75 / 185
第3巻
第13話 梶原の演奏会
しおりを挟む
二月の末。
梶原が来た。オーケストラに入ってから初めての正式な演奏会の翌日だった。
「昨日の演奏会、どうでしたか」
席に座るなり、梶原は「最高でした」と言った。
「良かった」
「失敗もあったんです。三楽章で少し走ってしまって。でも最高でした」
「失敗があっても最高でしたか」
「そう思えるようになったのが、成長した気がして」
「確かに」
渇望を見た。
今夜の梶原の渇望は——誰かと分かち合いたい。
「今日、友達と話したんですけど、演奏の話は同じ演奏者同士じゃないとなかなか伝わらなくて。ルーカスさんにも話したくて来ました」
「嬉しいです。聞かせてください」
「三楽章で走った時、隣の第一バイオリンの先輩が、ほんの少しテンポを落として合わせてくれたんです。気づいたのか合わせてくれたのかは分からないんですけど」
「気づいて、合わせてくれたんでしょうね」
「そうかな」
「気づかなければ、自分のテンポを維持します。合わせたということは、気づいた上で選択した」
梶原は少し目を輝かせた。
「……そっか。それ、ステージ上でのこと全部終わった後に、ありがとうございました、ってお礼を言ったら、先輩が『お互いさまです』って言ってくれて」
「いい先輩ですね」
「本当に。一人で弾いていた時と、全然違うんです。一人の音が、他の人の音に合わさって、別の音になって——それがすごくて」
「音が混ざる瞬間の話ですか」
「混ざる、というより溶け合う感じ。自分の音が相手の音に影響を与えて、相手の音が自分の音を変えて」
ルーカスはジンリッキーを作りながら、梶原の話を聞いた。
「それは、会話と似ていますね」とルーカスが言った。
「会話、ですか」
「誰かの言葉が、自分の言葉を変える。自分の言葉が、誰かの言葉に影響を与える。それが会話です」
「バーテンダーとしての感覚ですか」
「そうかもしれない」
梶原はグラスを受け取った。
「ルーカスさん、最近何かありましたか」
「何かとは」
「なんか……少し違う雰囲気がする。心ここにあらず、みたいな」
ルーカスは少し驚いた。
「鋭いですね」
「演奏者は、相手の状態に敏感になるので」
「……大きな決断を前にしています」
「帰るかどうか、ですか」
「誰かに聞きましたか」
「誰にも聞いていないですが、そういう雰囲気がして。帰るというのは、故郷にですか」
「そうです」
梶原はグラスを持ったまま、少し考えた。
「帰りたいですか」
「分かりません。でも、帰れる可能性があると知って——考え続けています」
「一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「帰ったら、この仕事はできなくなるんですか」
「できなくなります。少なくとも、ここでは」
「それは、もったいない」
「そう思いますか」
「思います。ルーカスさんがいなかったら、俺の演奏会の前夜はもっと辛かった。あの夜のバジルのモクテルを、今でも覚えている」
「……嬉しいです」
「でも、ルーカスさんが故郷に帰りたいなら、帰った方がいい、とも思います」
「どちらも言うんですね」
「どちらも本当のことだから」
ルーカスは梶原を見た。
「あなたは、成長しましたね」
「そうですか」
「最初にここに来た時と、全然違う。あの時は演奏会の前夜に怯えていた」
「今も怖いですよ。ただ、怖いことを知っているのと、怖いことを知らないのは違う」
「その通りです」
梶原はグラスを飲み干した。
「どんな決断をしても、ここがある限りはまた来ます」
「嬉しい言葉ですね」
「本当のことを言っただけです」
梶原が来た。オーケストラに入ってから初めての正式な演奏会の翌日だった。
「昨日の演奏会、どうでしたか」
席に座るなり、梶原は「最高でした」と言った。
「良かった」
「失敗もあったんです。三楽章で少し走ってしまって。でも最高でした」
「失敗があっても最高でしたか」
「そう思えるようになったのが、成長した気がして」
「確かに」
渇望を見た。
今夜の梶原の渇望は——誰かと分かち合いたい。
「今日、友達と話したんですけど、演奏の話は同じ演奏者同士じゃないとなかなか伝わらなくて。ルーカスさんにも話したくて来ました」
「嬉しいです。聞かせてください」
「三楽章で走った時、隣の第一バイオリンの先輩が、ほんの少しテンポを落として合わせてくれたんです。気づいたのか合わせてくれたのかは分からないんですけど」
「気づいて、合わせてくれたんでしょうね」
「そうかな」
「気づかなければ、自分のテンポを維持します。合わせたということは、気づいた上で選択した」
梶原は少し目を輝かせた。
「……そっか。それ、ステージ上でのこと全部終わった後に、ありがとうございました、ってお礼を言ったら、先輩が『お互いさまです』って言ってくれて」
「いい先輩ですね」
「本当に。一人で弾いていた時と、全然違うんです。一人の音が、他の人の音に合わさって、別の音になって——それがすごくて」
「音が混ざる瞬間の話ですか」
「混ざる、というより溶け合う感じ。自分の音が相手の音に影響を与えて、相手の音が自分の音を変えて」
ルーカスはジンリッキーを作りながら、梶原の話を聞いた。
「それは、会話と似ていますね」とルーカスが言った。
「会話、ですか」
「誰かの言葉が、自分の言葉を変える。自分の言葉が、誰かの言葉に影響を与える。それが会話です」
「バーテンダーとしての感覚ですか」
「そうかもしれない」
梶原はグラスを受け取った。
「ルーカスさん、最近何かありましたか」
「何かとは」
「なんか……少し違う雰囲気がする。心ここにあらず、みたいな」
ルーカスは少し驚いた。
「鋭いですね」
「演奏者は、相手の状態に敏感になるので」
「……大きな決断を前にしています」
「帰るかどうか、ですか」
「誰かに聞きましたか」
「誰にも聞いていないですが、そういう雰囲気がして。帰るというのは、故郷にですか」
「そうです」
梶原はグラスを持ったまま、少し考えた。
「帰りたいですか」
「分かりません。でも、帰れる可能性があると知って——考え続けています」
「一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「帰ったら、この仕事はできなくなるんですか」
「できなくなります。少なくとも、ここでは」
「それは、もったいない」
「そう思いますか」
「思います。ルーカスさんがいなかったら、俺の演奏会の前夜はもっと辛かった。あの夜のバジルのモクテルを、今でも覚えている」
「……嬉しいです」
「でも、ルーカスさんが故郷に帰りたいなら、帰った方がいい、とも思います」
「どちらも言うんですね」
「どちらも本当のことだから」
ルーカスは梶原を見た。
「あなたは、成長しましたね」
「そうですか」
「最初にここに来た時と、全然違う。あの時は演奏会の前夜に怯えていた」
「今も怖いですよ。ただ、怖いことを知っているのと、怖いことを知らないのは違う」
「その通りです」
梶原はグラスを飲み干した。
「どんな決断をしても、ここがある限りはまた来ます」
「嬉しい言葉ですね」
「本当のことを言っただけです」
0
あなたにおすすめの小説
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
男の仕事に口を出すなと言ったのはあなたでしょうに、いまさら手伝えと言われましても。
kieiku
ファンタジー
旦那様、私の商会は渡しませんので、あなたはご自分の商会で、男の仕事とやらをなさってくださいね。
王様の恥かきっ娘
青の雀
恋愛
恥かきっ子とは、親が年老いてから子供ができること。
本当は、元気でおめでたいことだけど、照れ隠しで、その年齢まで夫婦の営みがあったことを物語り世間様に向けての恥をいう。
孫と同い年の王女殿下が生まれたことで巻き起こる騒動を書きます
物語は、卒業記念パーティで婚約者から婚約破棄されたところから始まります
これもショートショートで書く予定です。
僕は君を思うと吐き気がする
月山 歩
恋愛
貧乏侯爵家だった私は、お金持ちの夫が亡くなると、次はその弟をあてがわれた。私は、母の生活の支援もしてもらいたいから、拒否できない。今度こそ、新しい夫に愛されてみたいけど、彼は、私を思うと吐き気がするそうです。再び白い結婚が始まった。
許すかどうかは、あなたたちが決めることじゃない。ましてや、わざとやったことをそう簡単に許すわけがないでしょう?
珠宮さくら
恋愛
婚約者を我がものにしようとした義妹と義母の策略によって、薬品で顔の半分が酷く爛れてしまったスクレピア。
それを知って見舞いに来るどころか、婚約を白紙にして義妹と婚約をかわした元婚約者と何もしてくれなかった父親、全員に復讐しようと心に誓う。
※全3話。
~春の国~片足の不自由な王妃様
クラゲ散歩
恋愛
春の暖かい陽気の中。色鮮やかな花が咲き乱れ。蝶が二人を祝福してるように。
春の国の王太子ジーク=スノーフレーク=スプリング(22)と侯爵令嬢ローズマリー=ローバー(18)が、丘の上にある小さな教会で愛を誓い。女神の祝福を受け夫婦になった。
街中を馬車で移動中。二人はずっと笑顔だった。
それを見た者は、相思相愛だと思っただろう。
しかし〜ここまでくるまでに、王太子が裏で動いていたのを知っているのはごくわずか。
花嫁は〜その笑顔の下でなにを思っているのだろうか??
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる