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第一話 ~前途多難な初めまして~
03 (夏歩)
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どくんどくんと穏やかでない音を立てる心臓。
早歩きで歩いているものだから、少し息が切れそうになって来るけれど、引き結んだ口は決して解かない。
一度過ごしたことのあるこの街、だけど過ごした期間は短い場所。
それでも全く知らない土地では無いから、いかにもどの道がどこへ繋がっているかを熟知しているかのような姿勢で堂々と歩み続けるの。
冷静な顔で静かな住宅街を抜けるものの、頭の中では変な汗が噴き出しているのを自覚する。
落ち着かないのは、そう、あの子のせいよ。どうしていきなり私のことを名前で呼んだりしたの?
自問してみるものの、その答えは知っている。再婚に伴って苗字が同じになったんだから、仕方が無くて下の名前で呼んだだけ。
だけど、それでも。数年間名前で呼ばれることがなかったところに不意打ちで呼ばれたものだから、柄にも無く驚いていると顔に出してしまったはず。
驚いていないと演じるために少々荒っぽい言動を投げ付けてしまったし、それに加えて人の好さそうな子だったから、きっと私に対しては苛立ちしか残っていないわね。
……それで良い、散々嫌ってくれればその方が都合良い。
温かく優しそうなおじさんとあの子には申し訳ないけれど、オバサンがいるあの家に馴染むつもりは無い。それにどうせ、同じ苗字でいられるのは長くても数か月なんだし。
大きな道が近付くにつれて、ざわざわと鳴り始める喧噪。
行きかう人々の間を縫って、記憶の中にわずかに残っている地図を頭の中で広げる。
「えぇっと、確かこっち方面だったかしら……?」
右手に握ったままの大切な手紙に書かれていた内容。
『おれは高校への進学はしないで、伯父さんがオーナーをしてるコンビニで働かせてもらうことにしたんだ!』
この文章を頼りに、あまり馴染むことの出来なかった街をひたすらに歩んでいる。
分かれ道を右へ曲がり、車が多く通る道路を見通した時、大きめのコンビニを見つけた。
曖昧な印象地図しか持ち合わせていなかったのに、ちゃんと目的地につけるなんて。
私の記憶力もなかなか捨てた物じゃないわね。なんて無理に自信を付けるための言葉を頭の中で唱えてから、深呼吸してそこに入る。
手紙をもらってからもう何年も経っているんだから、まだここで働いているのかどうかも分からないけれど、一筋の希望を持たせて――
「いらっしゃいませー」
自動ドアが開いた途端、歓迎の声を掛けてくれた中年のおじさんはもちろん探す人じゃない。やる気無さそうに、だらだらとモップを掛けている同い年くらいの男の子も違う。
やっぱり、もうここでは働いていないのかしら? もしくは、今は仕事に入っている時間帯ではない可能性もあるよね……。
心に開きかけた小さな穴を意識しながらも奥の方へ足を向けた時、パンを棚に並べている人を見つける。
見覚えのある真っ黒な短い髪。一見きつそうな性格に見える一重の吊り目。
見つけた、見つけた……! 会えることを楽しみにして、どきどきと高鳴っていた心音は一瞬時を止める。
ただ、どう声を掛けたら良いものか分からなくて、何も言えずに突っ立っていると、どうやら視線に気付いてくれたらしい。
「いらっしゃいま」
せ、の語尾を放った時は満面の営業スマイルで振り向いてくれたのに、こちらを捉えるなり固まった黒い瞳。細い目を見開いて、口をぱくぱくさせて。
ついでに手にしていた商品が音を立てて床に落ちる。
「か、……ほ? え? 嘘だろ……。ちょっ、待ってくれ。本当に、本物の夏歩だよな!?」
思いがけなく、予想もしなかった展開で私が現れたものだからか、勢い良く動揺する冬夜。
覚えていてもらえたんだと安心したのも束の間、レジに立っていた中年男性の低い声が聞こえた。
「北原……?」
その声によって、仕事中だとはっと我に返ったらしい。口が小さく開いて「やばい」と言ったもの。
目に見えて分かる冷や汗のかき方からして、きっとあの男性がオーナーである伯父さんなのかしら?
「お客様、こちら新商品の秋かほる栗クリームパンです! いかがでしょうか? また、私は後十分ほどで業務が終了いたしますので、それまで店外でお待ち頂けると幸いです」
拾い上げたパッケージには思い切り『粒あんパン』と書いてあるのに、『夏歩』と呼んでしまったことを無理矢理にも商品名らしく取り繕う様子が面白い。
「じゃあ、外で待ってるね」
「はい、おそれいります!」
伯父さんと思われる方に軽く会釈をしながら、外へ出る。
小さく辺りを見回して、駐車場の隅の方にあるガードレールを発見。ここに寄り掛かって時間を潰そうっと。
それにしても、冬夜ってばすっかり営業スマイルやトークが上手くなっているのね。
もう働き始めて三年――つまり、バイトを始めるとの手紙をもらってからそれだけの時間が経ったんだ。
この三年間、私はどう成長出来たのかしら? ……何一つとして変われていない気がする。
やりたいことも無い、なりたいものも無い。
オバサンの怒りに触れないようにしながら、毎日を何となく生きているだけ。
早歩きで歩いているものだから、少し息が切れそうになって来るけれど、引き結んだ口は決して解かない。
一度過ごしたことのあるこの街、だけど過ごした期間は短い場所。
それでも全く知らない土地では無いから、いかにもどの道がどこへ繋がっているかを熟知しているかのような姿勢で堂々と歩み続けるの。
冷静な顔で静かな住宅街を抜けるものの、頭の中では変な汗が噴き出しているのを自覚する。
落ち着かないのは、そう、あの子のせいよ。どうしていきなり私のことを名前で呼んだりしたの?
自問してみるものの、その答えは知っている。再婚に伴って苗字が同じになったんだから、仕方が無くて下の名前で呼んだだけ。
だけど、それでも。数年間名前で呼ばれることがなかったところに不意打ちで呼ばれたものだから、柄にも無く驚いていると顔に出してしまったはず。
驚いていないと演じるために少々荒っぽい言動を投げ付けてしまったし、それに加えて人の好さそうな子だったから、きっと私に対しては苛立ちしか残っていないわね。
……それで良い、散々嫌ってくれればその方が都合良い。
温かく優しそうなおじさんとあの子には申し訳ないけれど、オバサンがいるあの家に馴染むつもりは無い。それにどうせ、同じ苗字でいられるのは長くても数か月なんだし。
大きな道が近付くにつれて、ざわざわと鳴り始める喧噪。
行きかう人々の間を縫って、記憶の中にわずかに残っている地図を頭の中で広げる。
「えぇっと、確かこっち方面だったかしら……?」
右手に握ったままの大切な手紙に書かれていた内容。
『おれは高校への進学はしないで、伯父さんがオーナーをしてるコンビニで働かせてもらうことにしたんだ!』
この文章を頼りに、あまり馴染むことの出来なかった街をひたすらに歩んでいる。
分かれ道を右へ曲がり、車が多く通る道路を見通した時、大きめのコンビニを見つけた。
曖昧な印象地図しか持ち合わせていなかったのに、ちゃんと目的地につけるなんて。
私の記憶力もなかなか捨てた物じゃないわね。なんて無理に自信を付けるための言葉を頭の中で唱えてから、深呼吸してそこに入る。
手紙をもらってからもう何年も経っているんだから、まだここで働いているのかどうかも分からないけれど、一筋の希望を持たせて――
「いらっしゃいませー」
自動ドアが開いた途端、歓迎の声を掛けてくれた中年のおじさんはもちろん探す人じゃない。やる気無さそうに、だらだらとモップを掛けている同い年くらいの男の子も違う。
やっぱり、もうここでは働いていないのかしら? もしくは、今は仕事に入っている時間帯ではない可能性もあるよね……。
心に開きかけた小さな穴を意識しながらも奥の方へ足を向けた時、パンを棚に並べている人を見つける。
見覚えのある真っ黒な短い髪。一見きつそうな性格に見える一重の吊り目。
見つけた、見つけた……! 会えることを楽しみにして、どきどきと高鳴っていた心音は一瞬時を止める。
ただ、どう声を掛けたら良いものか分からなくて、何も言えずに突っ立っていると、どうやら視線に気付いてくれたらしい。
「いらっしゃいま」
せ、の語尾を放った時は満面の営業スマイルで振り向いてくれたのに、こちらを捉えるなり固まった黒い瞳。細い目を見開いて、口をぱくぱくさせて。
ついでに手にしていた商品が音を立てて床に落ちる。
「か、……ほ? え? 嘘だろ……。ちょっ、待ってくれ。本当に、本物の夏歩だよな!?」
思いがけなく、予想もしなかった展開で私が現れたものだからか、勢い良く動揺する冬夜。
覚えていてもらえたんだと安心したのも束の間、レジに立っていた中年男性の低い声が聞こえた。
「北原……?」
その声によって、仕事中だとはっと我に返ったらしい。口が小さく開いて「やばい」と言ったもの。
目に見えて分かる冷や汗のかき方からして、きっとあの男性がオーナーである伯父さんなのかしら?
「お客様、こちら新商品の秋かほる栗クリームパンです! いかがでしょうか? また、私は後十分ほどで業務が終了いたしますので、それまで店外でお待ち頂けると幸いです」
拾い上げたパッケージには思い切り『粒あんパン』と書いてあるのに、『夏歩』と呼んでしまったことを無理矢理にも商品名らしく取り繕う様子が面白い。
「じゃあ、外で待ってるね」
「はい、おそれいります!」
伯父さんと思われる方に軽く会釈をしながら、外へ出る。
小さく辺りを見回して、駐車場の隅の方にあるガードレールを発見。ここに寄り掛かって時間を潰そうっと。
それにしても、冬夜ってばすっかり営業スマイルやトークが上手くなっているのね。
もう働き始めて三年――つまり、バイトを始めるとの手紙をもらってからそれだけの時間が経ったんだ。
この三年間、私はどう成長出来たのかしら? ……何一つとして変われていない気がする。
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