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第3巻
第18話 ファビアンとの最後の夜
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三月末。
ファビアンが来た。
「明後日、日本を発ちます」
「そうですか」
「答えを聞きに来ました」
ルーカスはウィスキーを二つ出した。
「一つだけ確認させてください」
「どうぞ」
「帰った後、この世界のことを覚えていられますか」
「記憶は持ったまま戻れます」
「ここで過ごした時間は、なくならない」
「なくなりません。ただ、ここへ戻ることはできない」
「……分かりました」
ルーカスはウィスキーを一口飲んだ。
「答えを言う前に、少し話してもいいですか」
「もちろんです」
「この二年半で、ここに来てくれた人たちのことを考えました。最初に来た夜に泣いた女性。ハラスメントを見て見ぬ振りをしたことを悔やんでいた男。海を思い出す味で、亡くなった親を悼んだ女性。演奏会の前夜に音楽を信じられなくなっていた青年。哲学を語り合った老教授。眠れない夜に来た若者——」
「たくさんの人が来たんですね」
「たくさんの人が来ました。そのたびに、渇望が見えました。応えられたこともあれば、応えられなかったこともある。でも——来てくれた」
「それが、あなたにとって何かを意味するんですね」
「意味する、というより——この仕事が、自分の本質に合っていると分かりました。見える力を、この形で使うことが」
「だから、帰らない、という答えですか」
ルーカスは少し間を置いた。
「帰る、という答えです」
ファビアンは少し目を細めた。
「……理由を聞かせてください」
「兄たちが探していたと聞きました。帰れないのではなく、帰れる可能性があるなら——帰らないことを選ぶのは、逃げに似ている、と思いました」
「逃げ、ですか」
「ここにいることが好きです。でも、好きだから帰らない、というのは——自分に正直ではない気がした」
「故郷に帰って、どうするつもりですか」
「分かりません。でも、まず帰って、見てみたい。兄たちの顔を見て、父の状態を見て——その上で、考えます」
「帰ってから考える」
「そうです」
ファビアンは頷いた。
「分かりました。準備を進めます。実施は一ヶ月後を目安にしています」
「一ヶ月」
「その間に、この世界でやり残したことを終わらせてください」
「そうします」
「一つだけ言っていいですか」とファビアンが言った。
「どうぞ」
「あなたが帰ることを選んだのは、正しいと思います。どこにいても、あなたはあなたです。でも——自分がどこから来たのかを知る場所に一度帰ることは、あなたをもっと深くするはずです」
「深くする、ですか」
「根が深い木は、強い。あなたはここで枝葉を広げた。でも、根はまだ向こうにある気がします」
「篠田先生と同じことを言いますね」
「賢い先生がいるんですね」
「はい」
ファビアンとのウィスキーを、静かに飲み終えた。
「一ヶ月後」
「一ヶ月後」
二人でグラスを合わせた。
細い音が鳴った。
決まった。
ファビアンが来た。
「明後日、日本を発ちます」
「そうですか」
「答えを聞きに来ました」
ルーカスはウィスキーを二つ出した。
「一つだけ確認させてください」
「どうぞ」
「帰った後、この世界のことを覚えていられますか」
「記憶は持ったまま戻れます」
「ここで過ごした時間は、なくならない」
「なくなりません。ただ、ここへ戻ることはできない」
「……分かりました」
ルーカスはウィスキーを一口飲んだ。
「答えを言う前に、少し話してもいいですか」
「もちろんです」
「この二年半で、ここに来てくれた人たちのことを考えました。最初に来た夜に泣いた女性。ハラスメントを見て見ぬ振りをしたことを悔やんでいた男。海を思い出す味で、亡くなった親を悼んだ女性。演奏会の前夜に音楽を信じられなくなっていた青年。哲学を語り合った老教授。眠れない夜に来た若者——」
「たくさんの人が来たんですね」
「たくさんの人が来ました。そのたびに、渇望が見えました。応えられたこともあれば、応えられなかったこともある。でも——来てくれた」
「それが、あなたにとって何かを意味するんですね」
「意味する、というより——この仕事が、自分の本質に合っていると分かりました。見える力を、この形で使うことが」
「だから、帰らない、という答えですか」
ルーカスは少し間を置いた。
「帰る、という答えです」
ファビアンは少し目を細めた。
「……理由を聞かせてください」
「兄たちが探していたと聞きました。帰れないのではなく、帰れる可能性があるなら——帰らないことを選ぶのは、逃げに似ている、と思いました」
「逃げ、ですか」
「ここにいることが好きです。でも、好きだから帰らない、というのは——自分に正直ではない気がした」
「故郷に帰って、どうするつもりですか」
「分かりません。でも、まず帰って、見てみたい。兄たちの顔を見て、父の状態を見て——その上で、考えます」
「帰ってから考える」
「そうです」
ファビアンは頷いた。
「分かりました。準備を進めます。実施は一ヶ月後を目安にしています」
「一ヶ月」
「その間に、この世界でやり残したことを終わらせてください」
「そうします」
「一つだけ言っていいですか」とファビアンが言った。
「どうぞ」
「あなたが帰ることを選んだのは、正しいと思います。どこにいても、あなたはあなたです。でも——自分がどこから来たのかを知る場所に一度帰ることは、あなたをもっと深くするはずです」
「深くする、ですか」
「根が深い木は、強い。あなたはここで枝葉を広げた。でも、根はまだ向こうにある気がします」
「篠田先生と同じことを言いますね」
「賢い先生がいるんですね」
「はい」
ファビアンとのウィスキーを、静かに飲み終えた。
「一ヶ月後」
「一ヶ月後」
二人でグラスを合わせた。
細い音が鳴った。
決まった。
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