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第3巻
第14話 礼奈の別れ話
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三月の初め。
礼奈が来た。
少し疲れた顔だった。でも、落ち着きがあった。
「別れました」とグラスを受け取るなり言った。
「恋人と、ですか」
「三年付き合った人と。昨日」
「辛いですか」
「辛い。でも、正しかったと思っている」
「どういう別れ方でしたか」
礼奈は白ワインを一口飲んだ。
「向こうから、もっと感情を出してほしいと言われていて。でも、私は感情を言葉で出すのが苦手で。それが積み重なって」
「言葉で出すのが苦手ですか。でも言葉を扱う仕事をしている」
「そこが難しくて。人の書いた言葉を精査することはできるんです。でも、自分の感情を言葉にするのは別の能力で」
「どう違うんですか」
「人の文章を読む時は、距離がある。でも自分の感情を言葉にする時は、距離がゼロで。近すぎると、うまく言葉にできない」
「なるほど。近すぎるものは、見えにくい」
「そうです」
礼奈はグラスを持ったまま、カウンターを見た。
「向こうが、感情を出してほしいと言うのは分かるんです。でも出せない、という気持ちも本物で。どちらも本当のことで、だから三年かかった」
「三年、お互いに努力したんですね」
「努力はしました。でも、合わなかった」
「合わなかった、と言えることが、一つの答えですね」
礼奈は少し頷いた。
「……ルーカスさんに話を聞いてもらいたかった。友達に話すと慰めてくれるし、親に話すと心配するし。ここに来ると、ただ聞いてもらえる気がして」
「ただ聞くことしかできていないですが」
「それが一番いい」
しばらく黙って飲んだ。
「一つ聞いていいですか」とルーカスが言った。
「どうぞ」
「感情を言葉にするのが苦手、と言いましたが——今、どんな気持ちですか」
礼奈は少し考えた。
「……練習してみます」
「聞かせてください」
「寂しい。でも、後悔はしていない。これからどうなるか分からなくて、少し怖い。でも、三年一緒にいた人と別れたことが、間違いだとは思っていない」
「上手に言えましたよ」
礼奈は少し苦笑した。
「こういう場所だから言える」
「どういう意味ですか」
「バーで、深夜に、誰にも聞かれない場所で——そういう条件が揃うと、少し言える」
「距離が適切なんですね」
「そうです。近すぎず、遠すぎず」
ルーカスは頷いた。
「あなたが言葉を届けたい場所が、ここかもしれないですね」
「届けたい場所、ですか」
「最初に来た夜の、あなたの渇望がそうでした」
「……言葉を届けたい、という渇望が見えましたか」
「見えました。今夜は、少し届きましたか」
礼奈はグラスを傾けた。
「届きました。ここに来て、少し」
帰り際に礼奈は「ルーカスさん、帰る話、どうなりましたか」と聞いた。
「まだ決めていないです」
「そうですか。——帰るとしたら、惜しいな、と思います。ここが」
「ありがとうございます」
「でも決めるのはあなたで、私が言える立場ではないです。ただ——もし帰る前に、ここで最後のグラスを飲む夜があるなら、教えてほしいです」
「教えます」
「約束してください」
「約束します」
礼奈は「おやすみなさい」と言って帰っていった。
礼奈が来た。
少し疲れた顔だった。でも、落ち着きがあった。
「別れました」とグラスを受け取るなり言った。
「恋人と、ですか」
「三年付き合った人と。昨日」
「辛いですか」
「辛い。でも、正しかったと思っている」
「どういう別れ方でしたか」
礼奈は白ワインを一口飲んだ。
「向こうから、もっと感情を出してほしいと言われていて。でも、私は感情を言葉で出すのが苦手で。それが積み重なって」
「言葉で出すのが苦手ですか。でも言葉を扱う仕事をしている」
「そこが難しくて。人の書いた言葉を精査することはできるんです。でも、自分の感情を言葉にするのは別の能力で」
「どう違うんですか」
「人の文章を読む時は、距離がある。でも自分の感情を言葉にする時は、距離がゼロで。近すぎると、うまく言葉にできない」
「なるほど。近すぎるものは、見えにくい」
「そうです」
礼奈はグラスを持ったまま、カウンターを見た。
「向こうが、感情を出してほしいと言うのは分かるんです。でも出せない、という気持ちも本物で。どちらも本当のことで、だから三年かかった」
「三年、お互いに努力したんですね」
「努力はしました。でも、合わなかった」
「合わなかった、と言えることが、一つの答えですね」
礼奈は少し頷いた。
「……ルーカスさんに話を聞いてもらいたかった。友達に話すと慰めてくれるし、親に話すと心配するし。ここに来ると、ただ聞いてもらえる気がして」
「ただ聞くことしかできていないですが」
「それが一番いい」
しばらく黙って飲んだ。
「一つ聞いていいですか」とルーカスが言った。
「どうぞ」
「感情を言葉にするのが苦手、と言いましたが——今、どんな気持ちですか」
礼奈は少し考えた。
「……練習してみます」
「聞かせてください」
「寂しい。でも、後悔はしていない。これからどうなるか分からなくて、少し怖い。でも、三年一緒にいた人と別れたことが、間違いだとは思っていない」
「上手に言えましたよ」
礼奈は少し苦笑した。
「こういう場所だから言える」
「どういう意味ですか」
「バーで、深夜に、誰にも聞かれない場所で——そういう条件が揃うと、少し言える」
「距離が適切なんですね」
「そうです。近すぎず、遠すぎず」
ルーカスは頷いた。
「あなたが言葉を届けたい場所が、ここかもしれないですね」
「届けたい場所、ですか」
「最初に来た夜の、あなたの渇望がそうでした」
「……言葉を届けたい、という渇望が見えましたか」
「見えました。今夜は、少し届きましたか」
礼奈はグラスを傾けた。
「届きました。ここに来て、少し」
帰り際に礼奈は「ルーカスさん、帰る話、どうなりましたか」と聞いた。
「まだ決めていないです」
「そうですか。——帰るとしたら、惜しいな、と思います。ここが」
「ありがとうございます」
「でも決めるのはあなたで、私が言える立場ではないです。ただ——もし帰る前に、ここで最後のグラスを飲む夜があるなら、教えてほしいです」
「教えます」
「約束してください」
「約束します」
礼奈は「おやすみなさい」と言って帰っていった。
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