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閑話
四日目
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夜明け直前の静けさのなか、シウを抱えて疾走する。診療所を出てすぐ、シウは腕の中で眠ってしまった。結局、踏ん切りがつかなくて、まだあの新聞記事は見せていない。
温かい重みを抱きしめながら、必死で迫りくる追手から逃げる。
シウを狙う者は、あの五人だけではなかったらしい。敷地を出てからずっと、跡をつけてくる気配が複数あった。
何度か巻こうと試みたが、なかなかの手練だ。追いにくいよう、屋根や塀伝いに走っているが、それでも一定の距離を置いてピッタリとくっついてくる。おそらく、市街地から出て見通しが良くなったところで仕掛けるつもりなのだろう。
(市街地にいる間に何人か殺しておきたいところだが)
ちらりと腕の中に目をやれば、穏やかにシウが眠る。
彼女を抱えたまま、彼女に怪我ひとつつけずに、うまく相手をさばける自信が、ゼンにはなかった。こんな風に、何かを守りながら戦うのは初めてだ。
「う……んん」
腕の中のシウが、少し身じろぎする。探すようにしばらく手を彷徨わせたあと、ゼンの服にしがみつくと、寝たまま小さく微笑んだ。
(あ、かわいい)
盛大な油断とともに、痛烈な衝撃が右足のふくらはぎに走る。同時に、右ふくらはぎを中心に冷気が広がり、ビキビキと凍りついた。魔力銃による被弾だ。がくりと右足から力が抜け、足を踏み外して屋根から落下する。
内心舌打ちしつつ、シウを庇い、背中から落ちる。中途半端な受け身のせいで、胸の奥の骨が嫌な音を立てて軋んだ。痛みをこらえておきあがり、シウを抱え直す。右ふくらはぎに残る魔力に意識を集中し、氷属性の魔術をおさえこむ。
ゼンが落ちたのは、首都南西の市場近く。昼なら多くの露天が立ち並ぶ広場からほど近い通りの一角である。明け方前の今の時間は人っ子一人おらず、暗がりの中に夜霧が佇むばかりだ。
その霧の向こうに、人の気配がした。
(上に三人、下に五人か)
神経を研ぎ澄ます。
意外と人数が多いうえに、妙に連携のとれた動きをしている。司令役であるリーダ格の人間がいるようだ。
ほぼ両手が塞がった状態で、一対多。
武器は魔獣用の打ち込み針が一本のみ。
しかも、シウは傷つけたくない。
なかなかの難易度である。
「あの方かと思ったが、魔力銃にうたれるんじゃあ違うな。構えろ! 女には当てるなよ」
あの方⸺たぶん、ゼンのことだ。他人に名を名乗らないので、誰もゼンの名を知らない。みんな、あの方とかあの人とか、好き勝手に呼んでいる。コロッセオでは確か通し番号か何かで呼ばれていたはずだ。
追手のうち、リーダー格の男の合図とともに、魔力の気配が湧き起こる。さきほど魔力銃をくらったのは不幸中の幸いだったようだ。普通ならどんなに油断してもゼン相手に魔力銃は使わない。
銃身が火を吹くタイミングを見計らって、ゼンは意識を集中した。弾の軌道を変え、銃を暴発させる。絶叫とともに屋根の上の三人が落ち、地上にいたもう一人も崩れ落ちる。
「なっ!? かかれ! 相手は手負いだ!」
リーダー格の男は狼狽しながらも、指示を下す。ナイフを持った二人がゼンに襲いかかる。もう一人、ボウガンを持った男が、ゼンに照準を合わせた。
指示を下しながらも不利を悟ったのだろう、リーダー格の男は身を翻して、近くの路地に駆け込む。
(応援を呼ばれるのはまずいな)
ゼンは太もものホルダーから長い針を取り出すと、路地に姿を消す寸前の男めがけて射る。うなじを貫かれて男はビクリと硬直した後に崩れ落ちた。
「対魔獣針!? 本物かよ!」
ボウガンの男が叫びながら、矢を打ち込んでくる。それをあえて肩でうけつつ、左右から迫る白刃に対峙する。左側からくるナイフを片手ではたき、ナイフを奪う。奪ったナイフでそのまま男の喉元をかききり、かえす刃で右側からくる男にナイフを投げようとしたが、一歩遅かった。
妙に背の低いやつだった。繰り出すナイフがゼンよりもシウに迫る。
(おい!? シウにあたるだろ!?)
慌ててシウを庇うゼンの脇腹を、ナイフが抉る。同時に右腕の上腕に、ボウガンの矢がもう一撃打ち込まれた。
反射的に右腕で反撃しかけて、ぐっとこらえる。そんなことをしたら、シウが落ちてしまう。
左手に握ったナイフで、間近の男の両眼をえぐり、そのままボウガンの男めがけてナイフを投げる。ボウガンの男は眉間を貫かれ、後ろに倒れて痙攣した。
呻きながら両眼を抑える男の首を左手でつかみ、力をこめて絞め殺す。ぶらりと男の身体から力が抜け、壊れた人形のように地に落ちた。
ぜぇぜぇ息をつきながら、全員殺したことを確認する。眠るシウが無傷であることも確認し、胸を撫で下ろす。
ただ、状況は芳しくない。動くたびに刺さった矢やナイフが痛むが、これを抜いたらすぐに失血死しそうだった。
(なんとか、帰らないと)
嫌な汗が額に浮かぶ。
呼吸が浅い。
矢傷はたいしたことないが、脇腹のナイフがまずい。内蔵まで届いている気がする。致命傷に近いだろう。
このまま走るのも無理なら、歩くのも怪しい。
それでも、シウをしっかりと抱きしめてなんとか歩をすすめる。
少し行くと、幌馬車がたくさん停まっていた。その近くに繋がれた荷引き用の家畜が何匹か繋がれている。朝早いせいか、飼い主と思しき人間の姿は見当たらない。
クルル?という声に見れば一匹の跳馬がいた。まばたきしながらゼンをみて、首を傾げる。
ゼンが手を伸ばすと、フンフンと匂いを嗅いで頭をこすり付けてくる。人間にはあまり好かれないゼンだが、動物、特に亜竜系にはなぜか好かれがちだった。
「乗せてほしい」
跳馬は乗れとばかりにすっと身を屈めてくれた。
ゼンは跳馬を繋いでいた紐を外し、重たい身体を叱咤して跳馬にまたがる。懐から1ルクス金貨を出すと、跳馬が繋がれていたところに投げた。
ゼンが乗ったことを確認し、跳馬は勢い良く走り出す。跳馬という名がついているだけあって、かなり上下によく揺れる。力も強く足も速いのだが、幌馬車をひかせるものであって、乗るものではない。
跳馬が跳ねるたびに激痛が走るのを、ゼンは歯を食いしばってこらえる。時々、痛みで意識が飛びかけるのを、頭を振って我慢する。
揺れでシウが起きないよう、細心の注意を支払いながら、シウを抱く腕に力をこめた。
家の近くの、郵便箱があるあたりまで来たときには、ゼンは出血と痛みでかなりぐったりしていた。跳馬から降りる、というよりずり落ちると言ったほうが適切だろう。それでも、シウに負担がかからないよう、配慮は忘れない。
ゼンが郵便箱の下に設置された平べったい台に手を当てると、周りの空間が少し揺らいだ。自宅の周りには、防犯用に複数の魔術紋を地面に仕込んだ結界もどきを張ってある。これにより、郵便箱から奥には、結界を緩めなければ誰も立ち入ることはできない。ただし、飛竜など魔術無効特性を持つ生き物には効かない。
お礼代わりに跳馬を撫で、血をなめさせる。跳馬は満足したようで、ぴょこぴょこと頭を下げて来た道を戻っていった。
ゼンは重い身体を引きずり、家へ向かう。正直、途中の山道で何度か倒れそうだった。傷は痛いし、出血がひどい。あたまがぼんやりしてくる。
最後の気力を振り絞って、なんとか家にたどり着き、震えながらシウを奥の部屋に寝かせる。身体中を苛む嫌な寒気に、歯を食いしばった。
頭の中は霞がかかりきっていて、いつ意識を手放してもおかしくない。
(なんとか、守りきったな)
ほっとしながら、矢とナイフを引き抜く。引き抜いたはしから、血がだくだくとあふれた。
ばったりと横向きに倒れ、眠るシウを見つめる。その頬に手を伸ばしかけて、血まみれなことに気づき、慌てて引っ込めた。
どんどん頭に霞がかかる。
慣れ親しんだ、死の気配。
(ちゃんと、目覚めますように。できればシウが起きる前に)
シウが起きて、横に死体が転がってたらびっくりじゃ済まないだろう。それは避けたかった。
ごろりとシウが寝返りをうち、ゼンと向かい合う格好になった。寝ぼけたまま、何かを探すように手をさまよわせ、ゼンの手をみつけると安心したように握る。そしてまた、すやすやと寝息を立てる。
⸺ゼンさん、好きです
風呂場での告白を思い出す。
シウの立場を知った今、なおさらあれに応えるわけには行かない。そもそも、婚約者のいる女の子なのだ。
それでも。
たとえ、あれがゼンを利用するための方便でも。
ゼンは嬉しかった。
ずっと曇天のような色の無い世界が、一気に鮮やかに息を吹き返す、そんな錯覚を覚えるほど嬉しかった。
飛びかける意識の中、シウの手をなんとか握り返し、その指先に唇を寄せる。
「シウ、ずっと、好き」
荒い呼気に痰がからむような雑音が混じり、ちゃんと発音できたかも怪しい。それでもゼンは言葉にしておきたかった。
万が一、目覚めなかったら、二度と言えないだろうから。
届くことのない告白とともに、迫りくる死に身を委ねた。
◇
ゼンが目覚めたのは、その日の昼前だった。太陽は高く、暖かな日差しが窓から差し込んでいる。
いつのまにか、シウの手を両手で握っていた。手を離すと、シウの白い手にベッタリと血の跡が残る。慌ててタオルをぬらしてシウの手をふき、他にも汚れているところをふいておいた。
なんとなく、さきほどの戦闘でついた傷跡を確認したゼンは驚いた。
(傷跡が、残ってない……?)
いつもならば、醜く残る傷跡が、さきほどの矢傷と刃傷のぶんだけなかった。首を傾げながら、ゼンは少し落胆する。まるでシウを守った証が消えてしまった気分だった。あれがあれば、きっとどんな勲章よりも嬉しかっただろう。
風呂に入り、汚れを落とし着替える。家の中に残る血痕もきれいに落としておく。
眠るシウの横に座り、彼女の目覚めを待つ。シウの頬や手に何度か手を伸ばしかけたが、婚約者がいることを思い出して我慢した。
シウはなかなか目覚めなかった。それどころか次第に呼吸が浅くなり苦しげに眉を寄せる。おでこに触れてみると妙に熱い。
⸺一晩ここにおいてきな
マリーは朝までいるよう、言っていたはずだ。ゼンはそれより前に連れ出してしまった。もしかしたら、早すぎたのかもしれない。
(どうしよう。もう一度診療所へ連れて行こうか)
おろおろしながら考える。診療所に連れていきたいのはやまやまだが、シウを危ない目に合わせたくない。
悩んだ末、ゼン一人で診療所に行って相談してくることにした。全速力で行って帰ってくればそこまで時間もかからない。
シウに毛布をかけ直す。なんとなく名残惜しくて、指の背でちょんちょんと頬に触れた。
(これは、挨拶だから。婚約者とか関係ないやつ)
心の中でよくわからない言い訳をしながら、シウの頬に触れる。
「行ってくる」
ただの挨拶なのに、なんとなく、三回くらい噛み締めた。
◇
陽光差し込む白い診療室の中、木目椰子の天井を背景に、マリーは足を組んで座っていた。
「だろうと思ったよ!」
眼鏡越しのマリーの眼光にビクつくゼンであった。椅子に座って小さくなっている。
「完治せずに連れまわせばそうなるさ。まあ、寝かしときな!」
いつも以上にイラついているマリーは、ペンを机の上でカッカッと鳴らしている。
「べつにいいさ。勝手にいなくなるぶんにはね。でもね? 増やすこたあないだろ! なんだい、あの死体は! 五人も!」
ブチブチ言われて、ゼンはさらに縮こまった。
たしかに、あの死体の後始末をまるっとマリーに押し付けてしまっていた。ここなら、死体のひとつやふたつ、四つや五つ、なんてことないかと思っていたが、ダメだったらしい。
「殺るなら殺るっていいなよ。殺した直後なら保存してきれいな臓器を使い回せるってのに」
ブチブチブチブチ。
文句言いつつも、マリーは薬をいくつか見繕ってくれた。机の上に広げて使い方を説明してくれる。錠剤や粉の飲み薬、傷用の塗り薬もあった。それらを紙袋にまとめてゼンにむけて掲げる。
ゼンが紙袋を受けとろうと手を伸ばすと、マリーはさっとひっこめた。
「この薬ですぐに良くなるけれど、わかってるね?」
実験につきあえ。
そう、言外にこの老婆は言っているのだった。
「護衛の仕事を請け負っている。早く帰りたい」
頷きながらも珍しく条件をつけるゼンに片眉をあげつつ、マリーはふむと思案する。
「わかったよ。お前の仕事に支障なさそうな組織片をもらうくらいにしとくかね。しかし、二日連続して来てくれるなんて、あのお嬢ちゃんには感謝だね」
満足気に笑むマリーの前で、ゼンは膝の上の拳を握りしめた。
◇
地下の実験室が、ゼンは好きではなかった。プンと消毒の匂いがするのも、灯りが白々しくて色彩に乏しいのも、鈍く光る枷で四肢が固定されるのも。
そして。
「……っ!」
金属の冷たさと、容赦ない痛み。
左足の薬指を、医療用の鋏で切り落とされる痛みに、耐える。ぬるりと溢れる血を、白衣を着たスタッフが試験管に採取している。いつもの光景だ。
ふーふー息を吐いて痛みから気を逸らす。この程度の傷ならば死ぬことはない。止血処理をしてもらえば、すぐに血も止まる。
(はやく、シウのところに帰りたい)
家で眠る彼女のことを想う。症状が悪化してないか心配でたまらない。
早く外せとばかりに枷をガチャガチャしていると、人影が天井の灯りを遮った。
「お前がこんなに感情を表すなんて珍しいね。ところで最近、男性用避妊薬を開発してね。いるかい?」
いつの間に来たのか、傍らのマリーが興味深そうにゼンの顔をのぞきこんでいる。
「いるなら、ちゃんといるっていいな。自分の気持ちの表現は、生きてく上で大事だよ」
「いる」
「もうちょい、誠意を見せた言い方はできないのかい?」
困ったように眉をひそめるゼンに、マリーは肩をすくめた。しょうがない子だねぇ、と言いながら枷を外してやる。
「そういうときは、言い方を教えてくださいって相手に頼んでみるのも手だよ」
全て枷を外すと、マリーは薬の入った紙袋をゼンに渡してくれた。
◇
家についた時は、夕方だった。
転がるように家の中に駆け込み、シウの様子を確認する。家の中に、ちゃんとシウがいることにゼンは胸をなでおろした。全速力で走って帰ったので、汗まみれだ。途中、乗合馬車を何台か追い越し、そのたびに「なんだあいつ」みたいに指をさされた。
「ただいま、シウ」
ただの挨拶だが、これも三回くらい噛みしめた。
しかし、噛み締めている場合ではないことにすぐに気づく。シウの顔は赤くて、服がぐっしょりするほど汗をかいている。少し、震えている気もする。ゼンが不在の間に、症状が悪化したらしい。
(薬を飲ませて、ええっと、着替え、どっちが先だ!?)
とりあえずコップに水を汲み、もらってきた粉薬を混ぜる。透明な水は一瞬白く濁ったが、すぐに透明に戻った。
「シウ、薬、飲める?」
上半身を抱き起こして声をかけても、反応が無い。コップを口元に持っていっても、うまく飲めずに溢してしまう。
(これは治療。そう、治療だから)
ゼンは薬液を口に含むと、口移しでシウに飲ませた。最初は少し溢したが、すぐにコツを掴んで、うまく飲ませていく。柔らかな唇を、なるべく意識しないように気をつけながら、全て飲ませる。
薬を飲み終わっても、物ほしそうなシウに、さらに口移しで水を飲ませた。マリーが、水分補給が大事だと言っていたのをおもいだしたのだ。
一通り飲ませると、シウは少し楽になったようだった。意識は戻らないが、苦しそうではない。
なんだか名残惜しくて、唇の端にキスしたいのを、ゼンはぐっと我慢した。ぎゅむぎゅむと自分の頬を両手でつねって邪念を振り払う。
(護衛の報酬は前払いなんだから、ダメ)
シウを抱き上げ、服を脱がす。絞れば滴りそうなほど、服は濡れそぼっていた。
(これは治療。これは治療)
やや赤く染まる肌を、濡らしたタオルで拭き清めていく。同じく濡れていたシーツも替えて、その上に全裸のシウを横たえた。痣や傷跡は、まだ残っているものの、かなり薄くなっている。紙袋の中を手探りで漁り、塗り薬を探し出す。
(これは治療だから、仕方ないやつ)
何度めかの言い聞かせである。
軟膏を手に取り、シウの傷に塗り込んでいく。熱を持つ身体に、軟膏はすぐに溶ける。うっかり揉んでしまわないよう、気をつけながら薬を塗っていく。
胸や尻、太ももなど、不健全なところばかりに傷が集中している事実に、顔が熱くなる。途中、何度か、肌に口づけしたくなるのを必死で堪えた。多少過剰に塗った気はするが、そこは仕方ないと思いたいゼンだった。
ついでに一緒にもらってきた自分用の薬も、念のため飲んでおく。今後はもう無いとは思うものの、下手に流されたり理性飛ばしたりする可能性がゼロではない。小さな錠剤を、毎日一錠だ。
乾いた服を着せて寝かせれば、シウはだいぶ落ち着いた。薬も効いてきたのか、寝息も穏やかだ。
一息ついたゼンは、自分の汗臭さが増していることに気づき、慌てて風呂に入った。清潔な服に着替えて、シウの横に座る。
毛布からはみでた手や肩をしまい、穏やかに眠るシウをながめる。額に張り付く髪や、まつげ、少し開いた唇に、赤く染まる頬。
(かわいい。ずっと見てたい)
シウがまた、何かを探すように手を伸ばす。それを握れば安心したように少し微笑んだ。
思わず、ゼンはその手にキスして頬をあてる。
意識が戻れば、またゼンの名を呼んで微笑んでくれるだろうか。彼女の目覚めが待ち遠しかった。
(きっと、これは俺の役目じゃないんだろうな)
やはり脳裏に浮かぶのは婚約者の三文字である。きっと、シウを守るのも看病するのも、顔も知らない彼の役目なのだ。
気づいた時には、毛布ごとシウを抱きしめていた。腕の中におさめて頬ずりをする。少し速いシウの鼓動が聞こえる。
あれだけ下手に触らないように気をつけていたのに、一度触ったら、歯止めが効かない。頬にキスして、髪を撫でる。
(このままここに閉じ込めて、俺だけのものにしてしまおうか)
よくない考えが頭をよぎる。名目上、ゼンはシウを金で買った。できないことはない。
きっと、婚約者の元にもどれば、シウはゼンと会おうとしなくなるだろう。
今までみたいな、店員と常連客という関係すら保てないだろう。
正直、それが怖くて抱くのを散々躊躇した。
もう二度と会えなくなるのなら、いっそ。
首を振って邪念を振り払う。
(なにがシウの幸せかなんて、わかりきってる)
頭ではわかっているのに、わずか数日いただけで、離れがたい。
護衛の仕事が終わったら、どうなるのか。
もう会えなくなるのだろうか。
それを思うだけで胸が掻きむしられる。
(シウに会えない世界なんて、俺にはなんの意味もないのに)
きっと、すぐ近くにあるだろう別れの予感に震えながら、ただ腕の中の温もりを抱きしめた。
温かい重みを抱きしめながら、必死で迫りくる追手から逃げる。
シウを狙う者は、あの五人だけではなかったらしい。敷地を出てからずっと、跡をつけてくる気配が複数あった。
何度か巻こうと試みたが、なかなかの手練だ。追いにくいよう、屋根や塀伝いに走っているが、それでも一定の距離を置いてピッタリとくっついてくる。おそらく、市街地から出て見通しが良くなったところで仕掛けるつもりなのだろう。
(市街地にいる間に何人か殺しておきたいところだが)
ちらりと腕の中に目をやれば、穏やかにシウが眠る。
彼女を抱えたまま、彼女に怪我ひとつつけずに、うまく相手をさばける自信が、ゼンにはなかった。こんな風に、何かを守りながら戦うのは初めてだ。
「う……んん」
腕の中のシウが、少し身じろぎする。探すようにしばらく手を彷徨わせたあと、ゼンの服にしがみつくと、寝たまま小さく微笑んだ。
(あ、かわいい)
盛大な油断とともに、痛烈な衝撃が右足のふくらはぎに走る。同時に、右ふくらはぎを中心に冷気が広がり、ビキビキと凍りついた。魔力銃による被弾だ。がくりと右足から力が抜け、足を踏み外して屋根から落下する。
内心舌打ちしつつ、シウを庇い、背中から落ちる。中途半端な受け身のせいで、胸の奥の骨が嫌な音を立てて軋んだ。痛みをこらえておきあがり、シウを抱え直す。右ふくらはぎに残る魔力に意識を集中し、氷属性の魔術をおさえこむ。
ゼンが落ちたのは、首都南西の市場近く。昼なら多くの露天が立ち並ぶ広場からほど近い通りの一角である。明け方前の今の時間は人っ子一人おらず、暗がりの中に夜霧が佇むばかりだ。
その霧の向こうに、人の気配がした。
(上に三人、下に五人か)
神経を研ぎ澄ます。
意外と人数が多いうえに、妙に連携のとれた動きをしている。司令役であるリーダ格の人間がいるようだ。
ほぼ両手が塞がった状態で、一対多。
武器は魔獣用の打ち込み針が一本のみ。
しかも、シウは傷つけたくない。
なかなかの難易度である。
「あの方かと思ったが、魔力銃にうたれるんじゃあ違うな。構えろ! 女には当てるなよ」
あの方⸺たぶん、ゼンのことだ。他人に名を名乗らないので、誰もゼンの名を知らない。みんな、あの方とかあの人とか、好き勝手に呼んでいる。コロッセオでは確か通し番号か何かで呼ばれていたはずだ。
追手のうち、リーダー格の男の合図とともに、魔力の気配が湧き起こる。さきほど魔力銃をくらったのは不幸中の幸いだったようだ。普通ならどんなに油断してもゼン相手に魔力銃は使わない。
銃身が火を吹くタイミングを見計らって、ゼンは意識を集中した。弾の軌道を変え、銃を暴発させる。絶叫とともに屋根の上の三人が落ち、地上にいたもう一人も崩れ落ちる。
「なっ!? かかれ! 相手は手負いだ!」
リーダー格の男は狼狽しながらも、指示を下す。ナイフを持った二人がゼンに襲いかかる。もう一人、ボウガンを持った男が、ゼンに照準を合わせた。
指示を下しながらも不利を悟ったのだろう、リーダー格の男は身を翻して、近くの路地に駆け込む。
(応援を呼ばれるのはまずいな)
ゼンは太もものホルダーから長い針を取り出すと、路地に姿を消す寸前の男めがけて射る。うなじを貫かれて男はビクリと硬直した後に崩れ落ちた。
「対魔獣針!? 本物かよ!」
ボウガンの男が叫びながら、矢を打ち込んでくる。それをあえて肩でうけつつ、左右から迫る白刃に対峙する。左側からくるナイフを片手ではたき、ナイフを奪う。奪ったナイフでそのまま男の喉元をかききり、かえす刃で右側からくる男にナイフを投げようとしたが、一歩遅かった。
妙に背の低いやつだった。繰り出すナイフがゼンよりもシウに迫る。
(おい!? シウにあたるだろ!?)
慌ててシウを庇うゼンの脇腹を、ナイフが抉る。同時に右腕の上腕に、ボウガンの矢がもう一撃打ち込まれた。
反射的に右腕で反撃しかけて、ぐっとこらえる。そんなことをしたら、シウが落ちてしまう。
左手に握ったナイフで、間近の男の両眼をえぐり、そのままボウガンの男めがけてナイフを投げる。ボウガンの男は眉間を貫かれ、後ろに倒れて痙攣した。
呻きながら両眼を抑える男の首を左手でつかみ、力をこめて絞め殺す。ぶらりと男の身体から力が抜け、壊れた人形のように地に落ちた。
ぜぇぜぇ息をつきながら、全員殺したことを確認する。眠るシウが無傷であることも確認し、胸を撫で下ろす。
ただ、状況は芳しくない。動くたびに刺さった矢やナイフが痛むが、これを抜いたらすぐに失血死しそうだった。
(なんとか、帰らないと)
嫌な汗が額に浮かぶ。
呼吸が浅い。
矢傷はたいしたことないが、脇腹のナイフがまずい。内蔵まで届いている気がする。致命傷に近いだろう。
このまま走るのも無理なら、歩くのも怪しい。
それでも、シウをしっかりと抱きしめてなんとか歩をすすめる。
少し行くと、幌馬車がたくさん停まっていた。その近くに繋がれた荷引き用の家畜が何匹か繋がれている。朝早いせいか、飼い主と思しき人間の姿は見当たらない。
クルル?という声に見れば一匹の跳馬がいた。まばたきしながらゼンをみて、首を傾げる。
ゼンが手を伸ばすと、フンフンと匂いを嗅いで頭をこすり付けてくる。人間にはあまり好かれないゼンだが、動物、特に亜竜系にはなぜか好かれがちだった。
「乗せてほしい」
跳馬は乗れとばかりにすっと身を屈めてくれた。
ゼンは跳馬を繋いでいた紐を外し、重たい身体を叱咤して跳馬にまたがる。懐から1ルクス金貨を出すと、跳馬が繋がれていたところに投げた。
ゼンが乗ったことを確認し、跳馬は勢い良く走り出す。跳馬という名がついているだけあって、かなり上下によく揺れる。力も強く足も速いのだが、幌馬車をひかせるものであって、乗るものではない。
跳馬が跳ねるたびに激痛が走るのを、ゼンは歯を食いしばってこらえる。時々、痛みで意識が飛びかけるのを、頭を振って我慢する。
揺れでシウが起きないよう、細心の注意を支払いながら、シウを抱く腕に力をこめた。
家の近くの、郵便箱があるあたりまで来たときには、ゼンは出血と痛みでかなりぐったりしていた。跳馬から降りる、というよりずり落ちると言ったほうが適切だろう。それでも、シウに負担がかからないよう、配慮は忘れない。
ゼンが郵便箱の下に設置された平べったい台に手を当てると、周りの空間が少し揺らいだ。自宅の周りには、防犯用に複数の魔術紋を地面に仕込んだ結界もどきを張ってある。これにより、郵便箱から奥には、結界を緩めなければ誰も立ち入ることはできない。ただし、飛竜など魔術無効特性を持つ生き物には効かない。
お礼代わりに跳馬を撫で、血をなめさせる。跳馬は満足したようで、ぴょこぴょこと頭を下げて来た道を戻っていった。
ゼンは重い身体を引きずり、家へ向かう。正直、途中の山道で何度か倒れそうだった。傷は痛いし、出血がひどい。あたまがぼんやりしてくる。
最後の気力を振り絞って、なんとか家にたどり着き、震えながらシウを奥の部屋に寝かせる。身体中を苛む嫌な寒気に、歯を食いしばった。
頭の中は霞がかかりきっていて、いつ意識を手放してもおかしくない。
(なんとか、守りきったな)
ほっとしながら、矢とナイフを引き抜く。引き抜いたはしから、血がだくだくとあふれた。
ばったりと横向きに倒れ、眠るシウを見つめる。その頬に手を伸ばしかけて、血まみれなことに気づき、慌てて引っ込めた。
どんどん頭に霞がかかる。
慣れ親しんだ、死の気配。
(ちゃんと、目覚めますように。できればシウが起きる前に)
シウが起きて、横に死体が転がってたらびっくりじゃ済まないだろう。それは避けたかった。
ごろりとシウが寝返りをうち、ゼンと向かい合う格好になった。寝ぼけたまま、何かを探すように手をさまよわせ、ゼンの手をみつけると安心したように握る。そしてまた、すやすやと寝息を立てる。
⸺ゼンさん、好きです
風呂場での告白を思い出す。
シウの立場を知った今、なおさらあれに応えるわけには行かない。そもそも、婚約者のいる女の子なのだ。
それでも。
たとえ、あれがゼンを利用するための方便でも。
ゼンは嬉しかった。
ずっと曇天のような色の無い世界が、一気に鮮やかに息を吹き返す、そんな錯覚を覚えるほど嬉しかった。
飛びかける意識の中、シウの手をなんとか握り返し、その指先に唇を寄せる。
「シウ、ずっと、好き」
荒い呼気に痰がからむような雑音が混じり、ちゃんと発音できたかも怪しい。それでもゼンは言葉にしておきたかった。
万が一、目覚めなかったら、二度と言えないだろうから。
届くことのない告白とともに、迫りくる死に身を委ねた。
◇
ゼンが目覚めたのは、その日の昼前だった。太陽は高く、暖かな日差しが窓から差し込んでいる。
いつのまにか、シウの手を両手で握っていた。手を離すと、シウの白い手にベッタリと血の跡が残る。慌ててタオルをぬらしてシウの手をふき、他にも汚れているところをふいておいた。
なんとなく、さきほどの戦闘でついた傷跡を確認したゼンは驚いた。
(傷跡が、残ってない……?)
いつもならば、醜く残る傷跡が、さきほどの矢傷と刃傷のぶんだけなかった。首を傾げながら、ゼンは少し落胆する。まるでシウを守った証が消えてしまった気分だった。あれがあれば、きっとどんな勲章よりも嬉しかっただろう。
風呂に入り、汚れを落とし着替える。家の中に残る血痕もきれいに落としておく。
眠るシウの横に座り、彼女の目覚めを待つ。シウの頬や手に何度か手を伸ばしかけたが、婚約者がいることを思い出して我慢した。
シウはなかなか目覚めなかった。それどころか次第に呼吸が浅くなり苦しげに眉を寄せる。おでこに触れてみると妙に熱い。
⸺一晩ここにおいてきな
マリーは朝までいるよう、言っていたはずだ。ゼンはそれより前に連れ出してしまった。もしかしたら、早すぎたのかもしれない。
(どうしよう。もう一度診療所へ連れて行こうか)
おろおろしながら考える。診療所に連れていきたいのはやまやまだが、シウを危ない目に合わせたくない。
悩んだ末、ゼン一人で診療所に行って相談してくることにした。全速力で行って帰ってくればそこまで時間もかからない。
シウに毛布をかけ直す。なんとなく名残惜しくて、指の背でちょんちょんと頬に触れた。
(これは、挨拶だから。婚約者とか関係ないやつ)
心の中でよくわからない言い訳をしながら、シウの頬に触れる。
「行ってくる」
ただの挨拶なのに、なんとなく、三回くらい噛み締めた。
◇
陽光差し込む白い診療室の中、木目椰子の天井を背景に、マリーは足を組んで座っていた。
「だろうと思ったよ!」
眼鏡越しのマリーの眼光にビクつくゼンであった。椅子に座って小さくなっている。
「完治せずに連れまわせばそうなるさ。まあ、寝かしときな!」
いつも以上にイラついているマリーは、ペンを机の上でカッカッと鳴らしている。
「べつにいいさ。勝手にいなくなるぶんにはね。でもね? 増やすこたあないだろ! なんだい、あの死体は! 五人も!」
ブチブチ言われて、ゼンはさらに縮こまった。
たしかに、あの死体の後始末をまるっとマリーに押し付けてしまっていた。ここなら、死体のひとつやふたつ、四つや五つ、なんてことないかと思っていたが、ダメだったらしい。
「殺るなら殺るっていいなよ。殺した直後なら保存してきれいな臓器を使い回せるってのに」
ブチブチブチブチ。
文句言いつつも、マリーは薬をいくつか見繕ってくれた。机の上に広げて使い方を説明してくれる。錠剤や粉の飲み薬、傷用の塗り薬もあった。それらを紙袋にまとめてゼンにむけて掲げる。
ゼンが紙袋を受けとろうと手を伸ばすと、マリーはさっとひっこめた。
「この薬ですぐに良くなるけれど、わかってるね?」
実験につきあえ。
そう、言外にこの老婆は言っているのだった。
「護衛の仕事を請け負っている。早く帰りたい」
頷きながらも珍しく条件をつけるゼンに片眉をあげつつ、マリーはふむと思案する。
「わかったよ。お前の仕事に支障なさそうな組織片をもらうくらいにしとくかね。しかし、二日連続して来てくれるなんて、あのお嬢ちゃんには感謝だね」
満足気に笑むマリーの前で、ゼンは膝の上の拳を握りしめた。
◇
地下の実験室が、ゼンは好きではなかった。プンと消毒の匂いがするのも、灯りが白々しくて色彩に乏しいのも、鈍く光る枷で四肢が固定されるのも。
そして。
「……っ!」
金属の冷たさと、容赦ない痛み。
左足の薬指を、医療用の鋏で切り落とされる痛みに、耐える。ぬるりと溢れる血を、白衣を着たスタッフが試験管に採取している。いつもの光景だ。
ふーふー息を吐いて痛みから気を逸らす。この程度の傷ならば死ぬことはない。止血処理をしてもらえば、すぐに血も止まる。
(はやく、シウのところに帰りたい)
家で眠る彼女のことを想う。症状が悪化してないか心配でたまらない。
早く外せとばかりに枷をガチャガチャしていると、人影が天井の灯りを遮った。
「お前がこんなに感情を表すなんて珍しいね。ところで最近、男性用避妊薬を開発してね。いるかい?」
いつの間に来たのか、傍らのマリーが興味深そうにゼンの顔をのぞきこんでいる。
「いるなら、ちゃんといるっていいな。自分の気持ちの表現は、生きてく上で大事だよ」
「いる」
「もうちょい、誠意を見せた言い方はできないのかい?」
困ったように眉をひそめるゼンに、マリーは肩をすくめた。しょうがない子だねぇ、と言いながら枷を外してやる。
「そういうときは、言い方を教えてくださいって相手に頼んでみるのも手だよ」
全て枷を外すと、マリーは薬の入った紙袋をゼンに渡してくれた。
◇
家についた時は、夕方だった。
転がるように家の中に駆け込み、シウの様子を確認する。家の中に、ちゃんとシウがいることにゼンは胸をなでおろした。全速力で走って帰ったので、汗まみれだ。途中、乗合馬車を何台か追い越し、そのたびに「なんだあいつ」みたいに指をさされた。
「ただいま、シウ」
ただの挨拶だが、これも三回くらい噛みしめた。
しかし、噛み締めている場合ではないことにすぐに気づく。シウの顔は赤くて、服がぐっしょりするほど汗をかいている。少し、震えている気もする。ゼンが不在の間に、症状が悪化したらしい。
(薬を飲ませて、ええっと、着替え、どっちが先だ!?)
とりあえずコップに水を汲み、もらってきた粉薬を混ぜる。透明な水は一瞬白く濁ったが、すぐに透明に戻った。
「シウ、薬、飲める?」
上半身を抱き起こして声をかけても、反応が無い。コップを口元に持っていっても、うまく飲めずに溢してしまう。
(これは治療。そう、治療だから)
ゼンは薬液を口に含むと、口移しでシウに飲ませた。最初は少し溢したが、すぐにコツを掴んで、うまく飲ませていく。柔らかな唇を、なるべく意識しないように気をつけながら、全て飲ませる。
薬を飲み終わっても、物ほしそうなシウに、さらに口移しで水を飲ませた。マリーが、水分補給が大事だと言っていたのをおもいだしたのだ。
一通り飲ませると、シウは少し楽になったようだった。意識は戻らないが、苦しそうではない。
なんだか名残惜しくて、唇の端にキスしたいのを、ゼンはぐっと我慢した。ぎゅむぎゅむと自分の頬を両手でつねって邪念を振り払う。
(護衛の報酬は前払いなんだから、ダメ)
シウを抱き上げ、服を脱がす。絞れば滴りそうなほど、服は濡れそぼっていた。
(これは治療。これは治療)
やや赤く染まる肌を、濡らしたタオルで拭き清めていく。同じく濡れていたシーツも替えて、その上に全裸のシウを横たえた。痣や傷跡は、まだ残っているものの、かなり薄くなっている。紙袋の中を手探りで漁り、塗り薬を探し出す。
(これは治療だから、仕方ないやつ)
何度めかの言い聞かせである。
軟膏を手に取り、シウの傷に塗り込んでいく。熱を持つ身体に、軟膏はすぐに溶ける。うっかり揉んでしまわないよう、気をつけながら薬を塗っていく。
胸や尻、太ももなど、不健全なところばかりに傷が集中している事実に、顔が熱くなる。途中、何度か、肌に口づけしたくなるのを必死で堪えた。多少過剰に塗った気はするが、そこは仕方ないと思いたいゼンだった。
ついでに一緒にもらってきた自分用の薬も、念のため飲んでおく。今後はもう無いとは思うものの、下手に流されたり理性飛ばしたりする可能性がゼロではない。小さな錠剤を、毎日一錠だ。
乾いた服を着せて寝かせれば、シウはだいぶ落ち着いた。薬も効いてきたのか、寝息も穏やかだ。
一息ついたゼンは、自分の汗臭さが増していることに気づき、慌てて風呂に入った。清潔な服に着替えて、シウの横に座る。
毛布からはみでた手や肩をしまい、穏やかに眠るシウをながめる。額に張り付く髪や、まつげ、少し開いた唇に、赤く染まる頬。
(かわいい。ずっと見てたい)
シウがまた、何かを探すように手を伸ばす。それを握れば安心したように少し微笑んだ。
思わず、ゼンはその手にキスして頬をあてる。
意識が戻れば、またゼンの名を呼んで微笑んでくれるだろうか。彼女の目覚めが待ち遠しかった。
(きっと、これは俺の役目じゃないんだろうな)
やはり脳裏に浮かぶのは婚約者の三文字である。きっと、シウを守るのも看病するのも、顔も知らない彼の役目なのだ。
気づいた時には、毛布ごとシウを抱きしめていた。腕の中におさめて頬ずりをする。少し速いシウの鼓動が聞こえる。
あれだけ下手に触らないように気をつけていたのに、一度触ったら、歯止めが効かない。頬にキスして、髪を撫でる。
(このままここに閉じ込めて、俺だけのものにしてしまおうか)
よくない考えが頭をよぎる。名目上、ゼンはシウを金で買った。できないことはない。
きっと、婚約者の元にもどれば、シウはゼンと会おうとしなくなるだろう。
今までみたいな、店員と常連客という関係すら保てないだろう。
正直、それが怖くて抱くのを散々躊躇した。
もう二度と会えなくなるのなら、いっそ。
首を振って邪念を振り払う。
(なにがシウの幸せかなんて、わかりきってる)
頭ではわかっているのに、わずか数日いただけで、離れがたい。
護衛の仕事が終わったら、どうなるのか。
もう会えなくなるのだろうか。
それを思うだけで胸が掻きむしられる。
(シウに会えない世界なんて、俺にはなんの意味もないのに)
きっと、すぐ近くにあるだろう別れの予感に震えながら、ただ腕の中の温もりを抱きしめた。
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