ伏したままひっそりと笑う。涙は止まらないが、気が逸れたおかげで嗚咽は止まった。

「イケメンなくせに、口が悪すぎるんだよお前はぁ……」

 彼のおかげで生まれた余裕で難癖をつけてみる。俊二が鼻で笑ったのが分かった。

「神は俺に与えすぎたんだ、欠点のひとつくらいどうってことない」

「うわあ、キモい」

「『真哉さん』に言い付けても良いのか? 親友の悪口を言ってましたーってよお」

「え」

 慌てて顔を上げ俊二を見つめる。引っかかったと言わんばかりのしたり顔で彼はにやにやと人の悪い笑みを浮かべていた。

「嫌だ、真哉さんに嫌われたくない」

 俊二がそんなことをする人間ではないと知っているのに、アルコールで思考を緩まされた俺は必死で彼に食らいつく。頼む、それだけはと彼の手を掴み前後に揺さぶる。

「真哉さんに嫌われたら立ち直れねえよ」

「嫌われるも何も、好かれてるかも分からないじゃねえか」

「そうだけど! 1にもなっていないのに俺のイメージがマイナスになるのは嫌だ」

 嫌だ、頼むよお、やめてくれよお。
 情けなく彼にしがみついて俊二を見上げる。俊二は今まで見たことないくらい顔を引き攣らせていた。

「離せ、そんなことしねえよ」

「なあ、俊二、俺たち親友だろ、やめてよお」

「分かったから、手離せっ」

 俊二が真哉さんに告げ口したらどうなるか。耳打ちされた真哉さんが、軽く目を見開いて、次いで絵に描いたような嫌悪の表情で俺を見て、

『君、そんな人だったんだね。もう店には行きたくないな』

 と俺を蔑んだ目で見るのだ。

「そんなの生きていけねえよぉ……」

「思ってること全部口に出てんぞ」

 引いているのは、想像の中の真哉さんではなく俊二である。彼が真哉さんでなくて良かったと、よく分からない安心感を抱く。

「もう3週間来てないんだよ……嫌われたのかな」

 ぽつりと、真哉さんに会わない間に募った不安が口から滑る。俊二は、表情は変わらなかったがその声を幾段か柔らかくした。

「忙しいんだろ。何の仕事してんのか知らねえけど」

 真哉さんがカフェに来なくなって、3週間が経った。書店で会って以来、一度も顔を合わせていない。連絡先を交換していないから理由を聞くことも叶わず、時間だけが過ぎていった。一度ならいざ知らず、3週間も店に来ないとなると不安になる。どう考えても自分が原因だからだ。店の外で声を掛けたせいで、店に行きづらくなったのだろう。誰とも関わらない、ひとりで過ごすのを好んでいるだろう真哉さんの懐に入ろうとしたのが間違いだった。店員と客の関係が、自分たちにとって最適の距離感だったのに。

「半年、ずっと来てたんだ。急に来なくなるなんて、仕事のせいじゃない。俺のせい」

 止まっていた涙が再び目頭に溜まる。無様な泣き顔をこれ以上俊二には晒せないと、彼の手を解放し席に座り直す。肘を付き、額に手を当てるふりをして顔を隠した。

「それは本人に聞いてみねえと分からないことだ。勝手に思い込むな」

 俊二は何ともないように言った。彼の言う通りこれは自分の思い込みかもしれない。だが、真哉さんが来なくなったのは自分が店の外で声を掛けてからだ。俺のせいかもしれないと悩むのを自然ではないだろうか。否、真哉さんが実際にどう感じているかは聞いてみなければ分からないのは確かだ。彼が再び来店するのを待ち、尋ねるべきかもしれない。その機会が訪れると良いのだが。今、信じて待つしかないのだろうか。訪れるかどうか分からないその日を待って。
 ため息を吐いて、ふと彼の注文したものを思い出す。今日は一度もアルコールの入ったものを飲んでいない。いつもは、度数の低いカクテルやサワーを3杯は頼むはずなのに。

「俊二、明日も仕事……?」

 恐る恐る顔を上げた俺に、俊二はこくりと頷いた。

「朝から詰まってるよ」

 CMと、雑誌の撮影と、と俊二は指を折り数える。俺は、自分のことで頭がいっぱいで彼のことを気遣えてなかったことに気付き火照っていた身体が急激に冷えていくのを感じながら思わず立ち上がる。

「ごめん、てっきり休みだと思ってた」

 生活リズムが崩れれば、身体のコンディションに影響が出る。それは、モデルを生業とする俊二にとっては致命的だ。

「別に気にする必要ねえよ。行くって決めたのは俺だしマネージャーにも言ってある」

「だとしても」

「仕事よりも友人の方が大事だろ、誰だって」

 俊二は、尚も言い募ろうとした俺を日本中を魅了した微笑で宥めた。さも当たり前とでも言うような涼しい顔だった。

「これでも、お前のことは大事に思ってるんだよ」

 口は悪いけどな。

「っ……!」

 幼い頃から何かと面倒を見てくれていた俊二らしい言葉に、胸がじわりと熱を持った。ぶっきらぼうだが、優しい一面があるのだ、彼は。酔いの回った身体は、溢れる感謝を彼に飛びつく形で表現したのだった。
 後日、周りの客に生温かい目で見られていたと俊二から聞かされて反省したのは、また別の話である。
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