密教僧・空海 魔都平安を疾る

カズ

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その七 鏡よ、鏡

十三

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「田村麻呂卿、田村麻呂卿」
平安京の大内裏の廊下を歩いている田村麻呂に、後ろから声が掛けられた。
振り向いた田村麻呂の顔に困惑の表情が浮かぶ。
「私の顔がそんなにお嫌いかな、田村麻呂卿」
「いいえ、そんなことは・・・。ただあなたが私に話しかけて来るとは珍しいと思いましてね。仲成卿」
藤原仲成がそこにいた。三人の貴族を後ろに引き連れて。
「昨今、無辜の民が殺されております。蝦夷の母禮が関わっているとか。恐ろしい事でございますなぁ。田村麻呂卿も気が気ではありますまい」
田村麻呂は仲成を見つめ、軽く頭を下げ、向きを変え歩き出した。
「母禮は、田村麻呂卿を恨み、多くの民を殺しているとの事。卿は、母禮と阿弖流為の命を必死に救おうとした。恨まれる筋合いなどないのに。やはり蝦夷の者どもは人ではない。ものの道理が判らぬ鬼、獣でありますなぁ」
田村麻呂が足を止め、振り向く。
温厚な田村麻呂の顔に鬼相が浮かぶ。
「あんた、何が言いたい。俺を怒らせたいだけなら、覚悟はできているのだろうな」
仲成は田村麻呂の視線を受ける。取り巻きその場に残し、田村麻呂に近づく。
「お前、知りたいだろう?母禮が今どこにいるのか。教えてやるよ」
「何だと!」
驚く田村麻呂に仲成はにやりと笑みを浮かべた。

空海が庭園で一人の女性といる。際立つ美しさを持つ女性である。その女性は橘嘉智子。
時の帝、嵯峨帝の妻女であり、「夫人」という地位を与えられている。
「和尚様、いつぞやは大変お世話になりました。改めてお礼を申し上げます」
そう言って、頭を下げる。
「いいえ、あの時、申し上げましたように、私は何もしておりません。お父上・清友様がずっと夫人様をお守りしていたのです」
一年ほど前、空海と田村麻呂は、嘉智子の母であり、橘一族の総帥である三千媛から依頼を受けた。それは嘉智子の命を狙う術士から嘉智子を守って欲しいというものであった。
背後には権勢を盛り返そうとする橘一族の凋落を狙う朝廷内の権力争いがあった。
空海と田村麻呂は力を合わせ、術士の正体をあばき、倒したのであった。
その時に嘉智子が幼い時に死別した、父・清友の霊魂がずっと嘉智子を守っていたことが分かったのであった。
この事件は空海と田村麻呂が初めて出会うきっかけとなった。
「母はまだ、時折怒るのですよ。父がずっと私の側にいて、妻である自分には何もしないと言ってね。私にそんなことを言われても困るのです」
夫人はそう言って朗らかにほほ笑む。それだけで師走の空気が一気に春めいた。
が、空海は硬い表情で嘉智子を見つめ、そして口を開いた。
「夫人様、本日罷りこしましたのは、お願いがあるからなのです」
「・・・蝦夷の母禮の事でしょう?数多くの人々が殺され、田村麻呂殿も狙われたとか」
少し顔を曇らせながら嘉智子は空海にそう言った。
空海は、自分が来た理由を言い当てる嘉智子に驚きをの目を向けたが、すぐに思い直した。
『そう、そうなのだ。嘉智子夫人という方はこういう方なのだ。我々が思う以上に聡明な方なのだ』
「はい、その通りにございます。私は私の友人に母禮の事を調べてもらっていたのです。その友人が消えました。その者の家には一人の男が死んでおりました。形をとどめぬほどに踏みつぶされて。私の友人は母禮に連れ去られたのでしょう」
嘉智子は、その形の良い眉を細め、白い眉間にしわを寄せた。
「夫人様、お願いがございます。母禮の居場所を教えていただきたいのです。帝の側にあり、陰に陽に帝にご助言されているのは周知の事。あなた様はただの帝の后ではありませぬ」
嘉智子は空海の顔をじっと見つめると、右手を挙げた。

ガサガサ ススス ガサッ

三人の男が嘉吉子の前に現れた。庭のどこかに潜み、嘉智子を陰から警固していた者達だ。
「母禮の潜んでいる場所を和尚様にお知らせしなさい。今日中に」
嘉智子がそう言うと、男たちは音を立てずにその場から姿を消した。
「和尚様がお寺にお戻りになるころには、居場所は知れるでしょう。ですが、居場所が判ったら和尚様はどうします?今回の事では、田村麻呂殿を当てには出来ないのではないですか?お一人で蝦夷の母禮と戦うというのであれば、それはあまりにも無謀」
「あいつは、田村麻呂は母禮の事は私怨だと言い、一人で動いています。私には『関わるな』とも言いました。私一人で動くしかないでしょう。しかしながら、多くの人々が殺されております。それを知っていながら朝廷は動かぬのですか?」
嘉智子は空海から目をさらし、御所の方角に目を向ける。
「和尚様、母禮の事では裏でとある権門が関わっております。その者は乱をおこし、恐れ多いことながら帝を廃し、新たな帝を立てようと画策しておるのです」
「何と!であれば、早々にその者を捕らえ災いの芽を摘まなくてはなりますまい」
「いいえ、今は動けぬのです」
嘉智子は振り向き、空海を見つめる。優美な眼に険しさがある。
空海は嘉智子のその視線を受け止める。
「なるほど、そういう事ですか。帝や夫人様は待っているのですね。その権門が乱を起こすのを。その者に乱をおこさせ、そして倒す。それで一切の根を断ち切るというわけですか」
「ご明察恐れ入ります。帝の政に不満を持つ者はこれで一掃されるでしょう。朝廷はこれでこの先百年の安泰を迎える事でしょう」
「今も罪なき者たちが母禮の手により殺されておりますぞ、夫人様。それを承知で夫人様は、いいえ帝は動かぬと?朝廷の安定ためなら、民が死んでも仕方ない事と言うのですか?」
空海の声に怒気がこもる。
「和尚様、どうぞお寺へお戻りください。そろそろ私の手の者も向かっている頃。母禮の居場所はそれで分かるでしょう」
空海は嘉智子を見つめ、そして礼をした。
踵を返し、立ち去る。
そうなのだ。
この人はそうなのだ。
美しく、聡明。そして時に恐ろしく無情になれる人なのだ。
空海は心の中でそう呟いていた。
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