『異界酒場 ルーナ』

みぎみみ

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第4巻

第30話 東京、夜明け前

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東京。七月の深夜。

光が収まると、路地にいた。

見覚えのある路地。石畳ではなく、コンクリートの地面。

街灯。自動販売機。遠くから車の音。

間違いない。渋谷の近く。

ルーカスは少し動けなかった。

東京の空気が、鼻に入ってきた。

排気ガスと、夜の湿気と、どこかから漂うコーヒーの香り。

「……戻れた」

日本語で言った。

自然に日本語が出てきた。

三年離れていても、身体が覚えていた。

路地を歩いた。三本折れると、見覚えのある階段があった。

十三段。

苔の気配。錆びた手すり。

「LUNA」の看板。

灯りがついていた。

今夜も、開いていた。

ルーカスは階段を降りた。

一段。二段。三段——十三段。

ドアに手をかけた。

押した。

木の香りと、少しスモークの香りと、何か甘い植物の香り。

カウンターの中に、人がいた。

銀灰色の髪ではない。短い黒い髪。高橋が、グラスを磨いていた。

カウンターには、客が二人いた。

ドアが開いた音に、高橋が顔を上げた。

目が合った。

一瞬、動きが止まった。

「……ルーカスさん」

高橋の声だった。

静かで、穏やかな、あの声だった。

「ただいまです」

ルーカスが言った。

日本語で。

自然に出てきた言葉だった。

高橋は少し目が赤くなって、グラスを置いた。

「……おかえりなさい」

奥から清子が出てきた。

「ルーカスさん!」

「清子さん、お元気でしたか」

「元気でした。ずっと、いつか来ると思っていました」

「来ました。来られました」

高橋が「少し待ってください」と言って、電話を取り出した。

「誰かに連絡しますか」

「みなさんに。今夜、来られる人だけでいい」

「そうしてください」

その夜、深夜に——礼奈が来た。梶原が来た。晴樹が来た。

全員が来た時は、深夜の二時を過ぎていた。

全員がカウンターとテーブルに座った。

ルーカスはカウンターの中に立って、グラスを作った。

高橋が隣に立って、見ていた。

「仕込みが少し変わりましたよ」と高橋が言った。

「私のやり方に合わせてくれなくていいですよ」

「高橋なりのルーナになりました」

「それが、いいです」

礼奈が白ワインのカクテルを受け取って、一口飲んだ。

「……同じ味だ」

「少し変わっていますか」

「変わっていないです。ここの味がする」

「ここの味、ですか」

「この場所の空気の味」

梶原がバジリコ・スプリッツを受け取った。

「ルーカスさん、帰ってきてくれましたね」

「帰ってきました」

「向こうは、どうでしたか」

「良い場所でした。こちらと同じくらい、良かったです」

「そっか」

晴樹がモクテルを受け取った。

「来てくれて良かった」とだけ言った。

「来られて良かった」とルーカスは言った。

全員のグラスが揃った。

誰かが「乾杯しましょう」と言った。

グラスが重なった。

細い音が、地下のバーに響いた。

東京のルーナで、何度も聞いた音。

ヴァルド王国のルーナでも、何度も聞いた音。

どの世界でも、グラスが合わさる音は同じだ。

深夜のジャズが流れていた。

ルーカスはカウンターを磨きながら、全員の渇望を見た。

礼奈——再会の夜を、言葉に刻みたい。

梶原——音楽の話を、またここで。

晴樹——帰ってきた人に、報告したいことがある。

高橋——この場所を守れた、という確認。

清子——全員が揃った夜を、全身で感じたい。

全員の渇望が、今夜は一つの方向を向いていた。

——ここに、帰ってきた。

「今夜も、よかった」とルーカスは言った。

日本語で言った。

この言葉が、ようやくここに戻ってきた気がした。

今夜も、よかった。

どちらの世界でも、同じ言葉で言える。

どちらの世界も、自分の場所だ。

夜が明ける。また夜が来る。

また誰かが来る。

——どちらの夜にも、月の底の場所がある。

『異界酒場 ルーナ』 第四巻 了

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