アネモネ

syo

文字の大きさ
5 / 7

9,10話

しおりを挟む
9話【デート】

それは、たまらず送った一通のLINEだった。

『この前言ってたやつ。今度、どこか行こうって言ったやつ、覚えてる?』

送ってから既読がつくまでの数分間、直哉はスマホを握りしめたまま固まっていた。
返事が来なかったら、それはそれで仕方ないと思いながら、でも指先の汗がそれを否定していた。

『うん、行こう。』

短い返事だったけれど、そこに温度があった。

雪は、あの約束を覚えていてくれた。
________________________________________
週末の午後。待ち合わせは、街の端にあるおしゃれな本屋カフェだった。
雪は、前よりも少しだけラフな服装で現れた。
淡いグレーのシャツに黒の細身のパンツ、無造作にまとめた髪。

シンプルなのに、やけに目を引いた。

「……なんか、雰囲気違うな。」

「そっちこそ。ちゃんとした格好してるじゃん。」

雪は少しだけ笑った。
その笑顔は、あの夜のものと同じだった。

本屋カフェでは、それぞれ気になる本を選び、読んだり感想を言い合ったりした。
雪は詩集を手に取り、何気なくページをめくりながら、小さな声で一節を読んだ。

「『好きという気持ちは、理由よりもずっと軽くて重い』……だって。」

「……重い、のに軽いって、ずるい言い方だな。」

「でも、わかる気がする。」

言葉を交わすたび、空気が柔らかくなっていく。

まるで雪が、雪のまま溶けていくみたいだった。
________________________________________
次に訪れたのは、美術館だった。
静かな空間に、色と光の世界が広がっていた。

展示室の中ではあまり言葉を交わさず、それぞれのペースで作品を見て歩いた。
ときどき目が合うと、雪はほんのり微笑んで、また視線を絵に戻す。

「ねえ。」

館内のベンチで休憩しているとき、雪が不意に言った

「今日、来てよかった。……ちゃんと楽しいって思ってる。」

「そりゃ、俺も。なんならちょっと浮かれてる。」

「……ふふ。似合わない。」

冗談交じりのその声に、直哉は安心する。
この空気は、あの夜から続いているものだ。

あれが、なかったことになっていたわけじゃないと、今は思えた。
________________________________________
夜は、予約していた落ち着いた雰囲気の洋食屋へ。
料理の感想や、大学のこと、些細な失敗談や子どもの頃の話まで、会話は絶えなかった。

時折、雪がグラスを持つ手を止めて直哉の話をじっと聞く。
その静かな目線に、直哉の胸は何度も波打った。

「……前にデートつまらなかったって言ってたけど、今日は?」

帰り道、駅へ向かう途中で、直哉は少し勇気を出して聞いた。
雪はしばらく黙って歩いたあと、小さく笑って言った。

「……今日は、ちゃんと楽しかったよ。なんなら……前よりずっと。」

「そっか。よかった。」

駅に着いて、改札の前で立ち止まる。
電車の時間はもうすぐ。
けれど、もう少しだけこの時間が続いてほしかった。

「また、行こうよ。どっか。」

「……うん。今度はもっと早く決めよ。」

雪が、そんなふうに言うなんて思っていなかった。

直哉は、嬉しさをこらえるように頷いた。
改札を通って振り返った雪の顔は、どこか寂しげで、でも優しかった。

まるで、どこかに境界線を引いた上で、精一杯そこに立ってくれているような――そんな表情だった。





10話【進展】

雪と遊びに行く休日が、週に一度の習慣みたいになっていた。

行き先はさまざまだ。
レトロな喫茶店、静かな図書館、川沿いを歩くだけの日もあった。

そのどれもが、直哉にとっては特別だった。
手をつなぐようになったのは、三回目のデートの帰り道だった。

改札の前で立ち止まって、無言で差し出された雪の手を、直哉は何も言わず握った。

「……寒かっただけだよ。」

照れ隠しのように言ったその言葉に、直哉はただ笑って頷いた。

お泊まりも、自然な流れで数回あった。
夜中まで映画を観て、雪が「このまま寝ちゃってもいい?」と呟いたのが最初だった。

触れるのは、手と腕と、少しのハグまで。
直哉はそれ以上を望まなかったし、雪もそれ以上を求めなかった。

だけど――

「なあ、雪ってさ、何が好き?」

「食べ物?」

「ううん、じゃなくて、人とか、ものとか。心が動くときって、どんなとき?」

そう訊いた直哉に、雪は少しだけ黙ってから答えた。

「わかんない。そういうの、あんまり考えたことない」

笑ってはいるけれど、その答えの奥にある静けさが、直哉を少しだけ苦しくさせた。
自分だけが深くなっていってるような、そんな錯覚。
________________________________________
四人で過ごす英語の授業の空気も、少しずつ変わっていった。
最初のころの気楽さが薄れて、話すときもどこかぎこちない。

「最近、なおやテンション低くね?」

悠真が冗談めかして言うと、直哉は笑って誤魔化した。

雪も、まどかも、それには何も言わなかった。

けれど、まどかの目が、ほんの少し長く直哉の方を見ていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

離婚すると夫に告げる

tartan321
恋愛
タイトル通りです

失った真実の愛を息子にバカにされて口車に乗せられた

しゃーりん
恋愛
20数年前、婚約者ではない令嬢を愛し、結婚した現国王。 すぐに産まれた王太子は2年前に結婚したが、まだ子供がいなかった。 早く後継者を望まれる王族として、王太子に側妃を娶る案が出る。 この案に王太子の返事は?   王太子である息子が国王である父を口車に乗せて側妃を娶らせるお話です。

地獄の業火に焚べるのは……

緑谷めい
恋愛
 伯爵家令嬢アネットは、17歳の時に2つ年上のボルテール侯爵家の長男ジェルマンに嫁いだ。親の決めた政略結婚ではあったが、小さい頃から婚約者だった二人は仲の良い幼馴染だった。表面上は何の問題もなく穏やかな結婚生活が始まる――けれど、ジェルマンには秘密の愛人がいた。学生時代からの平民の恋人サラとの関係が続いていたのである。  やがてアネットは男女の双子を出産した。「ディオン」と名付けられた男児はジェルマンそっくりで、「マドレーヌ」と名付けられた女児はアネットによく似ていた。  ※ 全5話完結予定  

有名俳優の妻

うちこ
恋愛
誰もが羨む結婚と遺伝子が欲しかった そこに愛はいらない

完結 愚王の側妃として嫁ぐはずの姉が逃げました

らむ
恋愛
とある国に食欲に色欲に娯楽に遊び呆け果てには金にもがめついと噂の、見た目も醜い王がいる。 そんな愚王の側妃として嫁ぐのは姉のはずだったのに、失踪したために代わりに嫁ぐことになった妹の私。 しかしいざ対面してみると、なんだか噂とは違うような… 完結決定済み

いちばん好きな人…

麻実
恋愛
夫の裏切りを知った妻は 自分もまた・・・。

~春の国~片足の不自由な王妃様

クラゲ散歩
恋愛
春の暖かい陽気の中。色鮮やかな花が咲き乱れ。蝶が二人を祝福してるように。 春の国の王太子ジーク=スノーフレーク=スプリング(22)と侯爵令嬢ローズマリー=ローバー(18)が、丘の上にある小さな教会で愛を誓い。女神の祝福を受け夫婦になった。 街中を馬車で移動中。二人はずっと笑顔だった。 それを見た者は、相思相愛だと思っただろう。 しかし〜ここまでくるまでに、王太子が裏で動いていたのを知っているのはごくわずか。 花嫁は〜その笑顔の下でなにを思っているのだろうか??

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

処理中です...