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第2巻
第1話 金木犀の夜
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第一巻から季節が変わり、秋へ。
バー「ルーナ」の常連の輪が少しずつ広がりながら、ルーカスの「秘密」に少しずつ近づく者が現れる。
彼は何者か。なぜここにいるのか。
——そしていつか、帰る日が来るのか。
九月の終わり。
地下への階段を降りると、今夜は少し違う匂いがした。
木の香り。甘くて、懐かしい。
ドアを開けた瞬間に、伊藤礼奈は思わず立ち止まった。
「……これ、金木犀ですか」
「そうです」
ルーカスはカウンターの中で、小さな鉢植えに水をやっていた。
「バーに花があるんですね」
「知り合いからもらいました。先週」
「知り合い……」
礼奈は少し意外そうな顔をした。二十八歳。黒縁眼鏡、ショルダーバッグ。出版社の校閲部門で働いているらしい雰囲気がある——文字と向き合う仕事の人間特有の、細かいところを見る目がある。
「バーテンダーに知り合いができるんですね」
「何ヶ月もいれば、自然に」
「確かに」
礼奈は席に座った。
渇望を見た。
——言葉を、誰かに届けたい。
「何を飲みますか」
「白ワインをベースにしたものを。甘くなくて、少し複雑な感じのもの」
「アルマニャックをほんの少し垂らした白ワインのカクテルはどうですか。少し古い時間の香りがする」
「古い時間?」
「樽で熟成したブランデーの香りです。深くて、少し渋い。でも、白ワインの爽やかさも残る」
「それにします」
グラスを出すと、礼奈は受け取る前に金木犀を見た。
「これ、毎年この時期になると、祖母の家を思い出す」
「そうですか」
「祖母、校正の仕事をしていた人で。私もその影響で、今の仕事をしていて」
「好きな仕事ですか」
礼奈は少し考えた。
「……好きです。でも、誰にも伝わらない仕事なんですよね」
「どういう意味ですか」
「校閲って、本の奥付に名前が出ない。ミスがなければ存在を気づかれない。ミスがあると怒られる」
「それは」
「でも、それでいいと思ってた。ずっと」
「今も、そう思っていますか」
礼奈はグラスを持ち上げた。
少し間があった。
「……思わなくなってきた、のかもしれない」
「変わったんですか、何か」
「先月、好きな作家さんに会う機会があって。そこで、『あなたのような仕事の人が本を守っているんですよ』って言われて」
「言われてどうでしたか」
「なんか、泣きそうになった」
礼奈は笑った。少し恥ずかしそうに。
「大人になっていきなり泣きそうになるとは思わなかったです、そういうことで」
「涙が出そうになる言葉は、ずっと聞きたかった言葉だから出るんだと思います」
礼奈はそれを聞いて、少しだけ固まった。
「……そうか」
グラスをゆっくり傾けた。
「おいしい。古い時間の香りがする、確かに」
「そうでしょう」
「祖母が好きそうな味」
「どんな方でしたか」
「厳しくて、でも、自分の言葉に一番うるさい人で。誤字が嫌いで、曖昧な表現が嫌いで——でもあの人の書く手紙は、一番気持ちが伝わった」
「なるほど」
「ルーカスさんって、そういう言い方をしますよね。『なるほど』って」
「癖です。言葉を貯めていく感じがして好きで」
礼奈は目を細めた。
「……それ、祖母と同じことを言ってる」
「そうですか」
「変な人ですね」
「よく言われます」
礼奈はグラスを飲み干す頃に、立ち上がった。
「また来ます」
「お待ちしています」
礼奈が出ていった後、ルーカスは金木犀の鉢植えを棚の端に移した。
言葉を届けたいという渇望を持つ人が来た。
そしてその人の言葉は、今夜、ここで少し解かれた気がした。
伝わらないと思っていた言葉が、届いた場所があると——知ることができた夜。
バー「ルーナ」の常連の輪が少しずつ広がりながら、ルーカスの「秘密」に少しずつ近づく者が現れる。
彼は何者か。なぜここにいるのか。
——そしていつか、帰る日が来るのか。
九月の終わり。
地下への階段を降りると、今夜は少し違う匂いがした。
木の香り。甘くて、懐かしい。
ドアを開けた瞬間に、伊藤礼奈は思わず立ち止まった。
「……これ、金木犀ですか」
「そうです」
ルーカスはカウンターの中で、小さな鉢植えに水をやっていた。
「バーに花があるんですね」
「知り合いからもらいました。先週」
「知り合い……」
礼奈は少し意外そうな顔をした。二十八歳。黒縁眼鏡、ショルダーバッグ。出版社の校閲部門で働いているらしい雰囲気がある——文字と向き合う仕事の人間特有の、細かいところを見る目がある。
「バーテンダーに知り合いができるんですね」
「何ヶ月もいれば、自然に」
「確かに」
礼奈は席に座った。
渇望を見た。
——言葉を、誰かに届けたい。
「何を飲みますか」
「白ワインをベースにしたものを。甘くなくて、少し複雑な感じのもの」
「アルマニャックをほんの少し垂らした白ワインのカクテルはどうですか。少し古い時間の香りがする」
「古い時間?」
「樽で熟成したブランデーの香りです。深くて、少し渋い。でも、白ワインの爽やかさも残る」
「それにします」
グラスを出すと、礼奈は受け取る前に金木犀を見た。
「これ、毎年この時期になると、祖母の家を思い出す」
「そうですか」
「祖母、校正の仕事をしていた人で。私もその影響で、今の仕事をしていて」
「好きな仕事ですか」
礼奈は少し考えた。
「……好きです。でも、誰にも伝わらない仕事なんですよね」
「どういう意味ですか」
「校閲って、本の奥付に名前が出ない。ミスがなければ存在を気づかれない。ミスがあると怒られる」
「それは」
「でも、それでいいと思ってた。ずっと」
「今も、そう思っていますか」
礼奈はグラスを持ち上げた。
少し間があった。
「……思わなくなってきた、のかもしれない」
「変わったんですか、何か」
「先月、好きな作家さんに会う機会があって。そこで、『あなたのような仕事の人が本を守っているんですよ』って言われて」
「言われてどうでしたか」
「なんか、泣きそうになった」
礼奈は笑った。少し恥ずかしそうに。
「大人になっていきなり泣きそうになるとは思わなかったです、そういうことで」
「涙が出そうになる言葉は、ずっと聞きたかった言葉だから出るんだと思います」
礼奈はそれを聞いて、少しだけ固まった。
「……そうか」
グラスをゆっくり傾けた。
「おいしい。古い時間の香りがする、確かに」
「そうでしょう」
「祖母が好きそうな味」
「どんな方でしたか」
「厳しくて、でも、自分の言葉に一番うるさい人で。誤字が嫌いで、曖昧な表現が嫌いで——でもあの人の書く手紙は、一番気持ちが伝わった」
「なるほど」
「ルーカスさんって、そういう言い方をしますよね。『なるほど』って」
「癖です。言葉を貯めていく感じがして好きで」
礼奈は目を細めた。
「……それ、祖母と同じことを言ってる」
「そうですか」
「変な人ですね」
「よく言われます」
礼奈はグラスを飲み干す頃に、立ち上がった。
「また来ます」
「お待ちしています」
礼奈が出ていった後、ルーカスは金木犀の鉢植えを棚の端に移した。
言葉を届けたいという渇望を持つ人が来た。
そしてその人の言葉は、今夜、ここで少し解かれた気がした。
伝わらないと思っていた言葉が、届いた場所があると——知ることができた夜。
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