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第4巻
第3話 商人の嘘
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七月の初め。
太った商人が来た。
四十代。指に金の指輪がいくつも光っている。羽振りのよさを全身で表現しているような男だった。
でも目が、怯えていた。
「深夜にやっているのか、ここは」
「はい」
「よかった。人に見られたくなくて」
席に座りながら、男は何度も扉の方を見た。
「誰かに追われていますか」
「……追われてはいない。でも、今夜は一人になりたかった」
渇望を見た。
——吐き出したい。胸の中の、言えない言葉を。
「何を飲みますか」
「強いやつ。一番強いやつ」
「分かりました」
蒸留酒の中で最も度数が高いものを出した。この世界の「火の水」と呼ばれる透明な酒。一口飲むと、胸が熱くなる。
商人——名はドラニという——は一口飲んで、顔をしかめた。
「……本当に強い」
「言っていた通りです」
「まあいい。飲む」
もう一口。それから、グラスを置いた。
「俺は嘘をついている」
「誰に対して」
「取引相手に。品質を偽って、高く売っている」
「長い間、ですか」
「五年だ。五年間、ずっと」
ルーカスは何も言わなかった。
「バレたわけじゃない。でも……今夜、荷物を運んでいた少年が怪我をした。安物の馬車を高く売りつけた相手のやつで、車輪が外れた」
「その少年は」
「軽傷だ。でも見た時、足が震えた。俺の嘘のせいで、誰かが怪我をした」
ドラニはグラスをまた飲んだ。
「今夜は、正直に話せる場所が欲しかった。家に帰ると妻がいる。妻には言えない。友人には言えない。でも、誰かに言わないと苦しくて」
「話してください。私は誰にも言わないです」
「信じていいのか」
「信じていいです」
ドラニは話した。
最初の嘘は小さかった。品質を少し誇張した説明。それで上手くいったから、次も少し。また次も少し。五年で、気づいたら大きな嘘を積み重ねていた。
「やめられなかったのか」とルーカスは聞いた。
「やめたかった。でも、やめると今まで積み上げてきたものが崩れると思って」
「崩れることが怖かった」
「そうだ」
「少年が怪我をした今夜、何が変わりましたか」
ドラニは少し間を置いた。
「……このままでは、誰かが死ぬかもしれないと思った。初めてそう思った」
「では」
「やめたい。でも、どうやってやめるか分からない」
ルーカスはグラスを磨きながら、言った。
「一つだけ言えることがあります」
「なんだ」
「やめ方は、一気にではない。一つ一つ、丁寧に戻していくことです」
「戻す?」
「嘘を積み重ねてきたように、正直を一つずつ積み重ねる。一晩でやめようとすると、全部崩れます。でも、一つずつ戻せば、崩れなくて済む」
ドラニは長い沈黙の後、「……難しそうだ」と言った。
「難しいです。でも、できないことではない」
「俺には誠実な人間になれるか」
「なれるかどうかは、今夜は分からないです。でも、なりたいと思っている人間は、なろうとし続ける。それが、誠実な人間に近い形だと思います」
ドラニはグラスを飲み干した。
「……また来ていいか」
「来てください。一つ正直を積み重ねた時に、来てください」
「それを祝うか」
「祝います」
「それを楽しみにする」
ドラニは立ち上がって、指輪をいくつか見た。それから一言、「重いな」と言った。
指輪の話か、心の話か。両方だろう、とルーカスは思った。
太った商人が来た。
四十代。指に金の指輪がいくつも光っている。羽振りのよさを全身で表現しているような男だった。
でも目が、怯えていた。
「深夜にやっているのか、ここは」
「はい」
「よかった。人に見られたくなくて」
席に座りながら、男は何度も扉の方を見た。
「誰かに追われていますか」
「……追われてはいない。でも、今夜は一人になりたかった」
渇望を見た。
——吐き出したい。胸の中の、言えない言葉を。
「何を飲みますか」
「強いやつ。一番強いやつ」
「分かりました」
蒸留酒の中で最も度数が高いものを出した。この世界の「火の水」と呼ばれる透明な酒。一口飲むと、胸が熱くなる。
商人——名はドラニという——は一口飲んで、顔をしかめた。
「……本当に強い」
「言っていた通りです」
「まあいい。飲む」
もう一口。それから、グラスを置いた。
「俺は嘘をついている」
「誰に対して」
「取引相手に。品質を偽って、高く売っている」
「長い間、ですか」
「五年だ。五年間、ずっと」
ルーカスは何も言わなかった。
「バレたわけじゃない。でも……今夜、荷物を運んでいた少年が怪我をした。安物の馬車を高く売りつけた相手のやつで、車輪が外れた」
「その少年は」
「軽傷だ。でも見た時、足が震えた。俺の嘘のせいで、誰かが怪我をした」
ドラニはグラスをまた飲んだ。
「今夜は、正直に話せる場所が欲しかった。家に帰ると妻がいる。妻には言えない。友人には言えない。でも、誰かに言わないと苦しくて」
「話してください。私は誰にも言わないです」
「信じていいのか」
「信じていいです」
ドラニは話した。
最初の嘘は小さかった。品質を少し誇張した説明。それで上手くいったから、次も少し。また次も少し。五年で、気づいたら大きな嘘を積み重ねていた。
「やめられなかったのか」とルーカスは聞いた。
「やめたかった。でも、やめると今まで積み上げてきたものが崩れると思って」
「崩れることが怖かった」
「そうだ」
「少年が怪我をした今夜、何が変わりましたか」
ドラニは少し間を置いた。
「……このままでは、誰かが死ぬかもしれないと思った。初めてそう思った」
「では」
「やめたい。でも、どうやってやめるか分からない」
ルーカスはグラスを磨きながら、言った。
「一つだけ言えることがあります」
「なんだ」
「やめ方は、一気にではない。一つ一つ、丁寧に戻していくことです」
「戻す?」
「嘘を積み重ねてきたように、正直を一つずつ積み重ねる。一晩でやめようとすると、全部崩れます。でも、一つずつ戻せば、崩れなくて済む」
ドラニは長い沈黙の後、「……難しそうだ」と言った。
「難しいです。でも、できないことではない」
「俺には誠実な人間になれるか」
「なれるかどうかは、今夜は分からないです。でも、なりたいと思っている人間は、なろうとし続ける。それが、誠実な人間に近い形だと思います」
ドラニはグラスを飲み干した。
「……また来ていいか」
「来てください。一つ正直を積み重ねた時に、来てください」
「それを祝うか」
「祝います」
「それを楽しみにする」
ドラニは立ち上がって、指輪をいくつか見た。それから一言、「重いな」と言った。
指輪の話か、心の話か。両方だろう、とルーカスは思った。
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