24 / 25
二章 接吻
12 この昏く優しい淵の底で
しおりを挟む気を失って眠る娘の身体を、清潔な部屋着でくるむ。
白い頬は、ふっくらと柔らかく、いつまでも撫でていたい心地よさだ。
けれど全身に散る鬱血痕は、彼らの所行を突きつける。
華奢な身体を、痛々しいまでに苛まれた証。
自責の念に駆られてか、男が娘の額にふれるだけの口づけを落とす。
その口から、小さなつぶやきがこぼれた。
「だが、お前が言ったのだぞ?」
忘れもしない。
あの日──。
夕食の後だった。
妻は、食後の茶の用意で席を外していた。
──あの人、今日は帰ってこないんです。
帰りが遅くなっているだけだと思っていた。
給仕係は食事を取り分けていたくらいだから、使用人達さえそう思っていただろう。
今夜はひとりなの、と。
あのかぼそい声は、今もありありと耳に残っている。
どんなつもりでそれを言ったのか、彼女に糺したことはない。
今となっては、もはやどうでもいいとも思う。
だがそれでも、わきあがる感情をいまだに抑えられない。
望んだのでは、なかったのか。
抑えきれない無意識の発露だったのか。
ただの不用意な失言にすぎなかったのか。
あの夜、寝室を訪れた彼を見て、彼女は怯えた。
その瞬間、何もかも吹き飛んだ。
急いで羽織った部屋着の前をかき合わせる姿に、逆上した。
「ならばどうしてあんなことを言った?」
それは、封じた恋に狂った男の、身勝手な願望だったのか。
そもそも最初に心を封じたりしなければ、間に合っていれば、何かが違ったのか。
どこで何を選んでいればよかったのか。
殺した恋の上でおくる日常は、想像を絶する地獄だった。
病み疲れて、彼こそが壊れかけていた。
装ってのことだろうが本心だろうが、もはやかまいはしない。
拒むなら、それにふさわしい行為にするだけだ。
怒りがかきたてる嗜虐の炎に炙られるまま、ことさらに卑しめ辱めて犯し、嬲りぬいた。
それがまさか抱擁を返されるとは。
そうしておいて、また逃れようとするとは。
「お前もまた、ままならぬ心に引き裂かれた、か」
恋した男と、愛する伴侶と。
彼女には、選べなかった。
それ以上に、どちらかを捨てることができなかった。
何より彼女を追い詰めたのは、夫までもが闇に墜ちたことだろう。
「かわいそうに」
娘のなかで何かが音もなく崩れたのは、義父と夫に二人して抱かれたあの夜、彼らにみずから脚を開いたあのとき。
それでも、なおも完全には潰れなかった。
絶望の淵に墜ちてなお立ち上がろうとする彼女は美しかった。
だから壊しつづけた。
──二度と離さない。お前は私のものだ。
──いいえ、お義父さま。いいえ。
──そして私はお前のものだ。
──おじさま、もう私を解放して。
少しでも逃れようとするたびに、有無を言わさず抱き潰して。
──私、この家を出ます。
そう言ってのける強さと。
──壊して。めちゃくちゃにして。
そう望んでしまう弱さと。
そのどちらもが、悲しいほど愛おしく、狂おしいほど哀れだった。
「選べず、ゆくあてもないお前はもう、壊れるしかなかったのだな」
そもそも彼女に選択肢などなかったのだ。
もはや天涯孤独に等しい身の上で、この世のどこに逃げる先があったろう。
両親を幼くしてなくし、庇護者であった祖父母も他界してしまえば、なまじ大きな商家であったことも仇でしかなく。だからこそ、元は気長に構えていた彼の息子も、あのとき結婚を急いだのだ。
互いにわかっていながら、そこを暴くことだけはしなかったが。
「ならばもっと壊れるがよい」
ゆるく開いた小さな唇に、そっと口づける。
やわらかく食(は)み、離れては触れ。
触れるたび、鈴のなるような澄んだ声が、頭のなかに響いた。
──私の全てを、お前にやろう。
──いいえ、おじさま。もう戻れない。
──お前は私のものだ。
──いいえ、お義父さま。私はあの人の妻です。
──お前も本当は望んでいたのだろう?
──いいえ、お義父さま。私の恋したおじさまはもう……。
いくらでも逃げるがいい。
いいや、そのためにこそ逃げているのなら。
「壊してやるとも」
いくらでも、いつまでも。
この昏く優しい淵の底で。
「お前が望むならば、いくらでも。つかまえ、閉じ込めて、抱き潰すまでだ」
静かに落とされる誓いの接吻を、娘は知らない。
完
49
あなたにおすすめの小説
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる