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第3巻
第22話 篠田先生の本棚
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四月の末。
篠田先生が来た。
いつもより少し早い時間だった。
「お時間をいただいてよかったですか」
「構わない。君に渡したいものがある」
篠田はカバンから、古い本を数冊取り出した。
「本棚に置いていた私の本の中から、特に大切なものを持ってきた」
「持ってきてくれたんですか」
「君が去った後も、本棚に残っていてほしい」
「もちろんです」
篠田は一冊ずつ、タイトルを言いながら渡してくれた。
哲学書が三冊。詩集が一冊。それから、分厚い辞書のような本が一冊。
「この最後のは?」
「私が若い頃に書いた論文集だ。出版したが、ほとんど売れなかった」
「そんな本を」
「残しておきたい。誰かが夜中に手に取るかもしれない」
「取ります、誰かが」
「そうだといい」
ルーカスは本を棚に並べた。
「一つお願いがあります」とルーカスが言った。
「なんだ」
「この棚に置いた本のことを、来てくれる人たちに紹介してもらえますか。先生の口から」
「私がここに来た時にか」
「はい。先生の言葉で紹介された本は、手に取ってもらえると思います」
篠田は少し考えた。
「……老人が本を紹介して回る、というわけか」
「そういうことです」
「悪くないな」
「ありがとうございます」
篠田は今夜のウィスキーを受け取った。
「最後に一つ聞いていいか」
「どうぞ」
「故郷で、幸せになれると思うか」
ルーカスは少し考えた。
「……分かりません」
「分からなくていい。幸せかどうかは、後になってから分かるものだ」
「先生は、幸せですか」
「八十近くなって、友人のほとんどは死んで、妻もいない。だが——今夜このウィスキーを飲んでいて、幸せだと思う」
「今夜だけ?」
「今夜だけで十分だ。それが積み重なったものが、人生だ」
ルーカスはその言葉を聞いて、グラスを磨く手を止めた。
今夜だけで十分。
「先生と話してきて、よかったです」
「君と話してきて、私もよかった」
「帰った後、また来られるかどうか分かりません」
「分かっている」
「でも——先生のことは、ずっと覚えています」
「それで十分だ」
篠田は最後のひと口を飲んだ。
「いい夜だった」とだけ言って、立ち上がった。
「先生」
「なんだ」
「ありがとうございました」
「礼は帰ってから言え」
「帰れない可能性もあります」
「帰れる。そういう確信が、なぜか私にはある」
「根拠はありますか」
「ない。だが、長年生きていると、確信に根拠が要らなくなる。これがそういう確信だ」
篠田が帰った後、ルーカスはしばらく本棚の前に立っていた。
五冊の本。篠田先生の言葉が詰まった本。
誰かが手に取る日が来るだろう。
その時、篠田先生の思考が、夜のこのバーで誰かの中に入っていく。
それが、残ることの意味だ。
篠田先生が来た。
いつもより少し早い時間だった。
「お時間をいただいてよかったですか」
「構わない。君に渡したいものがある」
篠田はカバンから、古い本を数冊取り出した。
「本棚に置いていた私の本の中から、特に大切なものを持ってきた」
「持ってきてくれたんですか」
「君が去った後も、本棚に残っていてほしい」
「もちろんです」
篠田は一冊ずつ、タイトルを言いながら渡してくれた。
哲学書が三冊。詩集が一冊。それから、分厚い辞書のような本が一冊。
「この最後のは?」
「私が若い頃に書いた論文集だ。出版したが、ほとんど売れなかった」
「そんな本を」
「残しておきたい。誰かが夜中に手に取るかもしれない」
「取ります、誰かが」
「そうだといい」
ルーカスは本を棚に並べた。
「一つお願いがあります」とルーカスが言った。
「なんだ」
「この棚に置いた本のことを、来てくれる人たちに紹介してもらえますか。先生の口から」
「私がここに来た時にか」
「はい。先生の言葉で紹介された本は、手に取ってもらえると思います」
篠田は少し考えた。
「……老人が本を紹介して回る、というわけか」
「そういうことです」
「悪くないな」
「ありがとうございます」
篠田は今夜のウィスキーを受け取った。
「最後に一つ聞いていいか」
「どうぞ」
「故郷で、幸せになれると思うか」
ルーカスは少し考えた。
「……分かりません」
「分からなくていい。幸せかどうかは、後になってから分かるものだ」
「先生は、幸せですか」
「八十近くなって、友人のほとんどは死んで、妻もいない。だが——今夜このウィスキーを飲んでいて、幸せだと思う」
「今夜だけ?」
「今夜だけで十分だ。それが積み重なったものが、人生だ」
ルーカスはその言葉を聞いて、グラスを磨く手を止めた。
今夜だけで十分。
「先生と話してきて、よかったです」
「君と話してきて、私もよかった」
「帰った後、また来られるかどうか分かりません」
「分かっている」
「でも——先生のことは、ずっと覚えています」
「それで十分だ」
篠田は最後のひと口を飲んだ。
「いい夜だった」とだけ言って、立ち上がった。
「先生」
「なんだ」
「ありがとうございました」
「礼は帰ってから言え」
「帰れない可能性もあります」
「帰れる。そういう確信が、なぜか私にはある」
「根拠はありますか」
「ない。だが、長年生きていると、確信に根拠が要らなくなる。これがそういう確信だ」
篠田が帰った後、ルーカスはしばらく本棚の前に立っていた。
五冊の本。篠田先生の言葉が詰まった本。
誰かが手に取る日が来るだろう。
その時、篠田先生の思考が、夜のこのバーで誰かの中に入っていく。
それが、残ることの意味だ。
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