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【第一鐘〜夜の少年と真白き少女〜】

3 ノクスウルフ戦

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 少しだけ時間は遡る。

 ウルフハウンドと戦うトゥリアを眼下に、ライは自分が上っている木の幹へと、身体を預けていた。
 トゥリアがウルフハウンドとの戦いを始める前に見付けておいた、それなりに丈夫な枝の上を陣取った後は、膝を曲げて、背中を幹へと預け座り込む体勢に、ライは自身の不調を自覚していたのだ。
 それは、このイージスの森でウルフハウンドの群れの討伐をするにあたって、ヴェノムモンキーの縄張りを利用した為ではなかった。

 因みに、ヴェノムモンキーとは毒を持つ猿の魔獣であり、単体ではそれほど強い魔獣ではないが、十数匹から数十匹で縄張りを作る厄介さがあった。
 毛皮から、血液。内臓の一片に至るまで、全身のあらゆる部位に強力な毒を持つ為に、人間だけではなく、他の魔獣からも忌避される、そんな存在なのだ。
 故にヴェノムモンキーの縄張りには、余程の事がない限り立ち入る事はない。生息域の植物類に害はないらしいが、何しろ、抜ける毛にすら人が体調を崩す程の毒が含まれているのだ。誰が、好き好んで、そんな場所に近付こうと言うのか。
 けれど、ヴェノムモンキー本体に接触しようとしなければ、軽い解毒薬を飲んでおけば済む。どうしても強力な魔獣の棲息地の近くを通らなければならないとなった時、隣接地にヴェノムモンキーが住んでいる場合は、解毒薬を飲んでヴェノムモンキーの縄張りを行く方が常套とされるぐらいなのだ。

 そう言った事情から今回の依頼に二人は、他の魔獣の横槍を入れさせない為に、ヴェノムモンキーの縄張りを活用する事にし、当然、解毒薬も飲んでいた。
 なのに、今現在、ライは絶賛体調不良中だった。
 そして、この不調の原因には、既に思い当たっていた。
 それはヴェノムモンキーが原因ではなく、解毒薬の副作用と言う訳でもない。このイージスの森と言う場所に基因するもの。
 ライのいるこの場所の土が、生える木々が、吸い込む空気が、その全てが発している“波”が原因となっているのだった。

(ンで、コイツはへーきなンだ?)

 ウルフハウンドとの戦闘が終わり、トゥリアと顔を合わせた今、いっそうにそう思うのだろう。
 気の抜けた顔で青い双眸を瞬かせる様子は、暢気と表現したくなる程に無邪気で、そんな表情こそがまた憎らしく、トゥリアの顔をライは睨むようにして見ている。
 その眼差しに気付いているのかいないのか、トゥリアの反応は普通過ぎて、寧ろ気付いていても気にしていないだけなのかもしれないと思わせる程なのだった。

 気にされていない。ライは抱いてしまった疑惑のせいで、もとから良くない体調に上乗せされる内心の疲労感を感じていた。

 不調の原因として、ライが感じ続けているのは、流れの複雑な川の中に佇む事を余儀なくされる、例えるなら、そんな感覚だった。
 “波”は緩やかに、激しく、逆巻き、渦巻くように。氾濫の一歩手前といったところ。
 けれど自分はどの流れにも飛び込む事が出来ず、かと言って足を取られ呑まれる訳でもない。ただそこにいて放逐されるままに。
 一歩でも前へと踏み出そうとすれば、確実に足もとを掬われると、そう思わせるのに、実際に動いてみても何かが起きる事はない。
 周囲の流れに翻弄され、氾濫しようとしている何か。なのに目に見え、体に感じる物理的な影響は何もないと言う矛盾。
 この感覚のズレは乗り物酔いに近いのかもしれないが、だからと言ってどうこう出来るものでもないのだ。

 乗り物に乗っている訳でもないのに酔いかけている、そんな感覚から、どう言う状況なのか説明しろとただひたすらに怒鳴りたくなる。
 それは衝動で情動。自身の不調に、だからこそライは、トゥリアとウルフハウンドの戦いに、ぎりぎりまで加わらなかったのだ。

(まぁ、そンだけが理由ってワケでもねぇンだが)

 トゥリアに気取られないよう、気を付けては来たが、不調の中でライの思考は散乱する。
 散漫な注意力。だから、その反応をライが気付く事が出来ただけでも幸運だったのだろう。

「っ、ライ!」
「チッ」

 トゥリアの警告をライは舌打ちする事で応じた。
 気付いたライの反応もまた早く、一変させた表情はこれ以上ない程に厳しい。
 対象を認識するよりも早く、一度はジャケット下のホルスターへとしまい込んだリボルバー(回転式拳銃)を抜き放つ初動。
 だが、その時には既に、近すぎる間合いを判断し、距離を取った迎撃を断念せざるを得なくなっている。
 引き金を引くタイミングを得られないままに蹴った地面。身を投げ出すようにした回避動作が、その瞬間のライの精一杯だった。

「オイオイッ、一応防刃仕様ってヤツなンだぞ!いくらすると思ってンだ!」

 唸るように怒鳴ったライは、その時だけは、自分の中の不調をも忘れていたのだろう。

 反射的な回避の動きにより、含まれた空気が、ライの着込んでいたレザージャケットの裾を広げた。
 そして、その直後に、ライがいた場所を通過した大きな影は、磨き上げた鋼色の怜悧な輝きを伴っていた。

 ざくりと、引き裂く音を刹那に、その輝きこそが、ライのジャケットを切り裂いていったのだ。
 一連の結果として、先ほどのライの台詞に繋がった訳だが、自分の身が危険に晒された事よりも、ジャケットの値段に付いて怒鳴るところは安定のライだった。

 その一撃は、特殊な糸により作られた、強靭なジャケットの布地等ではなく、そこにあったのが、例え人の身体だったとしても変わらないと思わせる程の凶悪な光景を見る者に想起させる。

「ッたく、なんだってンだ?!」

 光を飲み込む程の暗い閃きが、呻くライの回避行動を遮る。
 ライは直感に従い地面を転がるが、その眼前を突風が殴り付け、衝撃が全身を殴打していった。
 無理に抵抗する事なく、ライは転がる勢いだけで地面を二転し、タイミングを合わせて、強く右手を地面に着くと、その反動を利用し跳ね起き、直ぐ様体勢を立て直した。 

「ライ!」

 下段に構えた長剣を手に、トゥリアがライの前へと出る。
 銃と言う武器の特性から、中距離ミドルレンジから遠距離アウトレンジをカバーするライを庇える位置をトゥリアは陣取っていた。
 そして、その時になって漸く、ライはその存在を視認する事が出来た。

 先程まで戦っていたウルフハウンドの二倍から三倍といったところか。そこには漆黒の体躯が佇立していた。
 悠然と、だが、視認した次の瞬間にはその姿は消えている。

「ライ」
「問題ねぇ、集中してろ!」

 トゥリアが名前を呼べば、ライは鋭く怒鳴り返す言葉で応じる。

 残像を残すような、素早い動きとは違っていた。
 それは、なんらかの能力スキルによるとおぼしき気配の遮断だろうか。
 そう判断したライの鋭い紫の双眸は、油断なく周囲を窺う。
 目だけに頼らず、同時に駆使して研ぎ澄ましている五感の働きで、捉えきれなかった、正体不明の獣が何処へ行ったのかを全力で探る。

「違う、ライ、上!」

 反射的にしゃがむライの動きに合わせ、振り返る動きと共に頭上へと振るわれるトゥリアの長剣。
 ガキンッと、岩でも殴ったかの様な音と共に吹っ飛ぶトゥリアの身体。
 そちらには目を遣る事なく、ライはトゥリアの作ったタイミングへと合わせ引き金を引いた。

ーダンッダンッダンッー

 轟く銃声。
 だが、手応えを感じてはいない。
 立ち上がりざま、相手の姿を身やる。そうして再び対峙した相手との距離は、三メートル強が確保されていると言ったところだろうか。

 視認したその姿は、先程と同じように、森の木々を背景にして、音もなく佇んでいた。
 外形は狼に近いが、先程トゥリアの戦っていたウルフハウンドよりもやはり二回り以上は大きいであろう個体だった。
 その躯を覆うのは、微かな青みを帯びた漆黒の毛並み。まるで、淡い燐光を纏っているかのような、幽隧で幻想的な佇まいだった。

「ウルフハウンドどものボス。統率体の変異種か?」
「違う」
「あ?」

 体勢を立て直し、先程と同じ位置取りでライの一歩前へと歩を進めたトゥリアが、呟くような声音で、けれどはっきりとライの予測への否定を告げた。

 ライは獣を見据えたまま、続きを促すように沈黙するが、トゥリアがそれ以上何かを言う事なかった。
 余裕がない。ライがその雰囲気を感じ取った時 
、トゥリアが黒い獣を見詰めているように、獣もまた対峙するトゥリアを見ている事に気付いた。
 
 不意討ちからの初撃を防がれて、様子を窺っている段階なのか、獣からの追撃は未だない。だが、違うと言ったトゥリアが動かない今、意図の分からないライもまた動けなかった。

(ウルフハウンドじゃねぇ・・・?)

 油断はしない。けれどライは、この膠着状態の中で、トゥリアが違うと言った言葉の意味を考えていた。
 眇る目で、ライの見る獣は、やはりウルフハウンドと同じく狼に似ている。だが、その毛並みは、ウルフハウンドの持つ茶や、焦げ茶を基本とした色合いとは異なる黒色がベースとなっていた。
 それから、黒とは言っても全身が真っ黒と言う訳ではなく、獣の喉から腹にかけては、その周囲より、やや色素の薄い灰色がかった毛並みが豊かに波打っている感じだろう。
 そしてライは、獣の全身から一点へと、注視する視線を集束させる。

(青い、目だな)

 内心で呟くのは、やはりウルフハウンドのものとは違う、黒い毛並みの帯びた淡青色よりも、更に深い青色の事。
 トゥリアを見る、深い青色の双眼が漆黒の毛並みの中で暗く輝いていた。

 これらの色合いの違いこそが、ライが通常のウルフハウンドの変異種と言った所以だが、トゥリアはそうではないと言った。
 違うと思う等の臆測ではなく、違うとの断定の形をライは気にしていた。

(敵意ってカンジじゃねぇ、友好的なもンでもねぇがな)

 感情を窺う事の出来ない青い瞳は、“獣”と安易に表現する事が躊躇われる程に、どこか理知的で老成した雰囲気すら感じさせる。
 獣の瞳は、その深い色合いの中に、敵意や警戒心等微塵も感じさせる事のない深沈とした静けさだけを湛えていたのだ。

(まるで、上位種の生き物のソレだな・・)

 そんな事を思った時、ふと、ライはその黒い狼の瞳に覚える既視感があるような気がした。
 それが普段、自分が全く同じ色合いの瞳を見ている事から感じた感覚なのだと、そう思い至った時、その既視感は、ライへと一瞬の意識の空隙をもたらしていた。

「バカ、呑まれンな!」

 引き込まれそうになる次の瞬間、ライは声を張り上げた。
 トゥリアと自分自身へ向けた叱咤の声は生存本能に基づいた警告。魅入り、呑まれ、動けなくなっている場合ではないのだ。
 声を上げたライは勿論の事、ライと同じく、獣の瞳に見入っていたトゥリアは直ぐさま我に返り、動き出していた。
 示し合わせていたかのように、トゥリアは右へ飛び、ライは左に地面を蹴って、それぞれの回避行動を行う。
 直後、二人の間に出来た空間へと、漆黒の獣は降り立った。
 予備動作なく、何時動いたと言うのか。二人の回避はただの直感でしかなく、気付けば間近に感じるしかなくなっている、その存在への畏怖。
 だが、ライの感じた圧迫感は一瞬だった。

 ライが目で追う先、足が地面に触れると同時に、更にトゥリアは後方へと飛んでいる。
 だが漆黒の獣は、その体躯からは想像も出来ない程の軽い着地の足音に、鋭くも滑るようにして地面を蹴っていた。
 獣の追撃は、トゥリアの回避よりも更に早く、瞬時に追い縋ると間合いは一気に零となる。
 迫る獣の前肢の爪は、恐ろしい程の鋭利な光をその鋼色に湛え、太くもしなやかな前足により振るわれる爪の鋭さは、トゥリアの着るライのものと同じ素材である防刃仕様のコートどころか、その内側に守られている筈の、トゥリアの身体すらも容易く引き裂いてしまうであろう事を確信させるには十分だった。

ーダンッダンッダンッー

 身体を捻り、ぎりぎりのところでトゥリアは獣の爪を躱す。
 見えた射線に、間髪入れずリボルバー(回転式拳銃)の重い銃声が轟く。
 だがその射線上からは、既に獣の姿もまた完全に外れてしまっていた。
 漆黒の獣は更に地を蹴り、その緩急の差で一瞬の黒い残像を残したかと思えば、射線から外れる為に生じた筈の僅かなトゥリアとの距離すらも、なかったものとするかのように間合いを詰め肉迫している。

(捉えづれぇな)

 声には出す暇すらなかった。
 耳で聞いている、リボルバー(回転式拳銃)のシリンダー(弾倉)から排出される薬莢が地面に落ちて跳ねる軽い音が、トゥリアがぎりぎりのところで前方へと構えた、剣腹が受ける、爪の強烈な一撃により生じた甲高い金属音により掻き消された。

 凄まじい衝撃に、トゥリアの支えた刃から散る燐光の鮮烈な火花がライの視界に弾けた。
 漆黒の獣の前肢を受けた刀真が上げる悲鳴を感じたのだろう、即席の防御が持たないと察したトゥリアは、強引に右方へと流すようにその爪の一撃を弾こうとする。
 それでも半ば以上押し負ける結果になったトゥリアの身体が逆に弾かれ、後方の茂みの中へと背中から吹っ飛ばされていった。
 身体の重みがへし折る無数の小枝。
 小さく裂けて行く、顔や手の甲等の露出している部分の皮膚。だが、それを痛いと思う間も与えないつもりか、迫る強烈なプレッシャー(威圧感)が、トゥリアを選択の余地等ない次の行動に駆り立てる。

 許される行動の選択肢。更に茂みの枝々を折り砕き、転がるようにして、どうにかトゥリアはその後の追撃を回避しきったようだった。
 服の隙間から突き刺さった枝々が痛々しく、そんなトゥリアへと息着く間も与える事なく追い討ちをかけ、のしかからんと上空に射す漆黒の影。

 ライもただ見ていた訳ではない。
 リボルバー(回転式拳銃)へと弾の装填を繰り返し、何回も引き金を引いている。
 だが対象への着弾の音は、まだ一度もない。それ程までに獣の動きは早く、それ以上にトゥリアとの距離が近過ぎるのだ。

 トゥリアの抜け出した茂みをも粉砕する勢いで、漆黒の獣はトゥリアの倒れ込んでいた場所へと前足を振り下ろす。
 後一歩のところで捕らえきる事の出来なかった獲物であるトゥリアの存在にか、次の瞬間には地面を踏み締め、茂みの残骸を蹴散らしてトゥリアへの追撃に、枝葉を粉砕した。
 へし折り、粉々にされる枝葉を気に留める事なく、漆黒の獣は己に襲い来る銃弾すら少しも意に介した様子がない。

 漆黒の獣は、トゥリアだけを獲物と定め、狙っているのではないかとすら思わせる、執拗な追撃を繰り返していた。
 トゥリアの渾身のガードは体ごと弾かれ、身を捩るようなぎりぎりの回避すらもままならない攻防。
 ライの放つ何発もの銃弾は、一瞬獣の動きを遅滞させる効果はあるものの、それだけにしかならなかった。
 生じた動きの遅れは、次の一挙動がなかったものにしてしまい、トゥリアでも致命的に体勢を崩さないように立ち回るのが精一杯なのだろう。

「くっ」

 喉の奥が軋むような声が漏れ聞こえて来た。
 唸るような速度で襲い来る爪や牙には、その一撃をまともにくらってしまえば、それが致命傷に直結するであろう威力を思わせトゥリアを追い詰めて行く。
 その光景にライは決断する。
  唇の端を吊り上げる凶悪な笑みを浮かべて。

「トゥリア!狙うぞ!」
「狙うって・・・って、“アレ”?・・・分かった。引き付けるよ!」

 トゥリアにはライの方を見る余裕もなく、だから、ライの笑みを見る事はなかった。
 声を張り上げ交わされた会話。ライの狙うと言う言葉で、トゥリアは何の事か具体的な所を聞かなくても理解したらしい。
 その決断までの思考は一瞬、少なくとも一瞬の間が必要だったらしいが答えは返され、黒い獣の姿を見詰めていた。

「つーか、お前、後で一発殴るかンな!」
「ええッ!なんで!!」

 笑みを消した後、一応言っておこうとライは付け加えるが、意味が分からなかったのであろうトゥリアからは驚愕の声が上がる。
 だが、その驚きに答えてやる義理はないとライは思っていた。
 ライにはそうするだけの理由があり、自分自身の理由があるだけで、トゥリアの理解が追い付いていようが、いなかろうが、ライには関係がないと思っているからだった。
 それは決して、自分の不調に対する八つ当たりではない。

 そしてライは自分のすべき事を進める。宣言通りトゥリアをボコる為にも。




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