『異界酒場 ルーナ』

みぎみみ

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第3巻

第21話 水月の本

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四月後半。

水月が来た。

手に、一冊の本を持っていた。

「できました」

ルーカスは少し驚いた。

「出版されたんですか」

「されました。先週。見本誌が届いて」

水月はカウンターに本を置いた。

表紙は深い青。タイトルは「夜の底で待つ」。著者名は中島水月。

「おめでとうございます」

「ありがとうございます。ルーカスさんに一番最初に見せたくて」

「嬉しいです」

「読んでくれますか、本当に」

「もちろんです」

水月はカウンターの上の本を手で撫でた。

「最初にここに来た夜のことが、この本に入っています。直接ではないですが」

「どんな形で」

「書けない夜に、ここのカウンターに座っていた女の子の話があって。バーテンダーが、今夜は書かなくていい、と言う場面があります」

「それは」

「ルーカスさんが言ってくれた言葉です。あの夜、書けない夜に無理して書いても明日消すことになる、と」

「そうでしたね」

「あの言葉が、この本の核心にあります。書けない時間が、書ける時間を作る、という話で」

渓望を見た。

今夜の水月の渇望は——届いた、と確かめたい。

「読みます。丁寧に読みます」

「ありがとうございます」

水月はグラスを受け取った。今夜はシャンパンを頼んだ。

「泡のものを、自分から頼んだのは初めてかもしれない」

「そうですか」

「祝いたい、と自分から思えたのが嬉しくて」

「成長しましたね」

「そうかもしれないです」

水月はシャンパンを一口飲んで、「最高だ」と言った。

「ルーカスさん、最近どうですか。なんか少し変わった気がして」

「帰ることにしました」

「故郷に?」

「はい」

水月はグラスを持ったまま、静かにした。

「……いつですか」

「今月末の予定です」

「そっか」

長い沈黙。

「寂しいですね」と水月が言った。

「私も寂しいです」

「でも——ルーカスさんが故郷に帰る話、なんかこの本みたいだと思う」

「どういう意味ですか」

「書けない時間があって、書ける時間が来る。帰れない時間があって、帰れる時間が来る。時間は無駄じゃなかった、という話だと思うから」

「この世界で過ごした時間が、向こうに帰ってからも残る、と言ってくれているんですか」

「そう思います。人が読んだ本が、その人の中に残るように」

ルーカスはその言葉を聞いて、本の表紙を見た。

「夜の底で待つ」。

深夜に来た人たちの話。夜の底で、誰かが待っていた。

ルーカスが、誰かを待っていた夜々。

「……タイトル、いいですね」

「ありがとうございます。ルーカスさんからもらったタイトルみたいなものです」

「私がつけたわけじゃないですが」

「でも、あの夜のこのバーが、タイトルになっています」

ルーカスは本を受け取って、棚の端に置いた。

「大切に読みます」

「大切に読んでください。——向こうに、持っていけますか」

「持っていけるかどうかは分からないですが……記憶には残ります」

水月は微笑んだ。

「ならいいです」
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