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ボタンを投げつけられた件。

お前がそんな顔をするから、俺は。

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 この世のすべての部長のかがみである部長に、御津代みつしろと向き合う勇気をもらった翌日。
 奇しくも一学期の終業式がある日だった。

 今日を逃せば、御津代と話ができるのは夏休み明けまで先延ばされてしまうだろう。
 このモヤモヤとした気持ちを、せっかくの夏休みに抱えていたくはない。

 いや、第五ボタンに込められた意味が気になるって話だ。
 男女の色恋みたいな、くすぐったいものではないからな?

 一限目の全校集会が終わってすぐ、俺は隣のクラスに急襲していた。
 今日は一学期の最終日であるから、二限目のホームルームが終わったら放課後を迎えてしまう。
 確実に御津代を確保できるのは、この時間、教室に大勢の生徒がひしめいている今しかないのだ。

「ごめん、御津代さんに用があるんだけど、呼んでもらってもいいかな?」

 廊下側の席に座っていた女生徒に、紳士を装って声をかける。
 すると、この女生徒は少し驚いた表情を見せたあと、みつはちゃーん、と教室に響く大きなソプラノボイスで御津代を呼んだ。
 どうやら、クラスでは御津代と懇意にしてくれている子もいるようだ。
 うん、実はけっこう心配していたから、お父さん嬉しいぞ。

 しかし、声が大きすぎやしなかっただろうか?
 教室が水を打ったように静かになって、数十の視線がこちらを射貫いぬいているのだが。
 目立たずに平和な学校生活を送りたい俺としては、ちょっと居心地が悪いな。

 視線のうちのひとつが、真っ赤な顔をしながら向かってくる。
 他の視線のほとんどが好奇の性質を宿しているのに対して、向かってくる視線には、明らかな殺意が見て取れる。

「ありがと……」

 殺意の波動を放つ視線の主は意外にも、自分を呼んだ女生徒にぼそりとお礼を言う。
 ゆあうぇるかむー、と片手をひらひらさせて女生徒が返した言葉が、英語の「どういたしまして」だと思い至る前に。
 俺の首根っこは御津代に引っつかまれて、廊下に追い出されていた。


    ◇◆◇◆◇


「――俺が悪かったのか?」

 廊下の端の方で、俺は痛む首をさすりながら、まだ顔の赤い御津代に文句をぶつける。
 すると、いつもだったらぶつけた数倍の文句が返ってくるところだが、今日の御津代はひと味違うらしい。

「なにしに来たのよ……?」

 なんだか殊勝な表情を浮かべて、精一杯の強がりですと言わんばかりの言葉を紡いでくる。

 こいつ、こんなに小さかったっけ?
 いつも座った状態で向かい合っていたためか、目の前の少女が御津代だと認識するのに時間がかかった。
 どれだけ罵られようともボタンの謎を解き明かしてやる、と息巻いていたのに、調子が狂うなぁ。

「いや、なんだ……とりあえず、この前のボタンを返そうと思って」

 ポケットに入れていたボタンを、手のひらに載せて御津代に差し出した。
 ただのボタンとはいっても学校指定シャツのものであるため、簡単に捨てるのははばかられたのだ。
 それと、自然にボタンの話に持っていけるようになるのではという小ずるい考えもある。

「えっ……」

 俺が取り出したボタンを見た御津代が、微かな疑問を発して顔を上げた。
 その表情に浮かぶのは、ボタンなんて大したことのないものをわざわざ返される困惑、ではなく。
 廊下に差し込んだ夏の日差しが瞳の中で揺れ動き、御津代はそれに耐えている。
 いや、こんな表情を見たことはないから憶測でしかないのだが。

 御津代は、悲しげだった。

 いま、俺の方はどんな表情をしているのだろうか。
 御津代が顔を俯かせたから、わからなくなってしまった。

「そう、わかった……」

 俯いた御津代が、感情の抜け落ちた声を出す。
 そして、ゆっくりと持ち上げられる、すらりとした白く細い手。
 俺の手のひらから、するりとボタンを取り去っていく。

 ちょっと待て。
 ボタンを返してから、第五ボタンの真意を聞く?
 ああ、なるほどそんな意味があったのか気付かなかった――どれだけのマヌケだ?
 そんなマヌケが、御津代の向かいに座っていられるのか?

 あんた、キモいだけじゃなくて頭にウジが湧いていたのね。
 哲学的ゾンビってやつ? 違うか、本当に腐ってるならただのゾンビね。
 ふん、近寄らないでくれない? キモいのが感染するでしょ?

「んっ……?」

 気付くと、俺はボタンを持ったまま手を握り込んでいた。
 持ち上がった御津代の手は行き場をなくして宙を彷徨さまよい、その持ち主が困惑していることを表す。

「……ちょっと、なによ?」

 ボタンが取れなくなってしまった御津代は、少しだけ怒気を覗かせる声を上げた。
 俺は図らずも、返すフリのいたずらをしてしまっていたようだ。

 しかし、御津代の怒った声が俺の意識にハッパをかける。
 さっきまでの殊勝な姿も悪くはないが、やはり傲岸不遜であればあるだけ御津代は。

「なあ、このボタン、上から何番目だった?」

「え、五番目……」

 俺の突然の問いに、御津代は戸惑いながらも答える。
 その返答は、早かった。
 ボタンの位置を意識していなければ不可能であったと思われるほどに。

「五番目なことに意味があるんだな?」

「ぁっ……し、知らないわよ、そんなの」

 矢継ぎ早に質問すると、御津代は焦ったようにムッとした表情を浮かべた。
 自分でやっておいて知らないという矛盾が、かえって確信に近付ける。
 御津代はそのことに気付いているのか、不満そうに口をとがらせた。

 ただ、まだ俺はボタンに込められた意味を解くに至ってはいない。
 少しでいい、時間が欲しかった。

「御津代、お前……夏休みの間は、部室来ないのか?」

 焦ってしまったのだろうか、わりと直接的な誘いになってしまう。
 御津代が、俺の言葉に含まれた意味を探るように、その澄んだ眼差しでじっと見上げてくる。

 裏なんかねえよ、お前に部室に来てほしいだけだ。

「……そんなに見んな。来るのか来ないのか、どっちだ?」

 御津代の上目遣いに堪えられなくて、俺は顔を逸らしながら聞いた。
 すると、御津代は「んー」と小さな声で考えこみ、そして告げる。

「あの部屋暑いし、行かない――」

 もしかしたら、俺は相当にショックを受けたような顔をしてしまっていたのかもしれない。
 くそぅ、俺の顔を見た御津代は小悪魔的ににやりと口角を上げ、言葉を続けた。

「でも、忘れ物があった気がするから、明日は行く」

 近くで見る御津代の笑顔は、正直、口が悪いとかひねくれているとかどうでもよくなるぐらいに――だった。

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