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【第一鐘〜夜の少年と真白き少女〜】
14 誘うもの
しおりを挟む予想していたように、そこには外の景色が広がっていた。
「・・・っぅ?」
立ち眩みのような感覚に、トゥリアは小さく呻きながらも、見上げる場所へと視線をめぐらせた。
薄く目を開いた視界の先には、疎らに生えた木々の広げた枝葉が空を覆っているのが見えた。
その枝葉の向こう、遥か遠い空の彼方に、新月に近くなった細い月が、冴え冴えとした鋭利な青銀の光をトゥリアのいる地上に向け突き刺すように伸ばしている。
(夜、まだ真夜中って時間かな)
月の位置からそう判断すると、トゥリアは仰ぎ見ていた空の光景から、下げて行く視線に沿って周囲の様子を確認し始めた。
最低限だが人の手による管理がされているかのように、この場所の木々は殆ど互いを遮る事なく枝葉を伸ばし葉を繁らせている。そして、そんな木々の連なり立つ夜の森を照らす青い光は、地面に落ちた木々の影すらも青く見せ、その濃淡に差こそあっても、トゥリアの目に映る光景の全てを青色に色付けて見せているのだ。
「・・・・・・」
静寂と沈黙。
通常の森には昼には昼の、夜には夜の営みがある。
どんなに息を殺してみせていても、そこには確かに森に生きる生き物達の気配があるものなのだ。
だが、今、トゥリアが感じているのは、耳が痛くなる程の静寂だった。
息を吸う動作にすらも躊躇いを覚え、静寂を壊さない為の沈黙を余儀なくされる。
トゥリアはフィンと出会ったあの時の、空気の静謐さの中に沈む森の、そんな状況と酷似した感覚を感じていた。
けれど今、あの時の状況とは違い、周囲に霧は立ち込めてはいない。そんな遮るもののない光景に、揺らぎのない湖面の向こう側から見る、澄んだ世界の青色をトゥリアは見ているような気がした。
世界に忘れ去られてしまっているかのような、切り取られたこの場所で、ただ、一人取り残されているかの如き孤独と不安感をトゥリアは抱き、言葉を失い続ける。
「・・・・・・あ」
何かを言葉にしようとして、けれど何も言う事が出来ず、それでもどうにか絞り出した最初の一音。
痙攣する喉による掠れた音。それが精一杯だった。
(・・・なにか、いる)
出せない声。それ以上に声を出してはいけないと、今は本能が警告していた。
瞬時に振り切れた警戒心から、見詰め、目を凝らすようにして窺う青い闇の奥向こう。
その瞬間にトゥリアが感じたのは、気配と言ってしまうのも曖昧な、空気の揺らぎだった。
向けている視線に、ただ一点を見詰め、木々の間に生じている影の重なりへと焦点を引き絞る。
誰何の為に口を開きかけ、けれどそこから先に、どんな言葉を続ければ良かったのか。トゥリアは視線だけをそのままに、無言で腰の剣帯へと収めた長剣の柄に手を添えようとした。
そして愕然とする。
何故気付かなかったのか。そして、どうして忘れていられたのか。
トゥリアが手を置こうとした場所には何もなく、掴む指の動きが空を握った。ある筈の場所、あるべき場所。そこにトゥリアが愛用し続けてきた長剣はなく、空のソードベルトが虚しく吊り下がっているだけだったのだ。
(いつから・・・ちがう、今はどうするかなんだ)
呼吸が自然に浅く、早くなり、自身の緊張を顕著に伝える。
獣の牙や爪にあたる剣は手もとになく、攻撃に転じられるだけの、或いは自身の身を守る為の魔法が使える訳でもない。
衝撃に麻痺した身体の動きとは裏腹に、頭の中はまだ静かだった。意識して深く緩やかな呼吸をし、トゥリアは危機に対して何時でも行動を起こす事が出来るように、けれどそれ以上には身構えるでもなく佇み、相手の反応を窺った。
外に出るべきではなかったのだと今更ながらに思う。
衝動的な自分の浅はかさを呪うが、この段階でドアを再び開き、小屋の中に戻る事は不可能だと思われた。
(後ろを向いた瞬間、意識をドアへと向けたときぐらいに来るかな)
そう予想するトゥリアは、青色が明るさを失い、闇へと沈んで行くその場所を見詰め続けた。
すぅっと、一際闇が深さを増して行くかのような陰影の移り変わり。何時からそこに在ったのか、その闇の中には、深青の双方が一対、音もなく浮かんでいた。
“いる”のではなく“在る”と、“誰”ではなく、“何か”が、それは人のものではない目をしていた。
夜行性の生き物のそれでもあるかのように、暗闇の中で輝きを帯びた瞳は、けれど、その光はどんな意思をも窺わせる事がない。ただ対峙したものを見据え、威圧する、獣の双方だとトゥリアは思った。
(ここの守りや備えはわからないけれど、追い払った方が、いや一旦気づかれてしまったら、次は他の個体と一緒にくるか)
追い払うだけでは不十分で、けれど、倒せるかどうかは不確定。
トゥリアは一応、武器を持たない無手でもある程度は戦える。けれど、戦えるだけだと自覚していた。
次の襲撃の危険性を思うなら、追い払うだけでは駄目なのだが、その手段がないどころか、相手によっては自分の身が守りきれるかどうかすらも危うい。
「・・・・・・」
―ピコ―
「・・・・・・」
―ピコ―
幻聴を疑い、気のせいだと思おうとして、けれど、聞こえてしまった。
青い瞳と対峙したまま、きょとんと瞬きをしようとして、だが、例え一瞬でも相手を視界から消してしまうような、そんな事態こそは踏み留まらなければと気を引き締め直す。
少なくともトゥリアはそうしたつもりだった。
意識して細めるに留めた双方から、それでも一体何の音なのかと考える。音は、トゥリアの対峙する、瞳の方から聞こえる様に思ったのだが、おそらくは間違ってはいないのだろう。そして、一旦気にしてしまった事で、その感覚をトゥリアは自身の疑問として吐き出してしまった。
「・・・ピコ?」
呟いた時、しまったと思ったが完全に手遅れだった。
口の中で呟くに留めなければいけなかったその一言を声として発してしまった瞬間、ピクリと闇の奥で気配が動く。
見詰めたままの視線は一瞬の警戒と緊張に交錯し、けれど聞いた不可思議な、それでいて気の抜けるような音がトゥリアの耳朶奥を疾駆し始める。
―ピコ、ピコ・・・ピコピコピコ―
躊躇いがちに二回。開き直ったのか、意を決したと言うべきか、そこからは更に小刻みに音は繰り返された。
トゥリアはこの不思議な音が足音なのだと、その時になって、ようやく思い至った。
駆ける足音。青い双眸がトゥリアを正視したまま、暗闇の中を近付いてくる。進む距離を、規則的な歩みの音はピコピコと、そうして木々の合間に生じる暗闇が分離するかのように、青い月明かりのもとにその黒い体躯が露わになった。
「・・・うん?」
思わずだが、緊張を忘れてトゥリアは声を発してしまった。
「えっと?」
戸惑いを声にしながらも身構えていたのだが、その生き物が、走る速度そのままにトゥリアへと突撃してくる事はなかった。
トゥリアの正面、二メートル程手前に“それ”はいる。
だから今、トゥリアは自身の勘違いをまざまざと確認させられる事になっていた。
「・・・・・・」
確かに、トゥリアが暗闇の中に見詰めていた双方は、森で戦ったウルフハウンド等のものよりも、だいぶ小さく見えていたし、低い位置にあったようにも思う。
けれどそれは、森の中の事で高低差も一定ではない筈だし、相手との距離があるからだとそう思っていた。
だが結局のところ、その考えはもの凄く間違ったものだったらしい。
何故なら、今、戸惑うトゥリアの目の前で足を止めた“それ”は、小動物のようにくるりとした深い青の双方でトゥリアを“見上げて来て”いるのだから。
木々の合間に射し込む青い月明かりのもとで、漆黒の毛並みが帯びる青灰色のくすんだ色合い。
自分で歩み寄って来た筈が、今更トゥリアの存在を警戒でもしているのか、持ち上げられたまま微塵も動きを見せる事のない、ふぁさふぁさで、もふっとした見た目の尾。
そして、凛々しくぴんと尖ってはいるのだが、如何せん雄々しいと思うにはあまりにも小さく心許ない耳。
今、トゥリアの目の前にいるのはどう見ても子犬だった。いや、もしかしたら狼の子供なのかもしれないが、少なくともトゥリアには子犬に見えたのだ。
ピコピコと数メートルの距離すらも何度も足音をさせなければ近づいて来れないような歩幅で歩む子犬は、遠くからトゥリアを見ていた訳ではなく、存外近くにいたのだろう。
「え、と?」
沈黙からもう一度発した声は困ったような響きで、緊張していた分、気の抜けた微苦笑が滲み出てしまう。
勿論、このイージスの森にいる獣なのだ。安心しきって良い筈がない。
子供の内から人を簡単に食い殺せるような魔獣だっているし、この子犬自体にそこまでの力がなかったとしても、何処かに親がいないとも限らない。寧ろ種族的に子供を大切にする犬や狼類ならば、いない方がおかしいのだ。
そう、子育て中の親は恐い。
トゥリアにも経験があるのだ。探索中に入り込んでしまった狼の縄張りで、時期外れの子育てをしていた雌のいる群れに遭遇した事が。
必死の思いで逃げ回る事半日程、発見した急流へと飛び込み、ようやく事なきを得たのだ。
あの時、トゥリアは、生き物は、我が子や群れの子を守る為なら、多少の力関係等関係がなく、自身の身を省みる事も良しとしないのだと身をもって学習させられた。
警戒はそのまま、けれど、今は少なくとも、目の前の子犬から感じる驚異はなかったし、殺気だった子育て中の親や群れの気配も感じられなかった。
どうしたものかと、動けないまま子犬を見詰める。
そんなトゥリアの様子に何を思ったか、黒い子犬は突然トゥリアに背中を向けると尾を一振りさせた。
自身の尾の向こうから、首だけで振り返り、子犬はトゥリアを一瞥する。それから、来た道を戻るように歩き始めた。
トゥリアはその姿を見送る。
取り敢えず黒い子犬にトゥリアやこの家への害意はないらしいと思った。
だが、何故わざわざトゥリアの前に姿を現したのかと、その理由までは分からない。
ーピコ、ピコ、ピコー
訪れた時と同じ、気の抜けそうな足音が遠ざかる。
ーピコ、ピ、ー
止まる足音。
黒い子犬はもう一度振り返り、木々の影へと消えようとした体躯を引き留めると、その青い双方で再びトゥリアを見上げて来た。
トゥリアもまた見詰め返し、最初の遭遇と同じように、青い瞳に互いの姿を映し眼差しを交錯させる。
「う、ん?着いて行けばいいの・・・?」
そんな気がしてトゥリアが聞いてみると、その問い掛けに対する答えなのか、黒い子犬はトゥリアを頭だけで振り返ったまま、尾を一振りさせた。
(肯定ってことでいいのかな?)
そう受け取ることにしたトゥリアは、浮かべる曖昧な微苦笑にも子犬へと頷いて見せる。
そんなトゥリアの反応に納得したのか、黒い子犬は再び例の気の抜ける足音と共に歩き出した。
縫いぐるみのような見た目に反し、トゥリアを見た無感動な眼差しを思うと、やはり普通の子犬ではないのだろうと思う。
ついて来いと言わんばかりの仕種に愛想はないが、ふさふさの尾を揺らしながら歩く、子犬サイズのその姿にはやはり愛嬌がある。
実のところ思わず撫でてみようか等と思ったりもしていたのだが、そんな自身の衝動には気付かないふりで、どうにかやり過ごしたトゥリアは子犬の後を付いて歩き始めた。
子犬の意図も目的もトゥリアには分からなかったが、フィンのいるこの家から離れてくれるのなら今はそれで良いと思ったのだ。
ピコピコと黒い子犬の足音は特徴的で、なのに意識を向け続けてていなければ、音はトゥリアの聴覚に残る事なく消えてしまう。そんな不思議な感覚にトゥリアは気付いた。
森に満ちる影の闇へと溶け込み、気配は拡散する。黒い子犬の何処か希薄な存在感がトゥリアの後に付いて行こうとする動きを戸惑わせる。
普通に考えても夜の森の中、黒い毛並みの子犬の姿を追い続ける事は神経を使うと思ったのだが、子犬はトゥリアとの一定の距離を保ったまま、つかず離れずと言った感じで歩いていた。
何処へ向かっているのかは分からないが、まるでそこに実体のない、蜃気楼でも追いかけているかのような曖昧で漠然とした感覚が付きまとう。
けれど、森の奥とおぼしき方角へと誘われ行くのをトゥリアは感じていた。
現在位置も分からず、方向感覚も判然としない。だからそれはトゥリアにとって本当に感覚的なものでしかなかったのだが、何となく“外”には向かっていないとそう思えたのだ。
子犬を見失わない範囲で周囲に目を向けながら歩くが、目印に出来そうなものはなく、今引き返したとしてもフィンのいる小屋まで戻れるかもトゥリアには自信がない。
「僕を、どこに連れていきたい?」
現状の深刻さを思い、なのに緊張感に欠けた声音でトゥリアは尾を揺らす後ろ姿へと聞いてみた。
「・・・とりあえず、待ち伏せとかじゃないよね?」
当然と言うべきか、そんな問いかけに答えがある筈もないのだが、振り返るぐらいしてくれても良いのではないかと、トゥリアは子犬の後ろ姿に苦笑する。
振り返ってはくれないが、それでも子犬がトゥリアの同行に気を配っているらしい事は感じていた。
子犬の小さな体躯では問題にならない位置の枝や茂みの隙間を、トゥリアは避けたり、掻き分けたりといった余分な動作で越えて行く必要がある。けれど、子犬の姿を見失う事はなく、そもそもの子犬との距離すらも一定のままなのだ。
だから、子犬にはトゥリアに何等かの用があるのだろうと思うのだが、それが警戒心を抱かせない子供を囮に、餌である人間を釣る。そんな用件だったらどうしようかとも考えてしまうのだった。
(どこまで・・・)
何処までついて行けばいいのかと、そんな事を考えようとして、トゥリアは何度目とも知れない断念を余儀なくされていた。
付いて行くと決めたのはトゥリア自身で、会話が成立しない子犬が相手では、答えが得られないと分かってはいるのだ。
移動を始めて、十分か二十分か、そんな時間の感覚すらも曖昧で、どれだけの距離をどの方向に移動して来たのかすらも分からなくなっていた。
それどころか、子犬は途中から先を急ごうとするように駆ける足を早めてしまい、まるで、闇の中を滑って進んでいるかのような錯覚すらもトゥリアに与えていた。
付いていけなくはないが、見失ってしまうかもしれないと、気が抜けないのだ。
トゥリアの方を振り返りもしない子犬、その黒い子犬の足音だけが、単調で規則的なリズムを重ねている。
夜と闇に埋もれた木々のシルエット。
頭上を覆う木々の枝葉から、何処にあるのかも分からない月の光が僅かに零れ、道行きを照らすと言うよりも影を深める様子。
変わらない光景が、道なき道を進むトゥリアの距離感と方向感覚を狂わせ、時間の感覚をも鈍感させる。
(気配がない)
何処まで行っても、人どころか夜行性の獣、虫、あらゆる生き物の気配を感じる事は出来なかった。命の息吹きと息づく全ての有り様を喪失させてしまった場所をトゥリアは思った。
それは、夜の静寂の中にあると言うより、自分達以外の、全てのものの時が止まってしまっているかのような錯覚を覚えさせる。
(結界・・・違う、領域?)
頭だけは働かせ続けて、思考が鈍くなって行ってしまうのを抑制する。
生き物達が息を潜め、眠ってしまっているのではなく、時の流れそのものを忘れ去ってしまっているかのようなこの場所の異常性。
何か特別な力が働いているか、特殊な環境下にでもあるかのように・・・
その光景の終わりは唐突だった。
進路を塞ぐように佇立する樹木の一本を、前を行く子犬に習って右へ避ける。そこから、更に踏み出した一歩に、刹那、トゥリアの視界に澄んだ闇と、薄い青の色彩が広がった。
「森を、抜けた・・・?」
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