アキレギアの幸福

鮭取 陽熊

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第42話 (悠斗視点)

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 ずっと欲しいものを諦めてきた。そうして諦めていくうちに欲しいという気持ちも無くなって、全てがどうでもよくなる。
 ただ一つ、どうしようもない衝動に駆られて手を伸ばして、わからないなりに大切に扱って、そうしたらそれは俺に満たされる喜びを教えてくれた。しかし、このままずっと続いてほしいという願いも虚しく、それは俺の手からすり抜けていった。
 まるで心にぽっかり穴が空いたような気分だ。もう既に空っぽだと思っていたのに、まだ穴が空く余地があったのかと変な感心を抱きながら、勝手に溢れてくる涙を袖で拭う。



◆◇◆◇



 幼い頃、俺はサチエと呼ばれる中年女性を母親だと思っていた。家事をこなして、俺の面倒を見て、たまに帰ってくる父親にも甲斐甲斐しく世話を焼いているから。テレビや本で見る"母親"に当てはまるのがサチエだったのだ。

 ある日、授業参観で教室の後ろにクラスメイトたちの親が並び、一緒に仲良く帰ってゆく姿を見て、俺は家に帰ってからなぜサチエは来なかったのかと問い詰めた。
 するとサチエは少し驚いた後困ったような顔をして、優しい声で告げた。

「坊ちゃんのお母上は椿様ですよ。私ではありません」

 その瞬間、俺の中でサチエに対して抱いていた好意や興味が一気に失われた。
 自分が勝手に勘違いしていただけなのに、サチエを偽物としか思えなくなったのだ。

 しかし本物の母親がいるならそれでいい。今までは間違えてしまっていたが、これからはクラスメイトたちが受けているような愛情をその人に求めればいいだけだ。
 クラスのやつらはいつも親が何を買ってくれただの、休みの日に何処に行っただのと話している。中でも一番羨ましかったのは、母親の料理の自慢だ。プロ並みだとか、可愛くデコレーションしてくれたとか、一緒に作ったとか、そんな話に一番惹かれる。
 別にクオリティなどどんなものでもいい。本物の母親の料理を食べれば、サチエの作るものとは違う満足感が得られるような気がするのだ。

 ある日突然家に来た椿様と呼ばれる女性に、俺は勇気を出して近寄った。

「お母さん」

 しかしその人は俺をチラリと見て眉間にシワを寄せただけで、返事を返してはくれない。

(テレビや本の中では母親は子どもに優しくするものなのに、想像してた反応と違う)

 いや、突然のことで驚いただけかもしれない。声をかけ続ければ、ちゃんと母親として接してくれるはずだ。

「ねぇ、今日はお母さんが作ったご飯が食べたい」

 また無視だ。今度は俺に目もくれず歩き出してしまうその人に「ねぇ、お母さん」と声をかけ続け、引き止めようと手を伸ばしてスカートの裾を掴む。
 その瞬間乾いた音が響き、俺は壁にもたれて座り込んでいた。左頬がジンジンと熱を持っている。

「私あんたの母親なんかじゃないから」

 その人は俺を冷たい目で睨みつけ、そのまま背を向けて歩き出してしまう。しばらくすると「あ、やっぱりここにあった~」と、先程俺にかけた声とは別人のように明るい声を上げながらブレスレットをつけ、家を出ていった。
 サチエがわたわたと俺の頬を冷やして声をかけてくるが、それは全く耳に入ってこなかった。

 その数日後、珍しく俺と一緒に夕食をとる父親に尋ねてみた。

「椿って人が、俺の母親じゃないって言ってたんだけど…」

 すると父は大して興味も無さそうに、料理を口に運びながら答えた。

「あぁ、あいつは俺とじゃなく金と結婚した女だからな」

 その時はその言葉の意味がよくわからなかったが、今ならなんとなくわかる。俺は愛を持たずに生まれた子なんだ。

 それからというもの、俺は無条件に親から愛されるやつらが全て憎くなった。
 周囲の人間を全員敵と認識して、関わりを避け、気に食わないことをされれば迷わず攻撃した。
 中学に上がった頃にはサチエも攻撃対象となっており、俺に関する世話の一切を辞めさせた。サチエはこの家での家政婦だから、俺の世話を辞めさせるとなると解雇ということだが…
 すると家政婦のいない不便な家には父親も寄り付かなくなり、俺は家でも学校でも完全に独りになった。

 だがそれで良かった。母親もどきがいるくらいなら何もいない方がいいし、妥協した友人で孤独を紛らわすくらいなら頭のてっぺんまで孤独に浸かっていた方がいい。

 ただ、心のどこかにはこのままでいいのかという迷いもあった。
 中高一貫のこの学校じゃ高校でも俺はまったく同じ環境で過ごすことになる。

(別の高校に進学するなんて、内部進学もできない落ちこぼれのようで外聞が悪いが、うちの高校よりも偏差値の高いとこなら許されるんじゃないだろうか。父は割と適当な人間だし)

 そんな思いつきで何校か説明会に行ってみれば、とある高校で妙に気になる後ろ姿を見つけた。

(明るい髪…染めてるのか?いや、にしては根元まで綺麗だし。ハーフとかかな?まぁ日本人でもなくはない色だけど)

 その後ろ姿ばかり見つめて学校の説明など少しも耳に入っていなかったが、友だちになるならあいつがいいとなんとなく思った。
 結局人混みのせいでそいつの顔すら見ることはできなかったが、帰ってすぐに父親にその高校を受験したいと連絡した。
 却下されるかもしれないと少し緊張したが、父はあっさりと許可を出し、「そこなら親戚が持ってるこのマンションに住めばいい」ととんとん拍子でことが進んだ。

 この選択が俺に人生最大の喜びと苦しみをもたらすことになるとは、その時は思いもしなかった。



◆◇◆◇



 あの時薫の腕を離すべきではなかった。顔色が悪くしんどそうな薫を見るたびにそう思う。
 無理やりにでも抱えているものを吐き出させてていれば、薫は少しは楽になったんだろうか。
 しかし平田にしたような手段を取ると言われれば従わないわけにはいかなかった。周囲からの信頼度は薫と俺じゃ天と地の差がある。そこを利用されれば今よりもっと最悪な状況になることは間違いない。
 薫もつらそうだし、なにより俺も心が張り裂けそうなほどつらいのに、薫を失うのが怖くて手を離してしまった。

 薫に触れたいのに触れられない、上辺の言葉しか与えてもらえない日々はどんどん悪くなる一方だ。
 クラス替えでは薫と別れてしまうし、あのウザったいクソガキも入学してきて毎日薫にベタベタしている。

「佐野先輩!一緒に帰りましょー!」
「うん」

 今日もクソ大輝が嬉しそうに薫にベタベタくっつくのを見ながら2人について歩く。
 ぺちゃくちゃとくだらないことを喋り続ける大輝に薫は笑顔で相槌を打つが、その目はちっとも笑っていない。
 マンションに着いて別れるとき、大輝はいつも俺に対して勝ち誇ったような顔を向けてくるのが日に日にフラストレーションをためてくる。

(ぶん殴ってやろうかこのクソガキ)

 いや、そんなことしたら、それを理由にまた薫が離れていってしまうだろう。薫はいつも俺と自然に離れる理由を探しているような気がする。

「清水先輩って思ってた程じゃなくて安心しました」

 ある日の練習中、得点板のそばでコートの中の薫を見守っていると隣に並んできた大輝にそう声をかけられた。
 何が言いたいのかわからずただムカつき、しかし聞いてもいいことは無いと無視していると大輝は勝手に話を続ける。

「文化祭でカップルみたいなことしてたし、リュックにもお揃いのキーホルダーつけてるし、いつも一緒に帰ってるし…実は結構不安だったんですよね。でも俺の方が上みたいでよかったです」

 大輝はコートの中を軽やかに駆け回る薫を熱っぽい目で見つめながら言う。

「なんも知らねぇくせに」
「は?」

 俺の言葉に機嫌を損ねた大輝が低い声を発しながら俺を睨みつける。

「言っときますけど俺の方が佐野先輩との付き合いはずっと長いんですからね?俺の知らないことより清水先輩の知らないことの方がずっと多いと思いますよ。同い年だからって…」

 そうして大輝はまくし立てるが、監督の笛の音によってそれは中断された。

 苛立ちに任せて言葉を返してしまったが、確かに大輝は俺よりずっと薫から大切にされている。薫は大輝に対して良い先輩という仮面を外すことは無いが、俺だってもう一切素を見せてもらえないんだから、扱いで言えば明らかに俺の方が負けている。

 薫だけが欲しいと、俺の人生薫だけでいいとそう願ったが、もう薫も諦めなくちゃならないんだろうか。幸せを知ってしまった分離れるのはずっとつらいけど、幼い頃の俺にできたのだから耐えられないことはない気がする。また元の人生に戻るだけだ。

(あんなキスした後急に捨てられるなんて、予想外すぎてついていけねぇけど…)

 いや待て、本当に急だったのか?確かあの後すぐに薫の手引きで女から告白されたよな…
 あの時の薫が俺と同じくらい別れを恐れていたとしたら、薫なら傷が深くなる前に離れようと考えるかもしれない。だとすると別れを告げた時の薫の涙も納得がいく。

(もしかして俺が薫との関係性をあやふやなままにしてたから、不安になってたのか?)

 世間体を気にする薫は男の俺と恋人という関係になることは望んでいないと思っていた。それこそその関係を迫れば不都合だと捨てられるかと…それに俺は、関係に名前なんか付けなくても、ただ俺たちの思うままでいられればそれで満足だった。

 映画でも、両想いなのに相手の好意に確信を持てずすれ違う男女を何度も見たことがある。
 もしかしてそれなのか?

(だとすると、まだ諦めなくていいのかもしれない)

 そう思うと途端に世界に色がつき始め、俄然生きる気力が湧いてきた。
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