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板橋さんの「日常」
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7月14日
天気 晴れ
板橋さんは今日もやってくる。
私は仕事が始まる45分前には職場へ到着し、着替えを済ませて記録を読む。
勤務前の、いわゆるルーティンだ。
これが崩れると、「今日は何か起こってしまうかもしれない。」と不安になる。
記録を読み、今日ショートステイに来る人、家に帰る人の時間や部屋を確認する。
おや?板橋さん、また来るんだ。
と言うのも、この方はいつも2泊して家に帰り、1日置いてまたすぐ泊まりに来るのだ。
正直、家にいるよりもショートステイに泊まっている方が長い。
それで良いのかと思いながらも、10年も平職員をやっていると、
「まぁ考えた所で何かできるわけでも無いし。」
と、すぐに考えるのをやめてしまう。
板橋さんは、なんと言うか。
雑に言ってしまえば、バリバリの認知症である。
ショートステイに到着すると、毎回すぐに
「うちの子供いなくなった。」
と言ってあちこち歩き回る。
落ち着くスイッチも決まっており、人形やぬいぐるみを見つけると
「ここにいたのか。どれ、ヨシアキ。もう迷子にならない様にお手手繋いでおこうか。」
と話しながら、自分の席に座るのだ。
自分の息子が人形やぬいぐるみで良いのかと思いながらも、
「まぁ板橋さんがいいなら、それで良いか。」
と思ってしまう。
そんな板橋さんは、人形やぬいぐるみと一緒にいると、ひたすら話し続ける。
人形は息子になったり、小さい子供になったり、無口ながらに様々な役をもらっている。
板橋さんとしては、多くの人の相手をする事に夢中で、それこそ自分のしなければいけない事も忘れる程にのめり込んでしまう。
今日も楽しそうに人形と話している板橋さんの横を通り過ぎると、床に水溜りを発見した。
出所を探っていると、板橋さんの足元にたどり着いた。
板橋さんの足元から視線を上げると、一部と言うより大部分が変色したズボンが目に入った。
やられた。
話に没頭しすぎて、トイレに行く事も忘れてしまってるようだ。
他の利用者もいる為、それとなく濡れたズボンを隠しながら、それとなくトイレに案内する。
ズボンが濡れているので、着替えましょう。
そこで初めてズボンが濡れていることに気付いた板橋さん。
「誰がこんな事したの。ズボンがビチャビチャじゃない。なんでこんな意地悪するの。」
なんでこんなことになったのか。私も教えてほしい所だが、恐らくその答えは2泊する間、問い続けても答えは返ってこないと思われる。
着替えを終えた板橋さんは、すっかりご機嫌になり、人形との会話に夢中である。
「あなた可愛いねぇ。どこから来たの?お父さんとお母さんはどこに行ったの?」
「帰る所がないの?じゃあウチにくる?美味しいご飯もあるよ。」
「いい子だねぇ。うちの子にならない?大丈夫だよ。隠れていればバレないから。」
外でやったら事案発生である。
そんな板橋さんに事件が起こる。
のちに、「板橋・丸岡 人形誘拐事件」として語り継がれる事は無かったが、板橋さんと丸岡さんの間で人形、ぬいぐるみの取り合いが起こったのだ。
丸岡さんが人形とぬいぐるみ。自分の部屋に持ち込んでしまい、姿が見えなくなった為、板橋さんは不穏になってしまった。
「うちの子が見当たらない。どこかへ行ってしまった。」
と言いながら、ひたすらあちこち歩き回る。
警察に聞いたら、おウチに帰ったみたいですよ。と伝えると
「あら、そう?良かった。安心した。それでね、うちの子がいなくなったんだけど。」
またスタートに戻ってしまった。
そんな落ち着かない板橋さんの前に人形とぬいぐるみを抱えた丸岡さんが通りかかる。
すると板橋さんが鬼の形相で近付き、
「うちの子に何をするんだ。警察に突き出してやる。」
私は二人の間に入り、落ち着く様にと声を掛けるが、
「お前もアイツの仲間か。地獄に堕ちろ、役立たず。」
言いたい放題である。
丸岡さんも悪気があってやった訳ではない。むしろ、人形とぬいぐるみを自分の部屋に持ち込んだのも、板橋さんと同じ理由からだ。
類は友を呼ぶと言うが、この場合、友とは言わないだろう。
こうなった場合、大抵二人にとって共通の敵がいると事態は収まる。
そう。私だ。二人の仲のため、私は悪にでもなろうじゃないか。
丸岡さんが抱き締めている人形とぬいぐるみを回収し、ケアステーションに連れ去る。
「何すんだお前。うちの子を返せ。」
二人一緒になって私を責める。
しばらく様子を見ようと思ったが、お年寄りに叫ばせ続けるのはなんとも忍びないし、泣きそうになる。
板橋さんには人形を、丸岡さんにはぬいぐるみを渡す。
「あらー、お帰りなさい。良かったねぇ。」
先程までの鬼の形相はどこへやら。
穏やかな二人に落ち着き、抱き締めたままテーブルへ。
その後、板橋さんは人形を離す事はなく、夕食も食べずに話し続けた。
声を掛けてながらなんとか食事をしてもらい、お部屋へ案内。
人形と一緒に仲良く布団に入りましたとさ。
ところがここで終わらないのが板橋さん。
寝たかな?と思い巡視に行くと布団の真ん中には人形。しかも枕まで使っている。
板橋さんはと言うと、布団の端っこで小さく丸まっていた。
枕をもう一つ準備して、人形と並んでお休みなさい。
翌日の朝、私は寝坊をしてしまい、いつものルーティンが崩れてしまった。
他の職員よりはだいぶ早く職場へ到着したのだが、私にとっては一大事であった。
嫌な予感はしていた。
いや、きっと大丈夫だろうと自分に言い聞かせて業務にあたる。
さて、そろそろ板橋さんが起きる頃かと部屋を訪ねた。そこで私の目に飛び込んできたものは、下半身丸出しで寝ている板橋さんと、ビチャビチャに濡れた人形であった。
前から放尿する事はあった為、気を付けてはいたが、朝一番でこれは辛い。
尿まみれの人形を板橋さんが抱き締めてしまわない様に、一度タオルに包んで隔離する。
板橋さんを着替えさせ、食堂へ案内。
案の定、落ち着かなくなる板橋さん。
そして私は、この腕の中にある人形は、果たして洗濯機に入れていい物なのかと言う疑問と戦っていた。
あの時、人形でなくぬいぐるみを板橋さんに渡していれば。
そんな思いが頭の中を駆け巡る。
そんな板橋さんはこのショートステイを使って15年になる。
最近は足腰も弱くなり、歩く事もままならない。
車椅子を勧めるも、結局歩こうとしてしまう。
他の職員も
「板橋さん来ると大変だよ。早く施設に入ってくれないかな。」
と愚痴をこぼす事も増えた。
家族はどう思っているのだろうか。
数日とはいえ、家で板橋さんをみるのはかなり大変だろう。
私達は複数で利用者を見ている。つまり、板橋さんの全てを私がやる訳ではない。
他の職員が対応するかもしれない。それが家では長男さんが全てやっている。仕事を休んでまで。
一日を他の人のお世話に費やすのは、肉体的にも、精神的にもかなり来るものがあるだろう。
我々は8時間と言う勤務時間の中で関わりを持つが、家族は時間など関係ない。
朝昼晩、板橋さんが寝なければ夜中も相手をしなければならない。
私達も大変ではあるが、長男さんのことを考えれば、もう少し頑張ろうかなと思いながら、夜勤者の申し送りに耳を傾けるのであった。
天気 晴れ
板橋さんは今日もやってくる。
私は仕事が始まる45分前には職場へ到着し、着替えを済ませて記録を読む。
勤務前の、いわゆるルーティンだ。
これが崩れると、「今日は何か起こってしまうかもしれない。」と不安になる。
記録を読み、今日ショートステイに来る人、家に帰る人の時間や部屋を確認する。
おや?板橋さん、また来るんだ。
と言うのも、この方はいつも2泊して家に帰り、1日置いてまたすぐ泊まりに来るのだ。
正直、家にいるよりもショートステイに泊まっている方が長い。
それで良いのかと思いながらも、10年も平職員をやっていると、
「まぁ考えた所で何かできるわけでも無いし。」
と、すぐに考えるのをやめてしまう。
板橋さんは、なんと言うか。
雑に言ってしまえば、バリバリの認知症である。
ショートステイに到着すると、毎回すぐに
「うちの子供いなくなった。」
と言ってあちこち歩き回る。
落ち着くスイッチも決まっており、人形やぬいぐるみを見つけると
「ここにいたのか。どれ、ヨシアキ。もう迷子にならない様にお手手繋いでおこうか。」
と話しながら、自分の席に座るのだ。
自分の息子が人形やぬいぐるみで良いのかと思いながらも、
「まぁ板橋さんがいいなら、それで良いか。」
と思ってしまう。
そんな板橋さんは、人形やぬいぐるみと一緒にいると、ひたすら話し続ける。
人形は息子になったり、小さい子供になったり、無口ながらに様々な役をもらっている。
板橋さんとしては、多くの人の相手をする事に夢中で、それこそ自分のしなければいけない事も忘れる程にのめり込んでしまう。
今日も楽しそうに人形と話している板橋さんの横を通り過ぎると、床に水溜りを発見した。
出所を探っていると、板橋さんの足元にたどり着いた。
板橋さんの足元から視線を上げると、一部と言うより大部分が変色したズボンが目に入った。
やられた。
話に没頭しすぎて、トイレに行く事も忘れてしまってるようだ。
他の利用者もいる為、それとなく濡れたズボンを隠しながら、それとなくトイレに案内する。
ズボンが濡れているので、着替えましょう。
そこで初めてズボンが濡れていることに気付いた板橋さん。
「誰がこんな事したの。ズボンがビチャビチャじゃない。なんでこんな意地悪するの。」
なんでこんなことになったのか。私も教えてほしい所だが、恐らくその答えは2泊する間、問い続けても答えは返ってこないと思われる。
着替えを終えた板橋さんは、すっかりご機嫌になり、人形との会話に夢中である。
「あなた可愛いねぇ。どこから来たの?お父さんとお母さんはどこに行ったの?」
「帰る所がないの?じゃあウチにくる?美味しいご飯もあるよ。」
「いい子だねぇ。うちの子にならない?大丈夫だよ。隠れていればバレないから。」
外でやったら事案発生である。
そんな板橋さんに事件が起こる。
のちに、「板橋・丸岡 人形誘拐事件」として語り継がれる事は無かったが、板橋さんと丸岡さんの間で人形、ぬいぐるみの取り合いが起こったのだ。
丸岡さんが人形とぬいぐるみ。自分の部屋に持ち込んでしまい、姿が見えなくなった為、板橋さんは不穏になってしまった。
「うちの子が見当たらない。どこかへ行ってしまった。」
と言いながら、ひたすらあちこち歩き回る。
警察に聞いたら、おウチに帰ったみたいですよ。と伝えると
「あら、そう?良かった。安心した。それでね、うちの子がいなくなったんだけど。」
またスタートに戻ってしまった。
そんな落ち着かない板橋さんの前に人形とぬいぐるみを抱えた丸岡さんが通りかかる。
すると板橋さんが鬼の形相で近付き、
「うちの子に何をするんだ。警察に突き出してやる。」
私は二人の間に入り、落ち着く様にと声を掛けるが、
「お前もアイツの仲間か。地獄に堕ちろ、役立たず。」
言いたい放題である。
丸岡さんも悪気があってやった訳ではない。むしろ、人形とぬいぐるみを自分の部屋に持ち込んだのも、板橋さんと同じ理由からだ。
類は友を呼ぶと言うが、この場合、友とは言わないだろう。
こうなった場合、大抵二人にとって共通の敵がいると事態は収まる。
そう。私だ。二人の仲のため、私は悪にでもなろうじゃないか。
丸岡さんが抱き締めている人形とぬいぐるみを回収し、ケアステーションに連れ去る。
「何すんだお前。うちの子を返せ。」
二人一緒になって私を責める。
しばらく様子を見ようと思ったが、お年寄りに叫ばせ続けるのはなんとも忍びないし、泣きそうになる。
板橋さんには人形を、丸岡さんにはぬいぐるみを渡す。
「あらー、お帰りなさい。良かったねぇ。」
先程までの鬼の形相はどこへやら。
穏やかな二人に落ち着き、抱き締めたままテーブルへ。
その後、板橋さんは人形を離す事はなく、夕食も食べずに話し続けた。
声を掛けてながらなんとか食事をしてもらい、お部屋へ案内。
人形と一緒に仲良く布団に入りましたとさ。
ところがここで終わらないのが板橋さん。
寝たかな?と思い巡視に行くと布団の真ん中には人形。しかも枕まで使っている。
板橋さんはと言うと、布団の端っこで小さく丸まっていた。
枕をもう一つ準備して、人形と並んでお休みなさい。
翌日の朝、私は寝坊をしてしまい、いつものルーティンが崩れてしまった。
他の職員よりはだいぶ早く職場へ到着したのだが、私にとっては一大事であった。
嫌な予感はしていた。
いや、きっと大丈夫だろうと自分に言い聞かせて業務にあたる。
さて、そろそろ板橋さんが起きる頃かと部屋を訪ねた。そこで私の目に飛び込んできたものは、下半身丸出しで寝ている板橋さんと、ビチャビチャに濡れた人形であった。
前から放尿する事はあった為、気を付けてはいたが、朝一番でこれは辛い。
尿まみれの人形を板橋さんが抱き締めてしまわない様に、一度タオルに包んで隔離する。
板橋さんを着替えさせ、食堂へ案内。
案の定、落ち着かなくなる板橋さん。
そして私は、この腕の中にある人形は、果たして洗濯機に入れていい物なのかと言う疑問と戦っていた。
あの時、人形でなくぬいぐるみを板橋さんに渡していれば。
そんな思いが頭の中を駆け巡る。
そんな板橋さんはこのショートステイを使って15年になる。
最近は足腰も弱くなり、歩く事もままならない。
車椅子を勧めるも、結局歩こうとしてしまう。
他の職員も
「板橋さん来ると大変だよ。早く施設に入ってくれないかな。」
と愚痴をこぼす事も増えた。
家族はどう思っているのだろうか。
数日とはいえ、家で板橋さんをみるのはかなり大変だろう。
私達は複数で利用者を見ている。つまり、板橋さんの全てを私がやる訳ではない。
他の職員が対応するかもしれない。それが家では長男さんが全てやっている。仕事を休んでまで。
一日を他の人のお世話に費やすのは、肉体的にも、精神的にもかなり来るものがあるだろう。
我々は8時間と言う勤務時間の中で関わりを持つが、家族は時間など関係ない。
朝昼晩、板橋さんが寝なければ夜中も相手をしなければならない。
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