10 / 17
10.狂宴のあと
しおりを挟む
早朝のまぶしさに照らされた狂宴の跡。
すでに淫蕩な熱は遠く、冷えてこびりついた体液の跡や、全裸で転がる人間達が朝靄けぶる中に散在する。一匹の蝿が耳障りな羽音とともに、色褪せた残滓に止まり羽を震わせた。
間の抜けた静寂の中、腰が抜けたようにへたりこんで、ルカは目をまんまるにして目の前の人物を見上げる。
そこには、さっきまで一緒にいた人間の男の子の代わりに、彼の面影をわずかに残す天使が一人、佇んでいた。年齢は人間でいえば二十代前半くらいだろうか。あの黒髪の男の子よりずっと年上に見える。
ふわふわした短い蜂蜜色の髪を、夜の冷たさを残す風が静かに揺らす。澄み切った浅瀬の海を思わせる鮮やかなエメラルドの瞳は、狂乱のなごりを不機嫌そうに見つめていた。
「セ、フィ?」
小さく震えるルカの声に、ぱっと天使が振り向く。弾みで真っ白な翼が小さく空を掻き、清廉な花の蜜を思わせる香りがルカの頬を撫でた。
軽蔑の色すら浮かべて宴の跡を眺めていた瞳は、ルカを捉えた途端、微笑みに変わる。まるで百合の蕾が、早暁の淡い光とともに目の前で花開いたようだった。
「怪我はない?あいつにいろいろ触られて嫌だっただろう?もう大丈夫」
声音は多少違うが、親しみをこめた話し方は一晩ともに過ごしたセフィと同じものだった。微笑みながらなんの迷いもなく、ルカに向かって手を差し出してくる。
間違いなくこの天使は、あのセフィで。
黒髪の人間のセフィなんて、本当はどこにもいなかったのだと、ルカは知った。
その途端、胸を占めたのは恐怖。
悪魔の魂に、本能に、消えない傷痕さながらにべったりと刷り込まれた天使への畏怖がわきあがる。
ルカは立ち上がることも、逃げることも、目の前に差し出された手をとることもできず、ただ小さく震えるばかりだった。
「ルカ……?」
名前を呼ばれて思わず首を振り、震えた身体をひきずるように後ずさる。
セフィが何か言おうと口を開けたのと、朝靄を断つ鋭い擦過音がしたのは同時だった。
「ルカ、危ない!」
一歩踏み出したセフィが金色の弓をひと振りすれば、金属音とともに黄金の矢が地面に転がり、淡く砂粒のようなきらめきを残して消える。
「セフィ!無事でよかった、足元にまだ悪魔が一匹……って、んん?」
天井の大穴からふわりと翼をはためかせて降りてきたのは、赤い髪の天使だった。くるくると縮れた短い髪は神秘的な夕焼けを思わせる。身体はセフィよりもひとまわり大きく、軍神のごとき筋肉が逞しい。
「天界の門を早めに開けてもらって迎えに来たんだが。どういう状況だ?なぜその悪魔を殺さない」
深く炒ったヘーゼルナッツを思わせる瞳を訝しげに細めて、警戒しながらルカに近づいてくる。
二人目の天使の値踏みするような視線に、ルカは身を縮めた。
「いや、サマエル、この子は⸺」
「あぁ、欺きの罪を負わせているのか。なるほどな。さっさと処理して帰ろう」
サマエルと呼ばれた天使は、勝手に一人で納得してうなづくと、優雅な所作で片手を前に差し出す。くるりと上に向けた手のひらに小さく弾みながら現れたのは、茶色い革表紙のぶ厚い本。本は勝手に開き、パラパラと繰られて、あるページでぴたりと止まる。
開いた紙が淡く光るとともに、ふわりとサマエルのローブの裾が風もないのに持ち上がった。
刹那、地面から現れる乳白色に輝く鎖。金属音を響かせながら次々に立ち現れ、ルカの首に、腕に、腰に巻きつく。
「……っ……!」
逃れようと羽根を開くルカをやすやすと絡め取り、固い地面に引き戻す。ぎちりと食い込む鎖が締めつけるたびに、ルカの身体から力が抜け、頭の奥が痺れたように朦朧とする。首を締められているからか、声も出せず呼吸すらも苦しい。
「ちがう、そうじゃない、そうじゃなくて」
ルカの間近で、しどろもどろにつぶやくセフィの声とともに、絡みつく鎖がガチャガチャと乱雑に打ち合う音。冷たい鎖の合間に触れる温かい手の感触は、鎖を解こうとしてくれているのだろうか。
「ん、なにか違ったか?このまま裁きの場に持ってくんだろ?」
裁きの場、という単語はルカを震え上がらせるのに十分だった。かつて習った、最も忌避すべき最期。悪魔が断罪される裁きの場では、死ぬよりもひどい目にあう。
「この子は……。えっと、そう!俺が使役しようと思って!!」
「はあっ!?おまえ、グリモワールなんて扱えるんだっけ?」
「魔導書とかじゃなくて」
天使二人の話し声を遠くに聞きながら、徐々にルカの視界が暗くなる。
きっと今、ルカが意識を失えば、次に目覚めるのは裁きの場の無慈悲な冷たさだろう。教本に描かれていた苦しむ悪魔を、ぐるりと囲む天使の絵を思い出す。恐怖と絶望の中で目覚めるのだけは勘弁。そう思いながら間近に迫る地面の硬さからなんとか遠ざかろうと足掻く。
「……飼う感じなのか?……精気の変換効率が……普通の悪魔なんてつかいみち……」
「飼うとかそんなんじゃ……」
地面の代わりに何か暖かくてふわふわしたものがルカの頬に触れる。その心地よさになおさら意識に闇が忍び寄る。
断続的な天使たちの話し声はいつしか聞こえなくなり、ふつりとルカの意識も緊張も途切れた。
すでに淫蕩な熱は遠く、冷えてこびりついた体液の跡や、全裸で転がる人間達が朝靄けぶる中に散在する。一匹の蝿が耳障りな羽音とともに、色褪せた残滓に止まり羽を震わせた。
間の抜けた静寂の中、腰が抜けたようにへたりこんで、ルカは目をまんまるにして目の前の人物を見上げる。
そこには、さっきまで一緒にいた人間の男の子の代わりに、彼の面影をわずかに残す天使が一人、佇んでいた。年齢は人間でいえば二十代前半くらいだろうか。あの黒髪の男の子よりずっと年上に見える。
ふわふわした短い蜂蜜色の髪を、夜の冷たさを残す風が静かに揺らす。澄み切った浅瀬の海を思わせる鮮やかなエメラルドの瞳は、狂乱のなごりを不機嫌そうに見つめていた。
「セ、フィ?」
小さく震えるルカの声に、ぱっと天使が振り向く。弾みで真っ白な翼が小さく空を掻き、清廉な花の蜜を思わせる香りがルカの頬を撫でた。
軽蔑の色すら浮かべて宴の跡を眺めていた瞳は、ルカを捉えた途端、微笑みに変わる。まるで百合の蕾が、早暁の淡い光とともに目の前で花開いたようだった。
「怪我はない?あいつにいろいろ触られて嫌だっただろう?もう大丈夫」
声音は多少違うが、親しみをこめた話し方は一晩ともに過ごしたセフィと同じものだった。微笑みながらなんの迷いもなく、ルカに向かって手を差し出してくる。
間違いなくこの天使は、あのセフィで。
黒髪の人間のセフィなんて、本当はどこにもいなかったのだと、ルカは知った。
その途端、胸を占めたのは恐怖。
悪魔の魂に、本能に、消えない傷痕さながらにべったりと刷り込まれた天使への畏怖がわきあがる。
ルカは立ち上がることも、逃げることも、目の前に差し出された手をとることもできず、ただ小さく震えるばかりだった。
「ルカ……?」
名前を呼ばれて思わず首を振り、震えた身体をひきずるように後ずさる。
セフィが何か言おうと口を開けたのと、朝靄を断つ鋭い擦過音がしたのは同時だった。
「ルカ、危ない!」
一歩踏み出したセフィが金色の弓をひと振りすれば、金属音とともに黄金の矢が地面に転がり、淡く砂粒のようなきらめきを残して消える。
「セフィ!無事でよかった、足元にまだ悪魔が一匹……って、んん?」
天井の大穴からふわりと翼をはためかせて降りてきたのは、赤い髪の天使だった。くるくると縮れた短い髪は神秘的な夕焼けを思わせる。身体はセフィよりもひとまわり大きく、軍神のごとき筋肉が逞しい。
「天界の門を早めに開けてもらって迎えに来たんだが。どういう状況だ?なぜその悪魔を殺さない」
深く炒ったヘーゼルナッツを思わせる瞳を訝しげに細めて、警戒しながらルカに近づいてくる。
二人目の天使の値踏みするような視線に、ルカは身を縮めた。
「いや、サマエル、この子は⸺」
「あぁ、欺きの罪を負わせているのか。なるほどな。さっさと処理して帰ろう」
サマエルと呼ばれた天使は、勝手に一人で納得してうなづくと、優雅な所作で片手を前に差し出す。くるりと上に向けた手のひらに小さく弾みながら現れたのは、茶色い革表紙のぶ厚い本。本は勝手に開き、パラパラと繰られて、あるページでぴたりと止まる。
開いた紙が淡く光るとともに、ふわりとサマエルのローブの裾が風もないのに持ち上がった。
刹那、地面から現れる乳白色に輝く鎖。金属音を響かせながら次々に立ち現れ、ルカの首に、腕に、腰に巻きつく。
「……っ……!」
逃れようと羽根を開くルカをやすやすと絡め取り、固い地面に引き戻す。ぎちりと食い込む鎖が締めつけるたびに、ルカの身体から力が抜け、頭の奥が痺れたように朦朧とする。首を締められているからか、声も出せず呼吸すらも苦しい。
「ちがう、そうじゃない、そうじゃなくて」
ルカの間近で、しどろもどろにつぶやくセフィの声とともに、絡みつく鎖がガチャガチャと乱雑に打ち合う音。冷たい鎖の合間に触れる温かい手の感触は、鎖を解こうとしてくれているのだろうか。
「ん、なにか違ったか?このまま裁きの場に持ってくんだろ?」
裁きの場、という単語はルカを震え上がらせるのに十分だった。かつて習った、最も忌避すべき最期。悪魔が断罪される裁きの場では、死ぬよりもひどい目にあう。
「この子は……。えっと、そう!俺が使役しようと思って!!」
「はあっ!?おまえ、グリモワールなんて扱えるんだっけ?」
「魔導書とかじゃなくて」
天使二人の話し声を遠くに聞きながら、徐々にルカの視界が暗くなる。
きっと今、ルカが意識を失えば、次に目覚めるのは裁きの場の無慈悲な冷たさだろう。教本に描かれていた苦しむ悪魔を、ぐるりと囲む天使の絵を思い出す。恐怖と絶望の中で目覚めるのだけは勘弁。そう思いながら間近に迫る地面の硬さからなんとか遠ざかろうと足掻く。
「……飼う感じなのか?……精気の変換効率が……普通の悪魔なんてつかいみち……」
「飼うとかそんなんじゃ……」
地面の代わりに何か暖かくてふわふわしたものがルカの頬に触れる。その心地よさになおさら意識に闇が忍び寄る。
断続的な天使たちの話し声はいつしか聞こえなくなり、ふつりとルカの意識も緊張も途切れた。
10
あなたにおすすめの小説
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』
鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、
仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。
厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議――
最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。
だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、
結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。
そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、
次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。
同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。
数々の試練が二人を襲うが――
蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、
結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。
そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、
秘書と社長の関係を静かに越えていく。
「これからの人生も、そばで支えてほしい。」
それは、彼が初めて見せた弱さであり、
結衣だけに向けた真剣な想いだった。
秘書として。
一人の女性として。
結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。
仕事も恋も全力で駆け抜ける、
“冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!
【完結・おまけ追加】期間限定の妻は夫にとろっとろに蕩けさせられて大変困惑しております
紬あおい
恋愛
病弱な妹リリスの代わりに嫁いだミルゼは、夫のラディアスと期間限定の夫婦となる。
二年後にはリリスと交代しなければならない。
そんなミルゼを閨で蕩かすラディアス。
普段も優しい良き夫に困惑を隠せないミルゼだった…
【完結】異世界に転移しましたら、四人の夫に溺愛されることになりました(笑)
かのん
恋愛
気が付けば、喧騒など全く聞こえない、鳥のさえずりが穏やかに聞こえる森にいました。
わぁ、こんな静かなところ初めて~なんて、のんびりしていたら、目の前に麗しの美形達が現れて・・・
これは、女性が少ない世界に転移した二十九歳独身女性が、あれよあれよという間に精霊の愛し子として囲われ、いつのまにか四人の男性と結婚し、あれよあれよという間に溺愛される物語。
あっさりめのお話です。それでもよろしければどうぞ!
本日だけ、二話更新。毎日朝10時に更新します。
完結しておりますので、安心してお読みください。
強面夫の裏の顔は妻以外には見せられません!
ましろ
恋愛
「誰がこんなことをしろと言った?」
それは夫のいる騎士団へ差し入れを届けに行った私への彼からの冷たい言葉。
挙げ句の果てに、
「用が済んだなら早く帰れっ!」
と追い返されてしまいました。
そして夜、屋敷に戻って来た夫は───
✻ゆるふわ設定です。
気を付けていますが、誤字脱字などがある為、あとからこっそり修正することがあります。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる