空白の叙事録〜誰が忘れた罪禍の記憶〜

羽月明香

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【第一鐘〜夜の少年と真白き少女〜】

30 契約の行方

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 誰かの視界に入ったとしても、そこにいると気付かれる事はなく、誰かが自分の上げた声を耳にしたとしても、その言葉を聞く事はない。
 こちらから手を伸ばして、その指先が触れたとしても、それは肌を撫でる風程も認識される事がないのだから。

 それはとても怖い事で、けれど、それはとても・・・・・・


ーグラシアスー

 聞いた声にトゥリアは、はっと目を見張らせる。そのまま緩慢な瞬きを繰り返し、目の前の光景へと意識を引き戻して行く僅かな間での認識。

 声はフィンのもの。それは間違いがない。トゥリアも既に聞き慣れつつある、抑揚に欠けていて感情を窺わせる事のない声だったのだから。
 フィンの声は、直ぐにそうだと分かる程の感情を持たず、なのに硬質的で澄んでいて、耳に心地良い音の連なりを言葉として紡ぎ出して行く。

 トゥリアの意識は自身のとりとめない思考の中にあって、けれどトゥリアの目は確かにその様子を見ていた。

 怒りの発露に声をあらげられた訳でも、発せられら声が不快感を思わせるかのような、咎めるような響きを内包させていた訳でもない。
 なのに、その瞬間に全てが動きを止めていた。
 呼吸する事すらも制される凛と張り詰めた空気。カクリノラスは、その一言を聞いた瞬間に全ての動きを止め、上げられていた尾は強く股の間に挟まれ、大きな体躯を支える四肢の動きから尖った耳の先端、そして見開かれた暗い双方の中に留まる瞳孔の揺らぎまで、その全てを硬直させていた。
 それはまるで、少しでも動いたら死んでしまうとでも言うかのようだと、トゥリアの瞳には映っていた。

 死んでしまう。何故自分がそう感じたのか、それはトゥリア自身もまた、カクリノラスが感じているであろうものと同じものを感じていたからだった。
 同じで、けれど違う。その違いは、直接を向けられているものと、そばで感じているだけであるものの差だろう。
 トゥリアは瞳すらも動かす事なくフィンを見ていた。視界の中にフィンはずっといて、だから、フィンがカクリノラスだけを今は見ているのだと分かる。

 空気どころか、時すらも、その全てが動きを止めているのだと錯覚するかのようなその場所で、けれど、トゥリアはその瞬間にふっと空気が和らぐのを感じた。

「グラシアス」

 フィンは再びそう告げ、そして、動かす左手に人差し指の背でカクリノラスの顎から頬を撫でるように動かしていった。
 トゥリアは見ていたその光景に、意識しないまま目を見開く。

 一変し、柔らかな、穏やかさすらも感じさせる眼差しがカクリノラスへと向けられていた。
 そして、一回二回と指の背が撫でて行くカクリノラスの頬の毛並み。
 それは、まるで誉めるようだとトゥリアは思った。


「グラシアス、私が呼ぶ貴方の名前」

 告げられる言葉にフィンを見るカクリノラスの双方が揺れ、そして口もとが笑みを刻み直す。恍惚とした笑みと愉悦すら感じさせるカクリノラスの眼差しがフィンを見ていた。

 トゥリアが誉めているようだと感じた様に、それは正しく誉められて嬉しいと告げているように、トゥリアには見えた。
 そして、カクリノラスを見るフィンの眼差しが、何かを問うような、それでいて、何かを試すかの様に細められる様子を見ていた。

ー是ー

 告げて、そしてカクリノラスはその鼻面をフィンの頬へと擦り付ける。
 フィンにカクリノラスではなく、グラシアスとそう名前を呼ばれる事、その事自体にこれ以上ない程の価値があるとでも言うかのように。

 全てを見ていたトゥリアは、これこそが、フィンの提示した望みの対価であり、是とカクリノラスが答えた事で、契約が成立したのだとそう分かった。



※※※

 カクリノラスはまだそこにいて、地面に伏せた状態で目を閉じていた。
 トゥリアはコテージの階段に座り、そんなカクリノラスを眺めているが、フィンの姿は今、トゥリアの視界の及ぶ範囲の何処にもない。

 あの後フィンは、準備ある。と、その端的な言葉をトゥリアへと告げると、一人、コテージ横の小屋へと入って行ってしまったのだ。
 トゥリアが手伝いを申し出る間もなく、一度閉ざされた小屋のドアはトゥリアが外から声をかけようと開かれず、思いきって開けてみようとしても何故か、微塵も動く事がないと言った具合で、現在トゥリアは完全に手持ちぶざたと言った状態だった。

 裏の畑の様子を見に行く事も考えたが、カクリノラスが帰る事なくそこにいると言う事で、トゥリアもその場に留まる事にしたのだ。
 何かされる事を心配して目が離せなかったと言うより、ただ何となくと言った、理由とも呼べない理由だったのだが、トゥリアはコテージの三段ある階段の一番上に座り、ようやく伏せた状態で合わせる事の出来る目線の先を見ていた。

「ねえ、聞いてもよい?」

 意を決してと言うよりも、ごくごく自然にトゥリアは問いかける。
 静けさに堪えかねた訳でも、何等かの情報を求めた訳でもなく、ふと、丁度良いかと思ってしまったのだ。
 けれど、寝ている訳ではないのだと思うが、カクリノラスが目を開き、話しかけたトゥリアを見る事はなかった。

「聞いてもよい?グラっ・・・」

 問いを重ねて、トゥリアはフィンがそうしたように、カクリノラスではなくてグラシアスとそう呼ぼうとする。だが、その瞬間に薄く開かれた双眸へと宿されていたものが、それを許可しないのだと、明確に告げていて、トゥリアは苦笑の中に声を途切れさせた。

「やっぱりあれは君の名前で、その名前が特別って言うのもそうなんだろうけど、あの子が呼ぶって言うのもきっと意味があるんだよね?」

 代わりと言うように、トゥリアが再び口を開いた時には、もう向けられた視線や、許しがあるのかどうか等気にする事なく、そう問い掛ける言葉を投げ掛けていた。
 カクリノラスの暗く淀みを湛えた双眸が、退屈そうに、それでも再び閉ざされる事なくトゥリアを見る。

「それでも、爵位持ち、それも伯爵位のカクリノラスが喚び出しに応じるあの子はなに?」

 言葉を待っているどころか、意にも返していないと言うより、そもそもが歓迎されていないと言ったところか。眼差しだけで分かってしまう、そんなカクリノラスの反応がトゥリアには少し意外だった。
 カクリノラスにとってトゥリア等眼中にない、気にも留める必要がない、そんな存在だと思っていたのだ。
 契約者であるフィンとのやり取りに雑音を交えさせようとする羽虫。それだけの存在感すらもあったかどうか、トゥリアの存在等、カクリノラスにとっては戯れるように意識を向ける、それだけで散り散りに出来るのであろうとそうトゥリアは確信していた。
 けれど、トゥリアはそう問いを発する。カクリノラスに対する怖れより何より、知る事を求めずにはいられなかったのだ。

「今回のことにあの子はカクリノラスの力が必要だって判断してカクリノラスをここに喚んだ」
ーレディニ我ハ必要ナイー
「・・・ん?」

 フィンの入っていった小屋のドアへと目を向け、それからトゥリアを退屈そうな眼差しで一瞥する。

 それは、戻って来る様子のないフィンに、暇潰しぐらいの感覚だったのだろう。目だけで露骨にそう伝えて来るカクリノラスの様子に、トゥリアはそれでも良いと思っっていた。
 思ってはいたのだが、カクリノラスの告げたその一言の意味をはかり兼ね、反応が上手く出来ない。

 そして、そんなトゥリアへと向けられるのは、嘲笑うように歪められた口と侮蔑を伝える眼差しだけだった。
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