79 / 102
その六 最澄、登場!
四
しおりを挟む
空海と最澄。二人の巨人が森の中で相まみえた。
「空海殿とお見受けしましたが、間違いでしょうか?」
最澄である。
「その通りですよ、最澄さん。俺は空海です。あんたみたいなお偉い方が、俺を知っているとは驚きですね」
空海が答えた。
最澄は天平神護二年(766年)の生まれ。
空海より七歳年上である。
実は空海と最澄の二人は同時期の遣唐使船に乗り、唐に渡った仲である。最澄が第三船、空海は第四船であり、同じ船で渡ったわけではないが、日本を出発する時に、お互い顔くらいは見ていたのではないか。
日本を出発する時点での、空海と最澄の「身分」には雲泥の差があった。
最澄は、桓武帝から既存の奈良仏教に対抗する「新しい仏教の旗手」として期待され、勅命による留学であり、最澄の留学費用は全て国費でまかなわれた。最澄の公費は正使の倍近くという例を見ない手厚さであった。
一方の空海は、私費で唐に渡る無名の留学僧。比較にもならない大きな隔たりがこの二人にはあったのである。
「物の怪を取り逃がしたのですが、空海殿たちが始末をつけてくれたのですね。礼を申し上げます」
「いいや、俺たちも手を焼いて逃がしてしまった。追っかけていたら、サトリの奴がこちらに走ってきたので、倒せただけ。最澄さんたちから逃げ出したという事か。どうりで血相を変えていたわけだ」
空海、田村麻呂、やお、最澄、そして三人の僧の計七人が集まった。結界を破られた一人の僧侶はうずくまったままだ。
「御山に戻ります。誰か円覚を連れてきなさい。私に、いつまであのようなぶざまな姿を見せておくのです!」
切り裂くような最澄の声に、弟子たちが一斉に走り出し、円覚という僧を囲んだ。
「おい円覚、立てよ。俺たちまで怒られるだろっ」
一人の弟子が円覚を立たそうとするが、円覚は動かない。
「何してんだ!子供じゃないんだから、早くしろよ。最澄様のご機嫌が悪くなる。早く立てって」
別の弟子が円覚の脇に手をまわし、立たそうとするが、円覚は動こうとしない。
「おいっ、いい加減にしろよっ。いつまで強情はってんだっ。うおっ」
円覚を立たせようとした三人目の僧が、突然うめき声をあげ膝からストンと落ちた。
「げほっ」
「ぐわっ」
他の二人の僧も声を上げて、のど元を押さえ倒れる。うめき声をあげ、転げまわっていたが、その動きもすぐに止まった。三人の体から大量の血が流れ、地面が赤く染まっていく。
円覚が立ち上がる。右手には血まみれの肉片を握っていた。
僧たちは円覚に一瞬にして、のど元の肉をえぐり取られたのだ。
「延生!光然!義空!」
最澄が声をあげた。
「・・・私は頑張っていたんだ・・・。最澄様の弟子として恥ずかしくないように・・・。誰よりも、誰よりも頑張っていたんだ・・・。認めてほしかった・・・。『よくやった』と言って欲しかっただけなのに・・・」
円覚がぼそぼそと誰に言うでもなく、呟いている。
「・・・だけど、だけど駄目だった。四無行が出来なかった。結界も張れなかった・・・。化け物は私を、俺を『腑抜け』と言いやがった・・・」
円覚がゆっくりと顔をあげていく。
どこかおかしい。人の口はあのように大きかっただろうか?
何か光った。歯が光ったのだ。いや、歯ではない。もはや牙だ。
真っ赤な目が吊り上がる。そして、何と言っても異様なのは・・・。
「最澄さん、あんたの弟子はもはや人間ではないぞ」
空海がそう言いながら身構えた。
「何だと!どういうことだ?」
「化け物は俺を『腑抜け』と言い、あんたからは『ぶざま』と言われた。あんたそう言ったよな?頑張っている弟子を『ぶざま』だってな?」
円覚の頭が尖っているのだ。頭に小さい突起が二つある。そうそれは角だ!
角が生えている。
円覚は鬼と化していたのだ!
「ああ、おれは『ぶざま』さ。最澄の弟子失格だ。俺はあんたの様にはなれない。最澄にはなれないんだ。けどもういい。あんた、『誰でも仏に成れる』って言ってたよな。そんなの嘘だ。そんなことあるはずねぇんだよ。だって俺は・・・・」
円覚が真っ赤な目を最澄に向けた。右手に握っていた血まみれの肉片を口に運び、くちゃくちゃと音を立てて咀嚼する。
「俺は鬼になったんだからな。最澄、お前もなってみろよ、鬼に。仏になるよりよっぽどいいぞ」
「空海、こんなことがあるのか?人は鬼になるのか?」
田村麻呂は視線を円覚に向けたまま、空海に尋ねた。人肉を食べる円覚を嫌悪に満ちた目で見つめている。
「人の力を甘く見てはならない。人は仏に成ることが出来る。そして鬼になることも出来るんだ。人の持つ力はとてつもない。田村麻呂、やお殿、そろそろ来るぞ。気をつけろよ」
空海はそう言うと、懐から三鈷杵を取り出し身構える。
田村麻呂は太刀を、やおは短刀を握りなおした。
「円覚・・・・」
最澄は悲痛な顔をし、立っている。
「鬼だ。俺は鬼だ。鬼はいいいなぁ。仏よりも全然いいぞぉおおおおおおお」
円覚が最澄にとびかかった。最澄は立ちすくむ。
「破っ」
空海が気を円覚に向けて放った。円覚が吹き飛ぶ。
ササササササ
滑り込むように田村麻呂の大きな体が動く。サトリの首を投げつけ、太刀を円覚に叩き込む。
「ぐわっ」
円覚の胸から青い血が流れる。
が、円覚は笑っている。
「気持ちいいなあ!切られても、血が流れても痛くないぜ。鬼はすごい。鬼は最高だなぁ」
円覚が笑いながら田村麻呂に向かう。田村麻呂が剣を突き出す。胸に刺さった。
「痛てっ」
円覚は胸に剣が刺さったまま、右手を大きく振り上げ、田村麻呂をないできた。
田村麻呂は慌てて剣を引き抜き、飛びのく。
「痛てえなあ、あんた。俺が鬼でなかったら、死んじまってるだろう」
円覚は笑っている。「痛い」と言いながら、何も感じていないかのようだ。痛みの感覚が欠落している。いや、もはや「人」の感覚さえ無くなってしまったのだ。
空海が右拳を突き上げる。火球を放とうとしている。田村麻呂が左足を前に出し、臨戦態勢に入る。やおは前に出て、最澄を守る。
最澄がやおの脇をぬけ、円覚に歩み寄って行く。
「最澄さん、下がれ。かみ殺されるぞ!」
「あんた、危ないよ!殺されちまうよ!」
空海とやおが叫ぶ。しかし最澄は歩みを止めない。
「最澄ーっ」
円覚が最澄に飛びかかる。
最澄は円覚を抱きしめた。
「弟子を鬼にしてしまった。『ぶざま』なのはこの私だな」
最澄が静かに、そして哀しみに満ちた目で、円覚に話しかけた。
「最澄ーっ。俺は鬼だぁーっ。鬼なのだぁああああ」
ゾブリ ゾブリ ゾブリ
円覚が最澄の左肩に噛みつき、歯を立て、最澄の肉を嚥下していく。出てきた血をすする。
最澄の上半身が血でずぶぬれになっていく。
最澄がしっかりと円覚を抱きしめているために、空海も田村麻呂も手が出しようがない。
「最澄さん、放せ、放すんだ」
空海の声が聞こえないのか、最澄は抱きしめたままだ。
「円覚、お前は私の弟子だ。大切な弟子だ。お前が私を食い殺したいというなら、望むようにしてやりたい。・・・だがな、私にはやらねばならぬことがまだまだある。今、殺されてやるわけにはいかぬのだ。すまぬな」
そう言って、最澄は円覚を引き離した。
美しい瞳が悲しみに満ちている。
円覚が噛みつこうとするが、出来ない。
最澄の力に抗えないのだ。
「円覚、先に逝け」
最澄が右拳を円覚の顔面に叩きつけた。
グシャ
鼻がつぶれ、数本の歯が飛び散る。
円覚がのけぞり、数歩下がった。
ススス ススス
最澄が間合いを一気につめ、右の手刀を円覚の首に叩きつけた。
「えっ」
円覚の顔に驚きの表情が浮かぶ。その表情のままで円覚の首が飛んだ。
何と最澄は手刀だけで、鬼の首を斬り落としたのである。
「おのれーっ、最澄!俺は死なんぞ。お前を喰らいつくすまで俺は死なんぞ」
円覚は首だけになりながらも牙をむき出し、最澄を睨む。
最澄はそんな「円覚」を全く怖れる様子を見せずに拾い上げた。
そして「円覚」に顔を寄せる。
「円覚、我が弟子よ。さらば」
最澄の両腕に力が入った。
グシャ
「円覚」が粉砕された。
血が骨が、目玉が飛び散る。
最澄の手は血に染まり、そしてわずかな肉片が残る。
「最澄さん、あんた・・・」
「・・・強い。・・・無類の強さだ」
空海と田村麻呂が小さく声をあげた。人は本当に驚くと、声は小さくなる。
最澄が崩れ落ちた。血まみれで、顔面は蒼白になっている。手足は氷のように冷たい。
空海が走り寄る。
「田村麻呂、布だ。何でもいいから布で縛り上げろ。それからそこの草、それはワレモコウだ。止血に効く。持ってきてくれ。血がこれ以上出たらやばい!」
田村麻呂が最澄の服を切り裂き、その切れはしで絞り上げる。空海はワレモコウを潰し、傷口に当てる。
「弟子が鬼になった・・・。だがな空海・・・私は、間違ってはおらんぞ。僧侶が修行を忌避してどうする?我らが人より優れた存在とならなければ、衆生を救えん。俺は間違ってはいないのだ」
最澄が薄目を開き、虫がささやくような声を出した。
「最澄さん、しゃべるな。間違っていたのか、正しいのかは、天が決める。天があんたを必要とするならば、あんたは助かる」
空海は傷口を懸命に押さえながら、答える。最澄の服を脱がしながら、懸命に流れ出す血を押さえている。
空海と田村麻呂の服は、最澄の血で真っ赤だ。
「・・・天か!天は俺を、俺をどう見たのだろうな」
小さな声だ。虫の息だ。
最澄の目が閉じられた。
「最澄さん、人は弱さ、悲しみ、妬み、苦しみを捨てなくていいんだ。弱さを、悲しみをそっくり抱えたままで仏になるんだ。人は人を越える必要などないのだ」
最澄は返事をしない。
完全に気を失っている。
「空海、もう最澄殿は気を失っている。何を言っても聞こえないぜ」
「自分勝手な男だぜ。一番俺の言いたいことを聞かずじまいだ。田村麻呂、息が静かになってきた。助かりそうだ。見た目と違い、かなりしぶといな」
「この傷で助かるのか。まさに天は最澄という人間を必要としているということか」
田村麻呂が空海をまっすぐに見つめる。
「空海、田村麻呂!この人の体・・・」
手当てのため服を脱がしていたやおが驚きの声をあげた。
服の下から現れた最澄の体は、筋骨隆々としたまさに金剛力士の様な体であった。そして目を引くのは無数の傷跡。
最澄の鍛え抜かれた体には無数の傷で埋め尽くされていた。
「この人はあらゆる荒行・苦行を行ってきたのだろう。最澄という人にとっちゃあ、傷の一つ一つが『自分』の証みたいなものなんだろうな」
空海は美麗な最澄を見つめる。
観音像の様な高貴な美しさを持つこの男は、卓越した殺戮者でもあった。
仏のようでもあり、鬼のようでもある。
「仏と鬼、しょせん裏と表という事なのであろうよ」
空海は誰に言うでもなく、ぽつりと呟いた。
「空海殿とお見受けしましたが、間違いでしょうか?」
最澄である。
「その通りですよ、最澄さん。俺は空海です。あんたみたいなお偉い方が、俺を知っているとは驚きですね」
空海が答えた。
最澄は天平神護二年(766年)の生まれ。
空海より七歳年上である。
実は空海と最澄の二人は同時期の遣唐使船に乗り、唐に渡った仲である。最澄が第三船、空海は第四船であり、同じ船で渡ったわけではないが、日本を出発する時に、お互い顔くらいは見ていたのではないか。
日本を出発する時点での、空海と最澄の「身分」には雲泥の差があった。
最澄は、桓武帝から既存の奈良仏教に対抗する「新しい仏教の旗手」として期待され、勅命による留学であり、最澄の留学費用は全て国費でまかなわれた。最澄の公費は正使の倍近くという例を見ない手厚さであった。
一方の空海は、私費で唐に渡る無名の留学僧。比較にもならない大きな隔たりがこの二人にはあったのである。
「物の怪を取り逃がしたのですが、空海殿たちが始末をつけてくれたのですね。礼を申し上げます」
「いいや、俺たちも手を焼いて逃がしてしまった。追っかけていたら、サトリの奴がこちらに走ってきたので、倒せただけ。最澄さんたちから逃げ出したという事か。どうりで血相を変えていたわけだ」
空海、田村麻呂、やお、最澄、そして三人の僧の計七人が集まった。結界を破られた一人の僧侶はうずくまったままだ。
「御山に戻ります。誰か円覚を連れてきなさい。私に、いつまであのようなぶざまな姿を見せておくのです!」
切り裂くような最澄の声に、弟子たちが一斉に走り出し、円覚という僧を囲んだ。
「おい円覚、立てよ。俺たちまで怒られるだろっ」
一人の弟子が円覚を立たそうとするが、円覚は動かない。
「何してんだ!子供じゃないんだから、早くしろよ。最澄様のご機嫌が悪くなる。早く立てって」
別の弟子が円覚の脇に手をまわし、立たそうとするが、円覚は動こうとしない。
「おいっ、いい加減にしろよっ。いつまで強情はってんだっ。うおっ」
円覚を立たせようとした三人目の僧が、突然うめき声をあげ膝からストンと落ちた。
「げほっ」
「ぐわっ」
他の二人の僧も声を上げて、のど元を押さえ倒れる。うめき声をあげ、転げまわっていたが、その動きもすぐに止まった。三人の体から大量の血が流れ、地面が赤く染まっていく。
円覚が立ち上がる。右手には血まみれの肉片を握っていた。
僧たちは円覚に一瞬にして、のど元の肉をえぐり取られたのだ。
「延生!光然!義空!」
最澄が声をあげた。
「・・・私は頑張っていたんだ・・・。最澄様の弟子として恥ずかしくないように・・・。誰よりも、誰よりも頑張っていたんだ・・・。認めてほしかった・・・。『よくやった』と言って欲しかっただけなのに・・・」
円覚がぼそぼそと誰に言うでもなく、呟いている。
「・・・だけど、だけど駄目だった。四無行が出来なかった。結界も張れなかった・・・。化け物は私を、俺を『腑抜け』と言いやがった・・・」
円覚がゆっくりと顔をあげていく。
どこかおかしい。人の口はあのように大きかっただろうか?
何か光った。歯が光ったのだ。いや、歯ではない。もはや牙だ。
真っ赤な目が吊り上がる。そして、何と言っても異様なのは・・・。
「最澄さん、あんたの弟子はもはや人間ではないぞ」
空海がそう言いながら身構えた。
「何だと!どういうことだ?」
「化け物は俺を『腑抜け』と言い、あんたからは『ぶざま』と言われた。あんたそう言ったよな?頑張っている弟子を『ぶざま』だってな?」
円覚の頭が尖っているのだ。頭に小さい突起が二つある。そうそれは角だ!
角が生えている。
円覚は鬼と化していたのだ!
「ああ、おれは『ぶざま』さ。最澄の弟子失格だ。俺はあんたの様にはなれない。最澄にはなれないんだ。けどもういい。あんた、『誰でも仏に成れる』って言ってたよな。そんなの嘘だ。そんなことあるはずねぇんだよ。だって俺は・・・・」
円覚が真っ赤な目を最澄に向けた。右手に握っていた血まみれの肉片を口に運び、くちゃくちゃと音を立てて咀嚼する。
「俺は鬼になったんだからな。最澄、お前もなってみろよ、鬼に。仏になるよりよっぽどいいぞ」
「空海、こんなことがあるのか?人は鬼になるのか?」
田村麻呂は視線を円覚に向けたまま、空海に尋ねた。人肉を食べる円覚を嫌悪に満ちた目で見つめている。
「人の力を甘く見てはならない。人は仏に成ることが出来る。そして鬼になることも出来るんだ。人の持つ力はとてつもない。田村麻呂、やお殿、そろそろ来るぞ。気をつけろよ」
空海はそう言うと、懐から三鈷杵を取り出し身構える。
田村麻呂は太刀を、やおは短刀を握りなおした。
「円覚・・・・」
最澄は悲痛な顔をし、立っている。
「鬼だ。俺は鬼だ。鬼はいいいなぁ。仏よりも全然いいぞぉおおおおおおお」
円覚が最澄にとびかかった。最澄は立ちすくむ。
「破っ」
空海が気を円覚に向けて放った。円覚が吹き飛ぶ。
ササササササ
滑り込むように田村麻呂の大きな体が動く。サトリの首を投げつけ、太刀を円覚に叩き込む。
「ぐわっ」
円覚の胸から青い血が流れる。
が、円覚は笑っている。
「気持ちいいなあ!切られても、血が流れても痛くないぜ。鬼はすごい。鬼は最高だなぁ」
円覚が笑いながら田村麻呂に向かう。田村麻呂が剣を突き出す。胸に刺さった。
「痛てっ」
円覚は胸に剣が刺さったまま、右手を大きく振り上げ、田村麻呂をないできた。
田村麻呂は慌てて剣を引き抜き、飛びのく。
「痛てえなあ、あんた。俺が鬼でなかったら、死んじまってるだろう」
円覚は笑っている。「痛い」と言いながら、何も感じていないかのようだ。痛みの感覚が欠落している。いや、もはや「人」の感覚さえ無くなってしまったのだ。
空海が右拳を突き上げる。火球を放とうとしている。田村麻呂が左足を前に出し、臨戦態勢に入る。やおは前に出て、最澄を守る。
最澄がやおの脇をぬけ、円覚に歩み寄って行く。
「最澄さん、下がれ。かみ殺されるぞ!」
「あんた、危ないよ!殺されちまうよ!」
空海とやおが叫ぶ。しかし最澄は歩みを止めない。
「最澄ーっ」
円覚が最澄に飛びかかる。
最澄は円覚を抱きしめた。
「弟子を鬼にしてしまった。『ぶざま』なのはこの私だな」
最澄が静かに、そして哀しみに満ちた目で、円覚に話しかけた。
「最澄ーっ。俺は鬼だぁーっ。鬼なのだぁああああ」
ゾブリ ゾブリ ゾブリ
円覚が最澄の左肩に噛みつき、歯を立て、最澄の肉を嚥下していく。出てきた血をすする。
最澄の上半身が血でずぶぬれになっていく。
最澄がしっかりと円覚を抱きしめているために、空海も田村麻呂も手が出しようがない。
「最澄さん、放せ、放すんだ」
空海の声が聞こえないのか、最澄は抱きしめたままだ。
「円覚、お前は私の弟子だ。大切な弟子だ。お前が私を食い殺したいというなら、望むようにしてやりたい。・・・だがな、私にはやらねばならぬことがまだまだある。今、殺されてやるわけにはいかぬのだ。すまぬな」
そう言って、最澄は円覚を引き離した。
美しい瞳が悲しみに満ちている。
円覚が噛みつこうとするが、出来ない。
最澄の力に抗えないのだ。
「円覚、先に逝け」
最澄が右拳を円覚の顔面に叩きつけた。
グシャ
鼻がつぶれ、数本の歯が飛び散る。
円覚がのけぞり、数歩下がった。
ススス ススス
最澄が間合いを一気につめ、右の手刀を円覚の首に叩きつけた。
「えっ」
円覚の顔に驚きの表情が浮かぶ。その表情のままで円覚の首が飛んだ。
何と最澄は手刀だけで、鬼の首を斬り落としたのである。
「おのれーっ、最澄!俺は死なんぞ。お前を喰らいつくすまで俺は死なんぞ」
円覚は首だけになりながらも牙をむき出し、最澄を睨む。
最澄はそんな「円覚」を全く怖れる様子を見せずに拾い上げた。
そして「円覚」に顔を寄せる。
「円覚、我が弟子よ。さらば」
最澄の両腕に力が入った。
グシャ
「円覚」が粉砕された。
血が骨が、目玉が飛び散る。
最澄の手は血に染まり、そしてわずかな肉片が残る。
「最澄さん、あんた・・・」
「・・・強い。・・・無類の強さだ」
空海と田村麻呂が小さく声をあげた。人は本当に驚くと、声は小さくなる。
最澄が崩れ落ちた。血まみれで、顔面は蒼白になっている。手足は氷のように冷たい。
空海が走り寄る。
「田村麻呂、布だ。何でもいいから布で縛り上げろ。それからそこの草、それはワレモコウだ。止血に効く。持ってきてくれ。血がこれ以上出たらやばい!」
田村麻呂が最澄の服を切り裂き、その切れはしで絞り上げる。空海はワレモコウを潰し、傷口に当てる。
「弟子が鬼になった・・・。だがな空海・・・私は、間違ってはおらんぞ。僧侶が修行を忌避してどうする?我らが人より優れた存在とならなければ、衆生を救えん。俺は間違ってはいないのだ」
最澄が薄目を開き、虫がささやくような声を出した。
「最澄さん、しゃべるな。間違っていたのか、正しいのかは、天が決める。天があんたを必要とするならば、あんたは助かる」
空海は傷口を懸命に押さえながら、答える。最澄の服を脱がしながら、懸命に流れ出す血を押さえている。
空海と田村麻呂の服は、最澄の血で真っ赤だ。
「・・・天か!天は俺を、俺をどう見たのだろうな」
小さな声だ。虫の息だ。
最澄の目が閉じられた。
「最澄さん、人は弱さ、悲しみ、妬み、苦しみを捨てなくていいんだ。弱さを、悲しみをそっくり抱えたままで仏になるんだ。人は人を越える必要などないのだ」
最澄は返事をしない。
完全に気を失っている。
「空海、もう最澄殿は気を失っている。何を言っても聞こえないぜ」
「自分勝手な男だぜ。一番俺の言いたいことを聞かずじまいだ。田村麻呂、息が静かになってきた。助かりそうだ。見た目と違い、かなりしぶといな」
「この傷で助かるのか。まさに天は最澄という人間を必要としているということか」
田村麻呂が空海をまっすぐに見つめる。
「空海、田村麻呂!この人の体・・・」
手当てのため服を脱がしていたやおが驚きの声をあげた。
服の下から現れた最澄の体は、筋骨隆々としたまさに金剛力士の様な体であった。そして目を引くのは無数の傷跡。
最澄の鍛え抜かれた体には無数の傷で埋め尽くされていた。
「この人はあらゆる荒行・苦行を行ってきたのだろう。最澄という人にとっちゃあ、傷の一つ一つが『自分』の証みたいなものなんだろうな」
空海は美麗な最澄を見つめる。
観音像の様な高貴な美しさを持つこの男は、卓越した殺戮者でもあった。
仏のようでもあり、鬼のようでもある。
「仏と鬼、しょせん裏と表という事なのであろうよ」
空海は誰に言うでもなく、ぽつりと呟いた。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
ト・カ・リ・ナ〜時を止めるアイテムを手にしたら気になる彼女と距離が近くなった件〜
遊馬友仁
青春
高校二年生の坂井夏生(さかいなつき)は、十七歳の誕生日に、亡くなった祖父からの贈り物だという不思議な木製のオカリナを譲り受ける。試しに自室で息を吹き込むと、周囲のヒトやモノがすべて動きを止めてしまった!
木製細工の能力に不安を感じながらも、夏生は、その能力の使い途を思いつく……。
「そうだ!教室の前の席に座っている、いつも、マスクを外さない小嶋夏海(こじまなつみ)の素顔を見てやろう」
そうして、自身のアイデアを実行に映した夏生であったがーーーーーー。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる