『異界酒場 ルーナ』

みぎみみ

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第1巻

第6話 ピアニストの手

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金曜日の夜、定時に近い時刻に、珍しく若い男が来た。

大学生くらい。でも、手を見ればわかる。指の関節が異様に発達している。演奏家の手だ。

「すみません、バーって初めてで」

「ようこそ」

「お酒があんまり強くないんですけど、大丈夫ですか」

「もちろん。ノンアルコールも作れますよ」

男——梶原という名前だと後でわかる——は安堵したように席に座った。

「ノンアルで、なんか……気持ちが整うやつ、ってありますか」

「気持ちが、整う」

「明日、大事な演奏会があって。でも練習しすぎて、なんか逆に頭が固まった感じがして」

ルーカスには見えた。

この青年の渇望は、ひどく純粋だった。

ただ——音楽を信じる力。それだけだ。

「ハーブのモクテルにしましょう。バジルとレモングラスと白ブドウジュース」

「飲んだことない組み合わせ」

「飲む前に、一度香りだけかいでみてください」

梶原はグラスを受け取り、鼻を近づけた。

目を閉じた。

十秒ほど、動かなかった。

「……なんか、落ち着く」

「バジルは頭を使いすぎた後に効くと言われています。脳の疲れをほぐす香りがある」

「そうなんですか」

「私の故郷ではそう信じられていました。科学的かどうかは分かりません」

梶原は笑った。緊張が少し抜けた笑い方だった。

「ルーカスさんって、どこ出身ですか」

「遠い場所です」

「ヨーロッパ?」

「……そんな感じのところです」

あいまいな答えを、梶原は追及しなかった。

モクテルを半分飲んで、梶原は言った。

「練習しすぎると、音楽が聞こえなくなるんです。自分の音が」

「どういう感じですか」

「弾いてるのに、弾いてる自分を外から見てるみたいな。ちゃんと弾けてるか確認してる自分しかいない」

「分かります」

ルーカスは、意外に素直に言った。

「自分の声が聞こえなくなることは、あります」

「ルーカスさんも?」

「私にも、昔そういうことがありました」

それ以上は言わなかった。

梶原はグラスの残りを飲み干して、少しだけ深呼吸した。

「……なんか、もう大丈夫な気がしてきた」

「明日、うまくいくといいですね」

「ありがとうございます」

梶原は立ち上がって、財布を出した。それから少し迷って、ルーカスを見た。

「聞いていいですか」

「どうぞ」

「ルーカスさんって、なんでここにいるんですか」

「店主だから、ではないですか」

「そうじゃなくて……なんか、普通のバーテンダーじゃない気がして」

ルーカスは少し間を置いた。

「深夜に迷い込んできた人の話を聞くのが、好きなのかもしれません」

「好きなんだ」

「今の言葉は、自分でも驚きました。そう言葉にしたのは初めてです」

梶原は「なんか、いい人ですね」と言って帰っていった。

ルーカスはその背中を見送りながら、グラスを洗った。

好き。

その言葉の感触を確かめるように、心の中でもう一度繰り返した。

——そうか。好きなのか。
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