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07 走ること

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「それでは、種目を決めていきたいと思います」
 男の学級委員長がメガネを指先で上げ、えらそうに言い放つ。真広は自分には関係ないとぼんやり陸の背中を眺めながら耳にだけは入れていた。

 六月頭に、体育祭が開催される。毎年のことだ。とはいっても高校に入って一度しか経験していないし、去年のことはあまり覚えていない。
「じゃあまず、大綱引きから――」

 委員長の硬い声に真広はすぐさま手を上げた。綱引きは人数が必要だから人数オーバーになることはないだろう。このクラスはわりと行事ごとに積極的だから助かった。順調にメンバーが決まっていく。真広は一安心して、黒板に当たるチョークの音を聞きながら再び陸の背中を眺め始めた。

 陸はあの日から一度も放送室に現れていない。
 部活も夏の大会があるらしく、それに向けて励んでいるだろうからきっと真広だけが理由じゃないんだろう。仲直りもしたしあえて来ないわけではないことはわかっていた。正直に言って、真広は寂しい思いをうまく処理することができないでいた。ほぼ毎日陸との時間を過ごしていた放課後が一人きりになったのだ。相手が陸でなくてもそれは寂しいだろう、と思いたい。ただ、放送室には来ないが、それ以外は変わらずいつもと一緒だった。
 一緒に学校へ行き、授業を受け、一緒に昼飯を食べる。休み時間になれば他の奴らと一緒にゲームの話なんかをしたりして過ごす。

 全部、何事もなかったかのように。
 和解はしたが、次の日の朝に陸がいつも通り迎えに来てくれたことにはひどく安堵していた。
たとえ放課後放送室で会えなくたって、他の時間はほぼ一緒なのだ。諦めようとしていた気持ちも薄れていって、好きだという気持ちは大きく膨らんだままだ。これじゃあだめなのに。これじゃあ苦しいだけなのに。

「では次は、玉入れのメンバーを決めます」
 陸が手を上げた。
 陸上部の彼は、あまり本格的に走る競技は参加しないようになっている。不利だからだ。真広も安心していた。陸の走る姿を目の当たりにしないで済むのだ。
「最後は、クラス対抗リレーの順番を決めたいと思います。全員参加です」
 そうだ。今年はそんな面倒なものがあった。

「あ、オレ無理。実況するから」
 半分真実で、半分嘘だった。

 放送部なので真広は競技にはほとんど参加せず、部活に励むことになっている。他の部員と交代ではあるので綱引きには参加するのだが、それだけだ。あとは実況に徹しようと思っていた。クラス全員参加のリレーも、参加しない。これこそ先生に任せたりすることもできたが、真広は怪我を理由に、参加しないことを決めていた。
 教室内がわずかにざわつく。委員長が困った顔をしている。
 体育の長時間走る授業なんかは見学することが多い真広だから、理由を知っている人も多いだろう。隠しているつもりもない。だからこそ、責められもしない微妙な空気になった。

「じゃあ俺が二周走るよ」
 立ち上がり、陸は委員長に向けて言った。ななめ二つ前の席にいる陸は振り返って真広に視線を落とす。真広は気まずくなって視線をそらした。感謝していることにはしているが、どうも照れくさい。

「じゃ、じゃあ前田くんアンカーで二周ということで……」
 委員長は遠慮がちに言う。
「アンカーか」

 ぽつりとつぶやきながら陸は席についた。陸がアンカーとなると、盛り上がることだろう。それを実況しなくてはいけないのかと思うと今から気が重い。
 委員長は、無事すべての競技メンバーが問題なく決定したことに安堵していたみたいだった。らしくもなく「がんばりましょう!」と意気込んでいる。ノリのいいこのクラスは盛り上がっていた。真広も本当だったら乗りたいところだが、そういう気分ではなく、陸の背中を見つめたままだった。



「陸、ありがと」
「ん?」
 昼休みに屋上で二人弁当を食べている時に言ってみた。照れくさくて声が小さくなってしまった。

「アンカー二周」
「ああ、まあいいよ。真広の走るところ見たいけどな」
「そりゃ無理だな」

 怪我は大丈夫だ。
 でも気持ちがだめだった。

 走ることの楽しさよりも痛みを先に思い出して、尻込みしている。それが数年続いているので、もう以前のように走ることは無理だろうと思っている。そんなことよりもだ、陸が真広の分も走ってくれるということは、その分長く陸の走っている姿を見なくてはいけない。見ずに実況をするなんてことはできないだろう。

 走らなくてよかったのか、悪かったのか、なにが正しいのかわからなかった。
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