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「おーい梓くん。こっちこっちー」
「ノリくんごめん、お待たせ」
「全然大丈夫」
夕飯時のファミリーレストランは、金曜日なのも相まってかほぼ満席だ。
暦の上では夏も終わったと言うのにまだまだ暑い日々が続いていて、店内はエアコンが程よく効いている。
ノリの手元の随分汗が滴るグラスに、呼んだのは自分なのに悪いことをしたなと梓は思う。
ノリはステーキのプレートと大盛のごはん、梓はチキンサラダのプレートを注文した。それだけで足りるのかとノリは驚く。
「食欲あんまりなくてさ」
「梓くん、ちゃんと食べなきゃダメっすよ」
「うん、そうなんだけどね」
マスクを外しながら梓が言うと、じっと顔を見つめたノリは心配そうに眉を下げる。
分かってはいるのだけれど、あまり腹が空かないのだから仕方なかった。
多忙を極めたこの酷暑の夏を、よく乗り切れたものだと自分でも思っている。
「倒れはしてないみたいだけど、梓くん元気ないっしょ」
「んー、そう見える?」
「見える見える。何なら理由もバレバレ。それで今日俺のこと呼んだんでしょ?」
「はは、うん。ノリくんには何でもお見通しだね」
「アニキもさ、そんな感じ。本人は元気だって言うけど、梓くんと同じ顔してる」
「…………」
「あ、ステーキこっちっす」
店員が運んできた食事を手を上げて促し、ノリは礼を言いながらぺこりと頭を下げる。
梓の前にもプレートが置かれ、ノリがテキパキとフォークを渡してくれる。同い年のはずなのに、まるで兄のようだ。
「ほら梓くん、とりあえず食べよ? 話いっぱい聞くからさ、腹が空いてはおしゃべり出来ぬって言うっしょ」
「ふは、初めて聞いた」
時折仕事の話なんかをしながら、ノリの提案通りまずは食事をした。
梓の近況はと言えば、春に受けたオーディションに受かり、それ関係のアフレコや取材などで忙しい毎日を送っている。
ノリのスタジオでのレコーディングもこの夏に一度あったが、怜は休みだったのだろう、姿を見るだけでもと思っていたがそれすら叶わなかった。
ドリンクバーでそれぞれのグラスを満たし、じゃあ本題だねとノリが姿勢を正す。
それに慌てて梓も背筋を伸ばすと、冗談だよとノリは笑った。
気持ちをほぐそうとしてくれているのがよく分かる。ノリは根っから優しく、そして面倒見のいい性格なのだろう。
「怜さんとずっと会ってないんだ」
「ケンカしちゃった?」
「ケンカならまだ良かったのかも。俺が全面的に悪いんだ」
「……ほんとに?」
「うん。もう会わない方がいいって言われて。自業自得」
「…………」
「春の終わりくらいにさ、凄い雨が降った日があったでしょ? 夜からいきなり。あの日――……」
雨音が閉じ込める世界に、怜と二人きりになったような心地だった。空腹を満たし、コーヒーの香りの中で怜から聞く自身への称賛はひどく甘美で。堪らず抱きしめた感触に、もっと先をねだってしまった。怜の優しさに付け込んで、想いを伝えもしないで触れていいか、なんて。傲慢だったのだ。
さすがにキスをした事や触れようとした事までは言いはしなかったが、梓は怜と仲違いしてしまったとノリに話す。
反応を見るに、どうやら怜は少しもノリに話していないようだった。
「んーなるほど。それで?」
「それで……次の日に会いたいってメールしたら、一日空けて返事が来たんだけどさ」
まだあの瞬間も、事の重大さに梓は気づいていなかった。一日も返信がないのは初めてで気がかりではあったが、誠心誠意謝ってそれが伝わったら、好きだと言うつもりだった。
キスは受け入れてくれたのだから、少なくとも嫌われてはいないだろう。そのほんの一ミリかもしれない可能性を掴みたい。覚悟を決めて、約束をもらった夜に怜のアパートを訪れた。
玄関先ですぐに渡された、洗濯された自身の服が入った紙袋。部屋には入れないのだと、見えない距離が生まれてしまったのだと、その時に梓はやっと理解した。
『怜さん、あの……』
『梓くんこれ、貸してくれてありがとう。その……下着は新しいの買って入れてあるから』
『そんな、良かったのに……わざわざすみません。あの、怜さん、俺! ……あ』
悪い予感がしたのだ。ぎこちない空気がまるで今生の別れのようで、そうはさせまいと追いすがるように怜に一歩近づいた。
けれど、びくりと跳ね上がった細い肩を見た時、伝えたかった想いは梓の奥底に沈んで出てこなくなってしまった。口にしても伝わらないと分かってしまったからだ。
怯えさせてしまった。誰より守りたかった大切な人を。
『梓くん。僕達もう、会わない方がいいと思う』
『……俺があんな事したから、ですよね』
『ううん、そうじゃない。僕が悪いんだ。僕のせい』
『怜さんはなにも悪くないでしょ。俺のせいだから』
『ううん、違う。梓くんこそ何も悪くないよ、僕が悪い』
『……っ』
なんでそんなに頑固なのだと、そんな酷い事言えるわけがなかった。そうさせているのは、他でもない自分なのだから。
強張った体を抱きしめることも、今にも溢れそうな涙を拭う事も出来ない。春のあたたかい空気が、怜と梓の噛み合わない心を際立たせる。
友達だと言われたのが悲しかったはずなのに、もうそれすら失くしてしまうかもしれないと恐ろしかった。
『また連絡してもいいですか?』
『…………』
『もう顔も見たくない?』
『…………』
ついにぽろぽろ零れだした怜の涙は、梓がなにを言っても止まらないどころか、いっそう溢れるだけだった。
この手もこの口も、怜を傷つけてばかりだ。
『怜さん、ごめんね。怜さんは自分のせいって言うけど、やっぱり俺はそうは思わないから。泣かせてごめんなさい』
どうすれば怜が笑ってくれるのか考えても、その手段をもう自分は持っていないのだと思い知った。最後にそれだけ伝えて、怜のアパートを後にした。重い扉の閉まる音が、今もずっと梓の耳の奥で鳴りやまない。
身を引き裂かれるような思いというのは、本当にあるのだと刻まれた瞬間だった。
「梓くん、俺泣きそう」
「え? ごめん、重かったよね」
「うーん、そうじゃなくて……俺からしてみればどっちも悪くないと言うか、どっちも悪いと言うか」
「怜さんは悪くないよ」
「あは。梓くんのそんな怖い顔、初めて見たかも」
グラス半分になっていたメロンソーダを、ノリはぐいっと一気飲みする。残った氷をカラカラと躍らせ、頬杖をついたノリが小さく笑った。
ノリみたいな人が怜のそばにいた事を思わず感謝してしまうような、そんな優しい笑みだった。
「アニキに昔なにがあったかは、梓くんも知ってるんでしょ?」
「うん、聞いた」
「それだよ。梓くんに話したって事が、俺からしたらもう大きな一歩に思えるんだよね。いや違うな、アニキが梓くんにご飯誘われて悩んでる時点でこれは……って思ったんだった。いやー俺、やっぱり名探偵」
「ごめん名探偵、俺にも分かるようにお願いします」
困ったように梓が笑えば、ノリも今度は同じように笑う。どこか遠くに目をやる仕草に、梓は静かに耳を傾ける。
「アニキ、春からずっと落ち込んでる。仕事はきっちりやるし、俺達スタッフにも変わらず接するんだけど……ふとした時に泣きそうな顔してた。梓くんと会わないって自分で選んだって割には、この世の終わりみたいな。あの頃の、あの野郎に裏切られた時以上にすら見えてさ」
「…………」
「でもなに聞いても大丈夫としか言わなくて、教えてくれなかった。ただ、俺は梓くんと何かあったんだろうとは思ったんだよね。アニキがそんな落ち込むの、あの野郎のせいなら相談してくれたと思うし。そうじゃないなら梓くん以外想像つかなかったし」
「そう、なんだ?」
「うん。アニキはそれまでずっと梓くんとの楽しかった話してくれてたのに、しなくなったから」
「…………」
「ねぇ梓くん」
梓の名を呼び、ノリはまた姿勢を正す。今度はもうその仕草を茶化しはしなかった。
「俺には二人の気持ちがよく見えます、名探偵なので。でも俺が勝手に言っていい事ばかりじゃないから、ヒントね」
「うん」
「アニキの会わない方がいいって言葉は本音だと思うけど、会いたくないわけじゃない。むしろすげー会いたいくせに、そうしなきゃいけないって思ってる」
「そうしなきゃいけない?」
「うん。アニキが梓くんを信用してるのは明白だよ。じゃなきゃそもそも最初のご飯行ってないし、家に入れるのも以ての外だし。梓くんの存在は、アニキにとってすごく大きかった。現に、凄く自然に笑うようになってたし」
「そっか……それは良かった、かな」
「うん、でも……梓くんや俺、加奈とか、そういう信用してる相手はいても、自分は誰かに好かれる人間じゃないってアニキは思いこんでる。そんな風に傷つけられたから。呪いのようなもんだよね。それに縛られてて、これ以上傷つかないように、って自己防衛みたいな?」
怜の言葉で聞いた怜の傷は、梓の中にも色濃く残っている。梓でさえそうなのだから、当の本人の怜の痛みは計り知れない。
変われそうだと笑った日があったとしても。
「自分のことが信じられないアニキの事、救えるのはきっと梓くんだけだよ。アニキにいっぱい、梓くんのほんとの気持ち、分かるまでぶつけてあげてほしい。俺からのお願いっす」
「ノリくん……」
ノリはそう言って、テーブルに額が付いてしまうほど頭を下げた。
それからすぐに顔を上げて、にやりと笑う。
「梓くんがアニキ好きな事、こんなに分かりやすいのになぁ」
「う……そんな駄々漏れ?」
「うん、すげー駄々漏れ。今にもアニキのとこ、走って行っちゃいそうな顔してる」
「はは、うん」
「これに気づけないんだから本当、悲しいよ。それだけボロボロになったんだよね。前にアニキさ、立ち直ってきた頃に『もう恋はしないんだ』ってさ、すげー綺麗に笑って言ったんだよね。俺見てらんなかった。それくらい傷ついて来た人だからさ、幸せになってほしい」
ぐすりと鼻を鳴らしたノリに、怜へのあたたかな想いを知る。ノリの激励に改めて決意しながら、梓はバッグからあるものを取り出した。
「俺、ちゃんと怜さんに好きって言う。伝わっても、怜さんに好かれるかはまた別問題だけど」
「……鈍いのはアニキだけじゃないんだよなぁ」
「ん? なに? 聞こえなかった」
「ううん、何でもない」
「そう? それでさ、今日ノリくんに時間作ってもらったのは、頼みたい事があったからなんだ。これ」
「ん? これは……?」
紙が入った封筒をテーブルに置いて、ノリの方へ差し出す。首を傾げたノリに向かって、今度は梓が頭を下げた。
「じゃあねノリくん、行ってくる」
「うん、行ってらっしゃい! あの件は俺に任せて」
「ありがとう、じゃあ!」
夜道を駆けてゆく梓を手を振り見送って、ノリは大きく息を吐く。
きっと今夜、何かが変わる。そんな予感が、いつもと変わらないはずの風景を煌めかせる。
「梓くん、腹決まってたんじゃん。かっけ~!」
ひらひらと封筒を夜空に翳すと、何だか無性に加奈に会いたくなった。スマートフォンを取り出し、恋人へとコールする。話して聞かせたら、きっと加奈も自分のことのように泣いて、そして笑うのだろう。
大事な彼らの幸せを、いつだって願っているから。
「ノリくんごめん、お待たせ」
「全然大丈夫」
夕飯時のファミリーレストランは、金曜日なのも相まってかほぼ満席だ。
暦の上では夏も終わったと言うのにまだまだ暑い日々が続いていて、店内はエアコンが程よく効いている。
ノリの手元の随分汗が滴るグラスに、呼んだのは自分なのに悪いことをしたなと梓は思う。
ノリはステーキのプレートと大盛のごはん、梓はチキンサラダのプレートを注文した。それだけで足りるのかとノリは驚く。
「食欲あんまりなくてさ」
「梓くん、ちゃんと食べなきゃダメっすよ」
「うん、そうなんだけどね」
マスクを外しながら梓が言うと、じっと顔を見つめたノリは心配そうに眉を下げる。
分かってはいるのだけれど、あまり腹が空かないのだから仕方なかった。
多忙を極めたこの酷暑の夏を、よく乗り切れたものだと自分でも思っている。
「倒れはしてないみたいだけど、梓くん元気ないっしょ」
「んー、そう見える?」
「見える見える。何なら理由もバレバレ。それで今日俺のこと呼んだんでしょ?」
「はは、うん。ノリくんには何でもお見通しだね」
「アニキもさ、そんな感じ。本人は元気だって言うけど、梓くんと同じ顔してる」
「…………」
「あ、ステーキこっちっす」
店員が運んできた食事を手を上げて促し、ノリは礼を言いながらぺこりと頭を下げる。
梓の前にもプレートが置かれ、ノリがテキパキとフォークを渡してくれる。同い年のはずなのに、まるで兄のようだ。
「ほら梓くん、とりあえず食べよ? 話いっぱい聞くからさ、腹が空いてはおしゃべり出来ぬって言うっしょ」
「ふは、初めて聞いた」
時折仕事の話なんかをしながら、ノリの提案通りまずは食事をした。
梓の近況はと言えば、春に受けたオーディションに受かり、それ関係のアフレコや取材などで忙しい毎日を送っている。
ノリのスタジオでのレコーディングもこの夏に一度あったが、怜は休みだったのだろう、姿を見るだけでもと思っていたがそれすら叶わなかった。
ドリンクバーでそれぞれのグラスを満たし、じゃあ本題だねとノリが姿勢を正す。
それに慌てて梓も背筋を伸ばすと、冗談だよとノリは笑った。
気持ちをほぐそうとしてくれているのがよく分かる。ノリは根っから優しく、そして面倒見のいい性格なのだろう。
「怜さんとずっと会ってないんだ」
「ケンカしちゃった?」
「ケンカならまだ良かったのかも。俺が全面的に悪いんだ」
「……ほんとに?」
「うん。もう会わない方がいいって言われて。自業自得」
「…………」
「春の終わりくらいにさ、凄い雨が降った日があったでしょ? 夜からいきなり。あの日――……」
雨音が閉じ込める世界に、怜と二人きりになったような心地だった。空腹を満たし、コーヒーの香りの中で怜から聞く自身への称賛はひどく甘美で。堪らず抱きしめた感触に、もっと先をねだってしまった。怜の優しさに付け込んで、想いを伝えもしないで触れていいか、なんて。傲慢だったのだ。
さすがにキスをした事や触れようとした事までは言いはしなかったが、梓は怜と仲違いしてしまったとノリに話す。
反応を見るに、どうやら怜は少しもノリに話していないようだった。
「んーなるほど。それで?」
「それで……次の日に会いたいってメールしたら、一日空けて返事が来たんだけどさ」
まだあの瞬間も、事の重大さに梓は気づいていなかった。一日も返信がないのは初めてで気がかりではあったが、誠心誠意謝ってそれが伝わったら、好きだと言うつもりだった。
キスは受け入れてくれたのだから、少なくとも嫌われてはいないだろう。そのほんの一ミリかもしれない可能性を掴みたい。覚悟を決めて、約束をもらった夜に怜のアパートを訪れた。
玄関先ですぐに渡された、洗濯された自身の服が入った紙袋。部屋には入れないのだと、見えない距離が生まれてしまったのだと、その時に梓はやっと理解した。
『怜さん、あの……』
『梓くんこれ、貸してくれてありがとう。その……下着は新しいの買って入れてあるから』
『そんな、良かったのに……わざわざすみません。あの、怜さん、俺! ……あ』
悪い予感がしたのだ。ぎこちない空気がまるで今生の別れのようで、そうはさせまいと追いすがるように怜に一歩近づいた。
けれど、びくりと跳ね上がった細い肩を見た時、伝えたかった想いは梓の奥底に沈んで出てこなくなってしまった。口にしても伝わらないと分かってしまったからだ。
怯えさせてしまった。誰より守りたかった大切な人を。
『梓くん。僕達もう、会わない方がいいと思う』
『……俺があんな事したから、ですよね』
『ううん、そうじゃない。僕が悪いんだ。僕のせい』
『怜さんはなにも悪くないでしょ。俺のせいだから』
『ううん、違う。梓くんこそ何も悪くないよ、僕が悪い』
『……っ』
なんでそんなに頑固なのだと、そんな酷い事言えるわけがなかった。そうさせているのは、他でもない自分なのだから。
強張った体を抱きしめることも、今にも溢れそうな涙を拭う事も出来ない。春のあたたかい空気が、怜と梓の噛み合わない心を際立たせる。
友達だと言われたのが悲しかったはずなのに、もうそれすら失くしてしまうかもしれないと恐ろしかった。
『また連絡してもいいですか?』
『…………』
『もう顔も見たくない?』
『…………』
ついにぽろぽろ零れだした怜の涙は、梓がなにを言っても止まらないどころか、いっそう溢れるだけだった。
この手もこの口も、怜を傷つけてばかりだ。
『怜さん、ごめんね。怜さんは自分のせいって言うけど、やっぱり俺はそうは思わないから。泣かせてごめんなさい』
どうすれば怜が笑ってくれるのか考えても、その手段をもう自分は持っていないのだと思い知った。最後にそれだけ伝えて、怜のアパートを後にした。重い扉の閉まる音が、今もずっと梓の耳の奥で鳴りやまない。
身を引き裂かれるような思いというのは、本当にあるのだと刻まれた瞬間だった。
「梓くん、俺泣きそう」
「え? ごめん、重かったよね」
「うーん、そうじゃなくて……俺からしてみればどっちも悪くないと言うか、どっちも悪いと言うか」
「怜さんは悪くないよ」
「あは。梓くんのそんな怖い顔、初めて見たかも」
グラス半分になっていたメロンソーダを、ノリはぐいっと一気飲みする。残った氷をカラカラと躍らせ、頬杖をついたノリが小さく笑った。
ノリみたいな人が怜のそばにいた事を思わず感謝してしまうような、そんな優しい笑みだった。
「アニキに昔なにがあったかは、梓くんも知ってるんでしょ?」
「うん、聞いた」
「それだよ。梓くんに話したって事が、俺からしたらもう大きな一歩に思えるんだよね。いや違うな、アニキが梓くんにご飯誘われて悩んでる時点でこれは……って思ったんだった。いやー俺、やっぱり名探偵」
「ごめん名探偵、俺にも分かるようにお願いします」
困ったように梓が笑えば、ノリも今度は同じように笑う。どこか遠くに目をやる仕草に、梓は静かに耳を傾ける。
「アニキ、春からずっと落ち込んでる。仕事はきっちりやるし、俺達スタッフにも変わらず接するんだけど……ふとした時に泣きそうな顔してた。梓くんと会わないって自分で選んだって割には、この世の終わりみたいな。あの頃の、あの野郎に裏切られた時以上にすら見えてさ」
「…………」
「でもなに聞いても大丈夫としか言わなくて、教えてくれなかった。ただ、俺は梓くんと何かあったんだろうとは思ったんだよね。アニキがそんな落ち込むの、あの野郎のせいなら相談してくれたと思うし。そうじゃないなら梓くん以外想像つかなかったし」
「そう、なんだ?」
「うん。アニキはそれまでずっと梓くんとの楽しかった話してくれてたのに、しなくなったから」
「…………」
「ねぇ梓くん」
梓の名を呼び、ノリはまた姿勢を正す。今度はもうその仕草を茶化しはしなかった。
「俺には二人の気持ちがよく見えます、名探偵なので。でも俺が勝手に言っていい事ばかりじゃないから、ヒントね」
「うん」
「アニキの会わない方がいいって言葉は本音だと思うけど、会いたくないわけじゃない。むしろすげー会いたいくせに、そうしなきゃいけないって思ってる」
「そうしなきゃいけない?」
「うん。アニキが梓くんを信用してるのは明白だよ。じゃなきゃそもそも最初のご飯行ってないし、家に入れるのも以ての外だし。梓くんの存在は、アニキにとってすごく大きかった。現に、凄く自然に笑うようになってたし」
「そっか……それは良かった、かな」
「うん、でも……梓くんや俺、加奈とか、そういう信用してる相手はいても、自分は誰かに好かれる人間じゃないってアニキは思いこんでる。そんな風に傷つけられたから。呪いのようなもんだよね。それに縛られてて、これ以上傷つかないように、って自己防衛みたいな?」
怜の言葉で聞いた怜の傷は、梓の中にも色濃く残っている。梓でさえそうなのだから、当の本人の怜の痛みは計り知れない。
変われそうだと笑った日があったとしても。
「自分のことが信じられないアニキの事、救えるのはきっと梓くんだけだよ。アニキにいっぱい、梓くんのほんとの気持ち、分かるまでぶつけてあげてほしい。俺からのお願いっす」
「ノリくん……」
ノリはそう言って、テーブルに額が付いてしまうほど頭を下げた。
それからすぐに顔を上げて、にやりと笑う。
「梓くんがアニキ好きな事、こんなに分かりやすいのになぁ」
「う……そんな駄々漏れ?」
「うん、すげー駄々漏れ。今にもアニキのとこ、走って行っちゃいそうな顔してる」
「はは、うん」
「これに気づけないんだから本当、悲しいよ。それだけボロボロになったんだよね。前にアニキさ、立ち直ってきた頃に『もう恋はしないんだ』ってさ、すげー綺麗に笑って言ったんだよね。俺見てらんなかった。それくらい傷ついて来た人だからさ、幸せになってほしい」
ぐすりと鼻を鳴らしたノリに、怜へのあたたかな想いを知る。ノリの激励に改めて決意しながら、梓はバッグからあるものを取り出した。
「俺、ちゃんと怜さんに好きって言う。伝わっても、怜さんに好かれるかはまた別問題だけど」
「……鈍いのはアニキだけじゃないんだよなぁ」
「ん? なに? 聞こえなかった」
「ううん、何でもない」
「そう? それでさ、今日ノリくんに時間作ってもらったのは、頼みたい事があったからなんだ。これ」
「ん? これは……?」
紙が入った封筒をテーブルに置いて、ノリの方へ差し出す。首を傾げたノリに向かって、今度は梓が頭を下げた。
「じゃあねノリくん、行ってくる」
「うん、行ってらっしゃい! あの件は俺に任せて」
「ありがとう、じゃあ!」
夜道を駆けてゆく梓を手を振り見送って、ノリは大きく息を吐く。
きっと今夜、何かが変わる。そんな予感が、いつもと変わらないはずの風景を煌めかせる。
「梓くん、腹決まってたんじゃん。かっけ~!」
ひらひらと封筒を夜空に翳すと、何だか無性に加奈に会いたくなった。スマートフォンを取り出し、恋人へとコールする。話して聞かせたら、きっと加奈も自分のことのように泣いて、そして笑うのだろう。
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