密教僧・空海 魔都平安を疾る

カズ

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その七 鏡よ、鏡

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ここは比叡山延暦寺。その中で最も北東に位置する堂がある。その名は
玄武堂。北の方角を守護する神獣・玄武の名を冠したものである。
時刻は日付をまたごうとしている。
師走の比叡山は銀世界となっている。気温もマイナス10℃に届くのではないか。そのような中で、玄武堂に一人の僧が座し、ひたすらに経を唱えている。
「爾時無尽意菩薩即従座起偏袒右肩(にじむじにぼさそくじゅうざきへんだんう)
合掌向佛而作是言(がっしょうこうぶつぜんにさぜんごん)・・・・」
法華経の中の「観音経」である。火難・水難などの災害から人々を守るものである。
唱えている僧侶は四十歳前後であろうか。瘦身で頬がこそげ落ちた顔をしている。この玄武堂には一切の暖房設備がない。極寒の中、この僧は薄着で黙々と経を唱えている。
「良純様、お外へお願いいたします」
堂の外側から声がかかった。良純と呼ばれた僧は立ち上がり、堂の扉を開ける。外の冷気が流れ込んできた。そこに一人の若い僧侶が立っていた。
「定覚(じょうかく)、どうしたのだ?このような夜更けに、最澄様に何かあったのか?」
延暦寺を束ねる最澄は一ヶ月ほど前に、鬼と化した弟子に襲われ重傷を負い、空海の処置により、命こそ助かったものの、今だ立ち歩く事も出来ない。
「いいえ最澄様の事ではありません。ですが泰範(たいはん)がしきりに言うのです。『悪い気が入り込んでいる。良純様に知らせなければ』と」
泰範とはこの時期、最澄が最も目をかけている僧侶であり、最澄の後継者とも言われている俊英である。
「ほう泰範が。で泰範は今どこにいるのだ?なぜここに来ない?」
「邪気から目を離せないとのこと。それで私がここに参りました。良純様、ご足労願えませぬか?」
良純はうなずき、堂の外へと踏み出した。流石に寒い。口から吐く息がそのまま音を立てて氷となり落ちそうだ。雪に覆われた道を定覚を前にして歩いていく。真っ暗な夜空の下に広がる銀世界。美しい。月に照らされ、白銀い輝く世界がそこにある。
「定覚よ、泰範はどこにいる?どこで邪気を感じたのだ?」
「はい、それがすぐ近くのようなのです」
「何と!してそれはどこか?」
「はい、ここにございます」
「ん?」
定覚の顔が後ろにいる良純に向いた。体は前を向いたままで。首だけ160度、きれいに回転したのだ。そしてニヤリと笑った。口から巨大な牙をのぞかせ、舌が20cmほど伸び踊る。
グオーツ
 雄たけびを上げ、そのままの姿勢で定覚が飛び掛かるが、良純は大きく飛びのき、その攻撃をかわす。
「この姿勢はやはり無理があるよね」

ギギギ ギギギ

定覚の首から下が回転する。顔と体が前を向いた。定覚の頭には小さな角が二本、目は真っ赤に染まっている。両腕の爪は長く鋭く度がる。
鬼である。

ガアオーッ

定覚が襲いかかる。雪道とは思えぬ速さだ。白銀の雪が舞い上がり、定覚の姿を消した。
良純の目の前に定覚がいる。首を狙い、右腕が大きく振られた。良純は身を丸め、三回、四回と前転し攻撃を避けた。
「なななかやるねぇ、あんた。経を唱えるだけでもないか」
「定覚、どうしたのだ!一体何があったのだ!」
定覚がほほ笑んだ。必殺を期した邪な笑みだ。
定覚が真っ直ぐに走り迫る。逃げようがない。前後左右のいずれに避けても、すぐに迫りくるだろう。

グオッーツ

雄たけびが夜の銀世界にこだました。
定覚が迫り、良純が身構える。定覚の首が一挙に1m近く伸びた。
「むう」
予想外の攻撃に良純が固まる。
が定覚の動きもそこで止まった。
「良純様、お怪我はありませぬか」
「泰範!元寿!喜円!晴空!」
四人の僧侶がそこにいた。全員若い。全員が合掌し、口々に経を唱えている。
泰範と呼ばれた僧は頷き、他の三人の僧とともに合掌し経を唱え続ける。
「ぐおおおおっ、動けんっ。お前たち、全員食い殺してやるっ」
泰範が動けぬ定覚に近寄る。

グウッ グウッ グウッ

定覚は野獣の声をあげ、頭を左右に大きく振り、口をからよだれを飛ばし、血走る眼を向ける。
そんな定覚を泰範が静かに見つめ、懐から鈍い銀色のものを取り出した。「メリケンサック」の様なものだ。掌に収まるほどの大きさ。柄と刃がついている。柄を握り刃で相手を切り裂く武器。「隠し武器・懐剣(かいけん)」である。
泰範は懐剣を握るとためらうことなく一気に定覚の首を切り裂いた。

グオオオオオオオッ

定覚の悲鳴と共におびただしい血が噴き出した。
大範の懐剣が再び襲う。今度は定覚の顔面を縦に切った。
「おのれっ!許さんぞっ!許さんぞぉ!」
憎悪の目を向けながら定覚は崩れ落ち、その場で数度痙攣し、ついに動かなくなった。
「良純様、お怪我はありませぬか」
泰範が尋ねる。
「ああ何ともないが危なかった。お前たちが来てくれなかったら、私は食い殺されていた」
そう言って良純は動かなくなった定覚を見つめ、言葉を続ける。
「泰範、お前ならわかるだろう?ここ数日で邪気を感じる。ここ仏法の王城・叡山でだ。それで私は玄武堂に籠ってみたのだが、鬼に変化する者まで現れるとはな」
「はい、私も感じてはおりましたが、一体何が起こっているのでしょう?そしてこのことを最澄様は?」
「どうかな、それは。徐々に快方に向かっているとはいえ、常人ならばすでに絶命している傷。だが、最澄様の事、感じられているかもしれぬな」
「良純様、今日の事、最澄様にはお知らせいたしますか?」
泰範とともにやってきた僧が尋ねた。
「難しい所だ・・・。だがお知らせせぬわけにはいくまい。あの方の事だ、病床から起きて無理をなさるかも知れぬがな」
「どうでございましょう。高雄山寺(後の神護寺)の空海様にお知らせするのは?最澄様の傷を的確迅速に手当てして下さったと聞いております。お力を貸していただけるのではないでしょうか?私でよければ、空海様のもとへ参りましょう」
泰範が思案顔の良純に問いかけた。
「それは・・・それは最澄様は嫌がるであろうよ」
「嫌がる?」
思わぬ「俗な言葉」に泰範はいぶかしんだ。
良純がうなずく。
「空海和尚に力を借りることは、最澄様は嫌がるであろうよ。不仲、面子とかではないのだ。お二人の進む道はあまりにも違うのだ。空海和尚も叡山に来ることは遠慮されるだろう。太陽と月は同時には世を照らさぬ」
泰範は良純の言いたいことを理解できた。そして空海という存在を強く意識したのだった。
泰範は、後に自分が最澄のもとを去り、空海の高弟となる運命であることなど、露にも思ってはいないのだが。
「数日だ。邪気を感じたのはわずか数日前だったというのに・・・。定覚が鬼に変化してしまった。一体何がおきているのだ?この叡山にさえこれほどの邪気が入り込むのか・・・」
雪が降ってきた。その中で良純はじっと都の方角を見つめる。
小角と母禮が黄泉返った数日後の比叡山での出来事である。
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